岡野絵里子『陽の仕事』(思潮社、2012年10月30日発行)
岡野絵里子『陽の仕事』はタイトルが象徴するように、光に満ちた詩集である。
巻頭の詩は「光について」。
書き出しの2行で私は夢中になってしまう。最近はこういう美しい行にはなかなか出合わない。書き出しから美しい詩というのは、昔、教科書で読んだ抒情詩くらいなものである。あのころは私も抒情詩が好きだった、というようなことを思い出したりする。
あ、岡野の詩とは関係ないか。
でも関係ないことを考えさせてくれる(感じさせてくれる)というのは、そのことばに「意味」以上の力があるからだ。だから、私は関係ないこと(書かれている意味以外のこと)を感じさせてくれる詩が好きだ。
で、この2行--自分の体が舟になって傾きながら夜の海へ流れていくような、不思議な感じにさせてくれる。眠りの中で体が舟になり、眠りそのものは広い広い海。そして、そこには昼の光ではなく、夜の光が輝いている。
その夜の光の前には、昼の光がある。それが2連目。
真昼の駐車場の豪華な光の反射。でも、そこには人はいない。人は「ここ」(岡野が見ている駐車場)ではなく、どこかにいる。その不思議な、静かな緊張のようなものもある。そういうことも、夜、ほどかれるのだ。眠りの中で。閉ざした瞼の奥に、静かに何かがやってくる。それにおされるように昼の光をこぼし、夜をつみこむ--小さな舟。
これは、岡野の詩とは無関係なこと(というか、書いていることとは違うこと)なのだが、そういう印象を私は最初の詩で感じた。
次の「陽の仕事」。
通勤の風景を書いているのかもしれないけれど(働きはじめるひとを励ますのが陽の仕事であるというのかもしれないけれど)、ここには最初の夜の詩とは逆の動きがあるね。「遠くから運ばれて」は単に距離の問題ではない。遠い夜の時間から運ばれて来るのである。そして、夜の時間を(夜の光を)静かにこぼすために、ひとは身をかたむける。それは傾いた肉体をまっすぐにするということかもしれないけれど。
陽の光、朝の光は人間をまっすぐにする。何かが私たちを包み、まっすぐにする。そのまっすぐになるという動きの中で、やはり「傾き」があり、何かがこぼれる。「どこか遠くに置いてきた心」へ向かって、まだ肉体のなかに残っている心がいそいで帰っていく。それが「心の痛み」。
そんなことを思っていたら、「紙の舟」。
最初に私が思い浮かべた「舟」が、こんなところで出てきた。しかも、ここにも「傾き」がある。
あ、と思う。
何かにふれているのだと思う。それは「意味」では説明できないものなのだが、こういう不思議な瞬間に、あ、この詩はいいなあという感想が生まれる。
それはおいておいて。
このことばに、私は、岡野の書いている「陽の仕事」が結晶していると感じる。「明るい」と「恐れ」はどちらかというと「矛盾」した感じである。「暗い」と「こわくなる」というのが普通である。「暗い」と何も見えない。だから「こわい(恐れる)」。「明るい」と安心である。
でも、岡野が書いているのは、そういうことではない。
「恐れ」そのものが、何かしら「明るい」ものをもっている。そういう「恐れ」を感じている。
では、「明るい恐れ」とは何?
よくわからないけれど、それを「昼」と「夜」とに関係づけて私が思うのは、「明るい恐れ」というのは「知っていること」なのだ。「昼」の体験が照らしだすもの、「昼」の体験が教えてくれるもの。
極端な例を書くが、たとえば人が死ぬ、その死と向き合う--これが「昼」の体験。つまり「夢」ではなく「現実」の体験。そして「体験」したからといって、それが「わかる」わけではない。人が死ぬ。でも、その死を人間は自分のものとしては体験できない--ということではないが、体験してしまったら、死は体験ではなくなってしまう。そういうことが「現実」にはあり、それを私たちは「昼」の体験として体験しているのだが、ほんとうにそう言える? 「昼」の体験なのに、死は「実感」ではなく、私たちが何事かを理解するために考え出した「概念」にも似ている。
体験しないことでも私たちは知ることができる。考えることができる。それがなぜなのか、それはわからない。そしてわからないまま、それをことばにすることもできる。
たぶん、ここに「詩」が誕生する「驚き」の瞬間があるのだと思う。
それを岡野は「明るい恐れ」ということば、「明るい(明るさ、陽)」ということばのなかに凝縮させている。
岡野絵里子『陽の仕事』はタイトルが象徴するように、光に満ちた詩集である。
巻頭の詩は「光について」。
眠りの中で人は傾く
昼の光を静かにこぼすために
書き出しの2行で私は夢中になってしまう。最近はこういう美しい行にはなかなか出合わない。書き出しから美しい詩というのは、昔、教科書で読んだ抒情詩くらいなものである。あのころは私も抒情詩が好きだった、というようなことを思い出したりする。
あ、岡野の詩とは関係ないか。
でも関係ないことを考えさせてくれる(感じさせてくれる)というのは、そのことばに「意味」以上の力があるからだ。だから、私は関係ないこと(書かれている意味以外のこと)を感じさせてくれる詩が好きだ。
で、この2行--自分の体が舟になって傾きながら夜の海へ流れていくような、不思議な感じにさせてくれる。眠りの中で体が舟になり、眠りそのものは広い広い海。そして、そこには昼の光ではなく、夜の光が輝いている。
その夜の光の前には、昼の光がある。それが2連目。
その日 私は沢山の光を抱いた
駐車場に並んだ無数の窓 その
一枚ずつに溜まった陽の蜜
無人の座席に張られた蜘蛛の糸を
渡って行ったきらめくビーズ
真昼の駐車場の豪華な光の反射。でも、そこには人はいない。人は「ここ」(岡野が見ている駐車場)ではなく、どこかにいる。その不思議な、静かな緊張のようなものもある。そういうことも、夜、ほどかれるのだ。眠りの中で。閉ざした瞼の奥に、静かに何かがやってくる。それにおされるように昼の光をこぼし、夜をつみこむ--小さな舟。
これは、岡野の詩とは無関係なこと(というか、書いていることとは違うこと)なのだが、そういう印象を私は最初の詩で感じた。
次の「陽の仕事」。
見えないものに 私たちはたやすく包まれる 光とか 声とか
それは どこか遠くに置いてきた心が痛むからなのか
あふれる光を目印に 一日の頁が折られた 陽のまじめな仕事
を 誰かが拾い上げたかのように
バスから次々と人が降りて来る 遠くから運ばれて 陽の下を散
らばっていく 呼ばれているのだ 一日の中へ
やがて 人の仕事も始まっていく
通勤の風景を書いているのかもしれないけれど(働きはじめるひとを励ますのが陽の仕事であるというのかもしれないけれど)、ここには最初の夜の詩とは逆の動きがあるね。「遠くから運ばれて」は単に距離の問題ではない。遠い夜の時間から運ばれて来るのである。そして、夜の時間を(夜の光を)静かにこぼすために、ひとは身をかたむける。それは傾いた肉体をまっすぐにするということかもしれないけれど。
陽の光、朝の光は人間をまっすぐにする。何かが私たちを包み、まっすぐにする。そのまっすぐになるという動きの中で、やはり「傾き」があり、何かがこぼれる。「どこか遠くに置いてきた心」へ向かって、まだ肉体のなかに残っている心がいそいで帰っていく。それが「心の痛み」。
そんなことを思っていたら、「紙の舟」。
その人はそっと腰かけた そこが世界の縁と知って 私も静かに
腰かける 世界の縁の反対側に 世界は穏やかに傾いた 私たちの
明るい恐れを乗せて
最初に私が思い浮かべた「舟」が、こんなところで出てきた。しかも、ここにも「傾き」がある。
あ、と思う。
何かにふれているのだと思う。それは「意味」では説明できないものなのだが、こういう不思議な瞬間に、あ、この詩はいいなあという感想が生まれる。
それはおいておいて。
明るい恐れ
このことばに、私は、岡野の書いている「陽の仕事」が結晶していると感じる。「明るい」と「恐れ」はどちらかというと「矛盾」した感じである。「暗い」と「こわくなる」というのが普通である。「暗い」と何も見えない。だから「こわい(恐れる)」。「明るい」と安心である。
でも、岡野が書いているのは、そういうことではない。
「恐れ」そのものが、何かしら「明るい」ものをもっている。そういう「恐れ」を感じている。
では、「明るい恐れ」とは何?
よくわからないけれど、それを「昼」と「夜」とに関係づけて私が思うのは、「明るい恐れ」というのは「知っていること」なのだ。「昼」の体験が照らしだすもの、「昼」の体験が教えてくれるもの。
極端な例を書くが、たとえば人が死ぬ、その死と向き合う--これが「昼」の体験。つまり「夢」ではなく「現実」の体験。そして「体験」したからといって、それが「わかる」わけではない。人が死ぬ。でも、その死を人間は自分のものとしては体験できない--ということではないが、体験してしまったら、死は体験ではなくなってしまう。そういうことが「現実」にはあり、それを私たちは「昼」の体験として体験しているのだが、ほんとうにそう言える? 「昼」の体験なのに、死は「実感」ではなく、私たちが何事かを理解するために考え出した「概念」にも似ている。
体験しないことでも私たちは知ることができる。考えることができる。それがなぜなのか、それはわからない。そしてわからないまま、それをことばにすることもできる。
たぶん、ここに「詩」が誕生する「驚き」の瞬間があるのだと思う。
それを岡野は「明るい恐れ」ということば、「明るい(明るさ、陽)」ということばのなかに凝縮させている。
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