詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小松弘愛『ヘチとコッチ』

2012-11-09 11:04:02 | 詩集
小松弘愛『ヘチとコッチ』(土曜美術社出版販売、2012年10月30日発行)

 小松弘愛『ヘチとコッチ』は「土佐の言葉」について書かれた3冊目の詩集。その土地、その土地のことばというのは、何か肉体を感じさせるものがある。ことばが耳のなかから肉の中まで入り込んで、奥底の何かを揺さぶるようなものがある。「古語」にも、そういうものを感じる。というか、ことばとはもともと肉体と密接な関係があって、その「肉」の部分が失われずにあるものなのかもしれない。
 「しつをうつ」は「水打ち」しているところに差しかかった小松が、その水を浴びてしまう。

「あっ、すいません。
しつをうってしまいました」
バケツを手にしている女の人は
その昔の「サザエさん」が年をとったような人
「いやぁ、暑いですねえ」
ブロック塀越しに見る庭の向日葵もうなだれていた

「しつをうつ」
あるいは
「しとをうつ」「しとをする」
漢字を宛てれば「湿を打つ」でよかろう

 そうなんだろうけれど。
 私は「尿(しと)」も瞬間的に思い浮かべた。芭蕉の「のみしらみ、うまがしとする……」ですね。
 で、その瞬間、土佐ことばの「しつをうつ」が、ものすごくなまめかしく「肉」に迫ってくる。人間と(肉体と)水の関係が、一瞬、わからなくなる。
 滝井孝作(だったと思う)の文章のなかに、男がいつも帰り道に立ち小便をする。そこを妻と二人でとおりかかったとき、「おまえもしてみろよ」と唆す。女は一瞬ためらうのだけれど、やってしまう。このときのことを、滝井孝作はながながとは書いていないが、何とも言えない「肉」の交歓のようなものがある。
 それを瞬間的に感じた。その感じが私の「肉」のなかで甦った。
 「水を打つ」では、こんなことは思わないなあ。
 で、ちょっと芭蕉の句にもどると。
 「うまがしとする」は単に旅のわびしい宿の状況を描いているだけではなく、「いきもの」のなまあたたかい交歓がそこにあるから、肉を揺さぶってひびいてくるのだな、と思うのである。わびしさよりも、生きていることの「ぬくもり」がある。
 「水を打つ」というのも、何か「いきもの」の「ぬくもり」とつながるところがあるかもしれない。クーラーで冷房するのとは違う、何か、生きているものが「循環」する動きがそこにはある。
 で、そういうことを考えながら(感じながら)つづきを読んでいく。
 数年前から高知市ではバケツで湿を打つ女性が増えたそうだ。

そのきびきびした動作を目で追っていると
絵心もないのに
「湿を打つ女」の構図を考えてみたりして

 小松にそういう気持ちがあったかどうかわからないけれど、私はここで「しとをうつ(しとをする、尿をする)」女を瞬間的に思い浮かべる。小松は、いや、それは違うと否定するかもしれないけれど、そういう「誤読」を誘う力がこのことばにある。(ことばに力があるのではなく、私にスケベな妄想をする癖があるのかもしれないが。)
 こういうとき、私は、ことばに魅力を感じる。古いことば、その土地でのこっていることばの奥にある「肉体」を感じる。「思想」を感じてしまう。それに、もっとふれたい、という気持ちになる。

 私の書いているのは、またまた詩の感想ではないかもしれない。
 何回も小松の「土佐ことば」の詩には感想を書いているので、まあ、いつものどおりの感想ではなく、こんなふうに逸脱していくのもいいかな、と思い書いているのだが。
 ことばの不思議なつながり、ことばが肉体を通り、そこを出ていくことで、ことばそのものが肉体になり、説明のしようのない形でひびいてくる。そういう作品をもうひとつあげるなら、「ふけりあめ」。

雨が降っている
「ふけりあめ」が降っている

『高知県方言辞典』には

ふけりあめ
 見せびらかすように降る雨

 あれっ、「ふける」っ方言? よく思い出せないが、なんとなく「みせびらかす」という感じでそのことばを聞いたような気がするのだが……。
 小松が最後に注釈で書いているけれど、「広辞苑」にも「他人に見せて誇る。みせびらかす」という具合に説明がでている。私はつかわないけれど「広辞苑」に出てくるくらいだから「方言」というものではないような気もするが。
 「方言」ではないなら。
 それは「方言」ではなく、昔からあることばが、そのままの形で土佐には生きている、ということになる。「方言」というようなものは実は存在しなくて、そこには「生きている肉体」があるだけなのだ。「生きつづけている肉体」と言い換えてもいい。
 なぜ、生きつづけたのかなあ。まあ、これはわからない。わからないけれど、あ、ここに何かが生きつづけている、と思うのは何かしら「肉」が励まされる感じがする。
 で、ここから、私の「誤読」。
 「ふける」というと私が思い浮かべるのは「心を注ぐ。没頭する。心を奪われる。自制心をなくす(広辞苑)」というようなものなのだけれど。
 これって、よくよく「肉体」と相談してみると(肉体の声を聞いてみると)、「見せびらかす」にどこか似ている。「心を注いだものを、見せびらかす」「心を奪われたものを、見せびらかす」「自制心をなくしたもの、もうそこには自分はいなくて、ただそれだけがあるというようなものを、見せびらかす」。見せびらかすものは、自分にとってとても大切なもの。
 豪快で、きらびやかだ。
 で、ね。
 私は少しはずかしいことを書くのだが、この「ふける」「みせびらかす」ということばの底を動いている力について考えたとき、そこに、さっき読んだばかりの「しと」がぎゅっと割り込んでくる。「湿」ではなく「尿」の「しと」が。「しと」につながる、セックスが。
 セックスに「ふける」。まあ、これは「自制心をなくす」ということかもしれないけれど、それを「没頭する、心を注ぐ」という具合に考えていくと、それはポルノにつながる。セックスは見せるものではないのかもしれないけれど、見せびらかすことができたら、それはそれで豪快で、きらびやかだねえ。実際、見せびらかしたいひともいるし、見せびらかすことで生活を支えているひともいる。勝新太郎のように「おれは鏡を見ながらオナニーができる」と言った激烈なナルシストもいる。
 激しく降る雨をただ「はげしく」と言うのではなく、その「激しさ」のなかに「心を注ぐ=見せびらかす」という「心理(肉体の奥の思想)」をくみ取り、それを「ことばの肉体」の奥に隠して、「土佐ことば」は生きつづけているのかもしれない。
 で、さらに「誤読=妄想」を暴走させると。
 「しとをうつ」「しつをうつ」「水を打つ」という女を、たとえば私ならどんな構図にするか。(小松は書いていないが……。)
 いい男(気に入っている男=小松)が毎朝家の前を通る。待ち伏せをするようにして水を打つ。「あ、ごめんなさい。ぬれました?」と服が濡れたのを口実に家に誘い込む--そういう「物語」がどこかに隠れていない? そのとき、「しつをうつ」の「しつ」はしらずしらずに「しと」と結びついている「肉体」にもつながっていく。そういうことを、男は(小松は、とはいわないのだが)、ひそかに思い描いたりする。

 --こんなことは、小松の詩集のテーマ(?)ではない。そう、たしかにテーマではないだろうし、そういうことは書いていないのだが、そういう書いていないことを感じさせるのが詩なのだ、と私は思っている。



詩集 のうがええ電車―続・土佐方言の語彙をめぐって
小松 弘愛
花神社
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