詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ブリングル『、そうして迷子になりました』(2)

2012-11-05 10:03:38 | 詩集
ブリングル『、そうして迷子になりました』(2)(思潮社、2012年10月10日発行)

 ブリングル『、そうして迷子になりました』はだんだん疲れてくる。読んでいて、だんだん読むのがつらくなってくる。
 私は最初何を書こうとしていたのか。
 ブリングル『、そうして迷子になりました』にはいろいろな「声」がまじりあっている。
 そう、書こうとしていた。
 そして、「いつだったどこかでおこっている」が特徴的だが--と書いて、あ、私はこの詩にブリングルを見て、それ以外の作品に向き合うときも、「いつかどこかで」に通い合うものを探していたのだ。だが、あらゆる作品に、あらゆる共通項があるというようなことはなくて、それで私がかってに(?)疲れてしまったのである。
 最初に書こうとしていたのは、こんなこと。

 画数の多い漢字に課された多重の意味は取
り立てられるからわたしはそんなの使わない
んだよ使わないままで生きていくよ今日もお
いしいごはんを食べてくたくたと眠るわたし
は合間あいまにせっくすをしたりしなかった
りきすはぺにすよりたいせつだよねとほこり
の浮かぶ朝に素直に打ち明けながらもっくり
と一日いちにちを掘り起こしていく農耕民族
なのです耕していくのです。

 「いろいろいな声」のすべてを取り上げているときりがないので。
 ひとつめ。「画数の多い漢字に課された多重の意味」。こういう「表現」は日常はつかわない。たとえば、この詩のなかに「せっくすしたりしなかったり」ということばがあるが、セックスをしているときは、こういうことばはどこか遠くにある。そして、日常的につかわないから、ブリングルは「わたしはそんなの使わない」と言っている。--言っているけれど、「使わない」というためにつかっている。これは「知っている」のだけど、それを否定するということだね。で、この「否定されることば」がひとつの「声」。
 ふたつめ。「きすはぺにすよりもたいせつだよね」。これは「画数の多い漢字に課された多重の意味」とは違って「流通言語」にはならない。えっ、キスよりペニスが大切だよ、あ、私は背中にふれてくる指の感触--とかなんとか、それぞれによって「思い」が違う。この「思い」は「肉体」ということでもある。肉体が違うから「たいせつ」が違う。すべてが一回かぎり。「おひとりさまかぎり」。相手が違えば「たいせつ」も違ってくる。「流通言語」に対して、これは何と呼ぶべきか。よくわからないが、「極詩的言語」になると思う。でも、不思議なことに、こういう「極詩的言語」は「画数の多い漢字に課された多重の意味」というようなことばよりも「わかる」。「それ、違うんじゃないの」という否定的な声がそれにつづいてでてきたとしても、それは「わかる」からそう反応するのである。何がわかるかというと「肉体」がわかるのである。書いたひと(ブリングル)の肉体と読者の肉体が出会い、読者自身の肉体がことばの「ただしさ(まちがい)」を即座に判断するという「わかる」。「画数の多い漢字に課された多重の意味」は、これに対して「頭」で「わかる(わかったようなつもりになる)」ことばである。
 で、この「わかる」と「わかったようなつもりになる」のあいだには、いろいろめんどうくさいことがある。そしてブリングルはその「わかったようなつもりになる」ことが「流通」し、世界を形作ることに対して「いつだっておこっている」ことになるのだけれど。
 そのとき、「自己主張」するのが、もうひとつの、ことば。
 この連では「もっくり」「くたくた」とあまりおもしろくない(印象的ではない?)ことばが書かれているのだけれど、別の連で言えば、

 ほんととか嘘とかいらないの。だってわた
しはぷすんぷすんと軽石みたいに酸素を孕ん
で今日もごきげんよかよかと過ごしている普
通のおんなのこですから

 ここに出てくる「ぷすんぷすん」。意味以前の音。これがみっつめ。
 これは「きすはぺにすよりたいせつだよね」が「肉体」の意味(主張)をつたえるのに対して、どんな「意味」もつたえない。
 あえていえば、それはiPS細胞のようなものだ。何にでもなる。つまり、そのことばは何にでも「接続」し、そのつながった先のことばをブリングルの「いろ」に染めてしまう。
 そして、その「染めるとき」、その「染め方」が奇妙な言い方だがブリングルのものでありながら、だれに対しても開かれている。「ぷすんぷすん」に「意味」はなく、ある肉体の感覚があるだけでなので、読んだ人はそれぞれの「ぷすんぷすん」をとおって「軽石」を自分仕様にすることができる。もちろん自分仕様といっても、それはブリングルのことばをとおってということなのだから、それは「誤解(誤読)」というものであって、ほんとうはブリングルの肉体にふれているのだ。
 「意味」ではなく、「意味以前」として肉体にふれ、そこから必要な(?)肉体(細胞)に変化していく。--ね、iPS細胞でしょ?(違っていたら、中山先生ごめんなさい。)
 こういうことばは「ざぬぅーん ざぬぅーん」(はかる)というオノマトペから、「シュガーレイズドハニーディップ」(わ)のような商品名まで様々だけれど、そういうことばを「共通の細胞の母胎」として「肉体」(きすはぺにすよりたいせつだよ、という声)をとおって育ち、それが「画数の多い漢字に課された多重の意味」という「頭の声(流通言語)」を叩き壊していく。
 こういう運動がブリングルの詩だな、と私は感じ、そう読んでいくのだが、だんだんこの「構図(?)」が構図通りにならない--つまり、私の「頭」からずれていく。
 で、あ、私は詩集の後半は「肉体」では読まずに「頭」で読んでしまっているなあ、と思うのだ。反省するのだ。つらくなるのは「頭」で読みはじめているからだね。
 ブリングルの詩集は、肉体を休ませながらゆっくり読まないと肉体で受け止めることができないのだ。体調もよくしてからでないと厳しいぞ、と反省した。








、そうして迷子になりました
ブリングル
思潮社
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