岡野絵里子『陽の仕事』(2)(思潮社、2012年10月30日発行)
岡野の詩を読んでいると、ときどき「何か」とすれ違う。「何か」としか言いようがないのは、その「何か」を岡野は追いかけず、別なものを追いかけるからである。そして私は岡野が追いかけているものではなく、別な「何か」を追いかける。
たとえば、「観覧車(ビッグ・ウィール)」。
私はこの部分が大好きだ。観覧車の小さな箱の中で「私」と「エイミー」がいる。そう気づいたとき、ふたりは「歌のように近づく」。
「歌のように近づく」というのは、どういうことか。「私」には「私のメロディーとリズム」があり、「エイミー」には「エイミーのメロディーとリズム」がある。それは別個の存在であるけれど、それが出合ったとき、どちらからともなく「和音」(ハーモニー)を求めるようにして変化が始まる。
人と人の出会いには、たしかにそういうものがある。
しかし、ほんとうは(?)、そうではないのだ。岡野の詩は私が書いたようなものを追いかけているわけではない。実は、この詩の2連目は次のような形をしている。
近づくのは「私」と「エイミー」ではなく、「何かの気配」である。
この瞬間、私は「見た」と感じたものを見失う。--これは私の誤読である。あ、間違えて読んでしまった、そうなのか。そう思うとき、その「そうなのか」には何かがっかりしたものがある。
どうして「何かの気配」なのかなあ。
このことばには「エイミーのメロディーとリズム」があり、それが「私」にまっすぐに近づいてくるのがわかる。あ、いいなあ、と思う。けれど、
「エイミー」は雪を天使の凍った羽根と見る。そして「私」は東京湾に散った光を、その散らばっている乱反射を天使の羽根と見る--という具合に「音楽」は響きあっている(響きあおうとしている)のだが……。
これが、なんとも「理詰め」すぎる感じがする。いや、「理詰め」で追いかけようとすると、天空にいる「私たち」が天使なのだから東京湾で散らばる光は「私たち」の羽根ではないことになる。羽根は舞わずに、海に漂っている、という具合に何か背中がむずむずするような「気配」を感じる。
と、書きながら、それでも岡野の詩を読んでしまうのは、ことばにどこか清潔なところがあって、それが全体のトーンを統一しているからだと思う。
岡野の詩には「光(陽)」があふれている。その光だけがもつ透明な清潔さが岡野を統一しているのかもしれない。
そう思う一方、違うことも私は感じる。
「インナーハウス」。
ここにたぶん「もうひとりの岡野」がいる。「光(陽)」は見える。見えるけれど、それはたいていの場合、透明で見えない。つまり太陽の光をそのまま表現することはできない。光が透明であるがゆえに、私たちは「もの」を見ることができる。「もの」は不透明であり、透明ではないからこそ、見える。--ここに「論理」で追い詰めようとするとめんどうくさいことが起きる「矛盾」がある。だから、私たちはふつうそういうものをいちいち追いかけたりはしない。単純に、光があるから何かが見えると思うだけである。
しかし、岡野はここで一瞬立ち止まっている。
何か「目に見えないものがある」。それは「光(陽)」とは違う。外から照らすことで存在を浮かび上がらせるものとは違うものが「家」にある。それは「内部」から支える力というものだろうけれど、まあ、具体的に追いかけるのはやめておく。そういうものも「光る」。
で、この「光る」は「光」とはどう違うのか。
むずかしいね。
説明するのはとてもむずかしいのだが、たしかに違うのだ。
すこし違うのだが、「聖夜」のなかに、動詞について書かれた行がある。そのことが岡野の考えをいくらか説明してくれるかもしれない。
この「動詞」と「形容詞」に対する「定義」が正しいかどうか、私は知らない。大事なのは、それが正しいかどうかではなく、岡野は「そう考える」という「事実」なのだ。
「動詞は重たい」。
だから、
この「光る」には、やはり「重さ」があるのだ。
きのう「明るい恐れ」ということばを取り上げたが、きっとその「明るい恐れ」は単純な「光」ではなく「光る」ものなのだ。「恐れ」が光っている。「明るい」という「形容詞」をまとっているが、ほんとうは「光っている」。
そこに「重さ」というか、「暗さ」に通じる何かがある。
この「明るい」「光(陽)」と「光る」が出会い、近づいたり離れたりする運動の中で岡野のことばは動いている。動いているから、その動いているものを追いかけると、ときどき岡野の追いかけているものと「ずれ」てしまう。けれど「ずれ」たからといって、それでは岡野が追いかけているものとは完全に違ったものにたどりつくのかというとそうでもないような気がする。
こういうあいまいな(?)気持ちになる詩というものが、私は、わりと好きである。
「帆」という作品には、うまく言えないが、私がいま書いてきた感想の「ゆらぎ」がいい感じに重なり合う--と私は思っている。
透明と輝きと暗さ(というより不透明ないのちの発光か)がなまなましく(?)というか、色っぽく、つまり「肉体」をもって、そこに存在している。
岡野の詩を読んでいると、ときどき「何か」とすれ違う。「何か」としか言いようがないのは、その「何か」を岡野は追いかけず、別なものを追いかけるからである。そして私は岡野が追いかけているものではなく、別な「何か」を追いかける。
たとえば、「観覧車(ビッグ・ウィール)」。
……チャム、 と小さな扉が閉まると 狭い箱の中で私たちは親
密になった フロリダから来たエイミーと 私と それから歌のよ
うに近づく
私はこの部分が大好きだ。観覧車の小さな箱の中で「私」と「エイミー」がいる。そう気づいたとき、ふたりは「歌のように近づく」。
「歌のように近づく」というのは、どういうことか。「私」には「私のメロディーとリズム」があり、「エイミー」には「エイミーのメロディーとリズム」がある。それは別個の存在であるけれど、それが出合ったとき、どちらからともなく「和音」(ハーモニー)を求めるようにして変化が始まる。
人と人の出会いには、たしかにそういうものがある。
しかし、ほんとうは(?)、そうではないのだ。岡野の詩は私が書いたようなものを追いかけているわけではない。実は、この詩の2連目は次のような形をしている。
……チャム、 と小さな扉が閉まると 狭い箱の中で私たちは親
密になった フロリダから来たエイミーと 私と それから歌のよ
うに近づく 何かの気配 アジアで一番大きい観覧車なのよ だか
ら乗りたかったのよ とエイミーは言い 箱は私たちを乗せ 静か
に投げ上げられた
近づくのは「私」と「エイミー」ではなく、「何かの気配」である。
この瞬間、私は「見た」と感じたものを見失う。--これは私の誤読である。あ、間違えて読んでしまった、そうなのか。そう思うとき、その「そうなのか」には何かがっかりしたものがある。
どうして「何かの気配」なのかなあ。
エイミーは長野で初めて見た雪のことを話す 凍った羽根が降っ
て来るの 信じられない量!
このことばには「エイミーのメロディーとリズム」があり、それが「私」にまっすぐに近づいてくるのがわかる。あ、いいなあ、と思う。けれど、
エイミーは長野で初めて見た雪のことを話す 凍った羽根が降っ
て来るの 信じられない量! でも今は私たちが天使の位置にいる
わけね 振り返ると 湾に散る光が見えた ああ あそこにも羽根
「エイミー」は雪を天使の凍った羽根と見る。そして「私」は東京湾に散った光を、その散らばっている乱反射を天使の羽根と見る--という具合に「音楽」は響きあっている(響きあおうとしている)のだが……。
でも今は私たちが天使の位置にいる
これが、なんとも「理詰め」すぎる感じがする。いや、「理詰め」で追いかけようとすると、天空にいる「私たち」が天使なのだから東京湾で散らばる光は「私たち」の羽根ではないことになる。羽根は舞わずに、海に漂っている、という具合に何か背中がむずむずするような「気配」を感じる。
と、書きながら、それでも岡野の詩を読んでしまうのは、ことばにどこか清潔なところがあって、それが全体のトーンを統一しているからだと思う。
岡野の詩には「光(陽)」があふれている。その光だけがもつ透明な清潔さが岡野を統一しているのかもしれない。
そう思う一方、違うことも私は感じる。
「インナーハウス」。
見えないものが光る それは私がよく知っている家だ 眼の底
で 光っているのは 幻の門柱と車寄せの奥に見え始めているの
は 夜ごと建てられ 夜ごと壊される家 釘の音が叫び声のように
響き 古びた部屋たちが 揺れて重なり合う家
ここにたぶん「もうひとりの岡野」がいる。「光(陽)」は見える。見えるけれど、それはたいていの場合、透明で見えない。つまり太陽の光をそのまま表現することはできない。光が透明であるがゆえに、私たちは「もの」を見ることができる。「もの」は不透明であり、透明ではないからこそ、見える。--ここに「論理」で追い詰めようとするとめんどうくさいことが起きる「矛盾」がある。だから、私たちはふつうそういうものをいちいち追いかけたりはしない。単純に、光があるから何かが見えると思うだけである。
しかし、岡野はここで一瞬立ち止まっている。
何か「目に見えないものがある」。それは「光(陽)」とは違う。外から照らすことで存在を浮かび上がらせるものとは違うものが「家」にある。それは「内部」から支える力というものだろうけれど、まあ、具体的に追いかけるのはやめておく。そういうものも「光る」。
で、この「光る」は「光」とはどう違うのか。
むずかしいね。
説明するのはとてもむずかしいのだが、たしかに違うのだ。
すこし違うのだが、「聖夜」のなかに、動詞について書かれた行がある。そのことが岡野の考えをいくらか説明してくれるかもしれない。
「悲しみ」と「悲しさ」では 深さが違う なぜなら
「悲しみ」は「悲しむ」という動詞の名詞化で
「悲しさ」は「悲しい」という形容詞が名詞化したものだからだ
と書かれた文章を読んだ そうだ確かに 動詞は実感を伴って重
く 形容詞は客観性批評性をまとって身軽なのだ
この「動詞」と「形容詞」に対する「定義」が正しいかどうか、私は知らない。大事なのは、それが正しいかどうかではなく、岡野は「そう考える」という「事実」なのだ。
「動詞は重たい」。
だから、
見えないものが光る それは私がよく知っている家だ
この「光る」には、やはり「重さ」があるのだ。
きのう「明るい恐れ」ということばを取り上げたが、きっとその「明るい恐れ」は単純な「光」ではなく「光る」ものなのだ。「恐れ」が光っている。「明るい」という「形容詞」をまとっているが、ほんとうは「光っている」。
そこに「重さ」というか、「暗さ」に通じる何かがある。
この「明るい」「光(陽)」と「光る」が出会い、近づいたり離れたりする運動の中で岡野のことばは動いている。動いているから、その動いているものを追いかけると、ときどき岡野の追いかけているものと「ずれ」てしまう。けれど「ずれ」たからといって、それでは岡野が追いかけているものとは完全に違ったものにたどりつくのかというとそうでもないような気がする。
こういうあいまいな(?)気持ちになる詩というものが、私は、わりと好きである。
「帆」という作品には、うまく言えないが、私がいま書いてきた感想の「ゆらぎ」がいい感じに重なり合う--と私は思っている。
透明と輝きと暗さ(というより不透明ないのちの発光か)がなまなましく(?)というか、色っぽく、つまり「肉体」をもって、そこに存在している。
早朝のベランダで
シャツは目を覚ます
後ろ身頃をちょっと伸ばし
遠くを見るような仕草をして
人は シャツよりほんの少し早く目覚めただけ
古い夢から起き上がり
眼鏡を探し
新しい夢を読んで
食物の脂を滲ませて
人の体は甘く 重い
だが ベランダに立てば
帆となって一日をはらむ
家々の輪郭を鮮やかにする青
その奥で瞬く静かな瞳
それら決して届かないものの下
人は見えない水を分けて進み
密やかな望みにはためく
陽の仕事 | |
岡野 絵里子 | |
思潮社 |