ブリングル『、そうして迷子になりました』(思潮社、2012年10月10日発行)
ブリングル『、そうして迷子になりました』も「音」が肉体に迫ってくる。たとえば「はかる」の1連目。
「意味(ストーリー)」があるのか、ないのか。あろうが、なかろうが、どうでもいい--と書いてしまうと、まあブリングルには申し訳ないことになるが、私はブリングルの書いている「意味」を無視して勝手に読む。
「とったん、とったん」は雨音なのか。そうであるなら、それはトタン屋根の上に落ちる雨音に違いない、というような「だじゃれ(?)」から始まり、それにつづく「わたくしの渇いた部分」から、なぜか、一気にセックスを想像するのである。
で、なぜセックスを想像するかというと、トタン屋根から私は家畜小屋(豚小屋、牛小屋、鶏小屋)のようなものを思い、藁の匂いだとか、排泄物の匂いだとか、あたたかい匂いを感じ、また、そこから「納屋」なんかもついつい思い浮かべる。そこは「夫婦」のセックスの場所にはふさわしくないが、そして「恋人」のセックスの場所にはもっとふさわしくないかもしれないけれど、ふさわしくないからこそ、そこでセックスをしてしまう。そうすると、そういう「汚れた(?)」の場所が一気に「純潔」の場所に変わるような、何事かが起きる。
そんなことは、ブリングルはここでは書いてはいないのだけれど。
書いていなからこそ、私は、そこに書かれていないことを書き加え、勝手に想像するのである。
とはいいながら、やっぱり書いてはいないので、書かれていることばにも引き戻され、そうか、この詩に登場する「わたくし」は実際にはセックスはしないけれど、でもセックスは想像するんだろうなあ、と軌道修正(?)したりする。
セックスしてしまえば「むずむず」ではなくなるんだろうけれどね。何か、エクスタシーにたどりつけないもどかしさ、ほら、そこにあるのに、という感じが「さきんちょ」「さき/んちょ」ということばの「先」にある。わかってるのに、それが自分のものにならないもどかしさのうよなもの。それが「肉体」のなかに動きはじめる。
これは何だろう。
の「変形(?)」したことばかなあ。
は「指先がめくれてきま」まで言って、「せん」と言おうとして、それがひっくりかえったのかなあ。「きません」と「きます」をいっしょに言うと、そういう「声」になるのかなあ。
「きません」(否定)、「きます」(肯定)がいっしょになるというのは「矛盾」だけれど、そういう「矛盾」というのは「肉体」のなかにある。どっちかわからない。そういうものが、「肉体」なのかで人間を動かしている。
私はスケベなのでまたセックスを持ち出してしまうが、エクスタシーの瞬間を「死ぬ」(行く)というのは、この「きま つん」の矛盾の結びつきに似ている。「死ぬ」(行く)ではなく「生まれる」(私はここにいて、私ではないだれかが私をおきざりにして行ってしまう)なのだが、それを私たちは「死ぬ」(行く)と習慣的(?)に言う。
変だねえ。
変だけれど、私たちはなぜか、そういう矛盾を納得してしまっている。
さらに(?)変なのは、こういうことばというのは「国語」が違っても「そっくり」ということだね。英語なら「I'm coming」、スペイン語なら「me voy」。日本語の感覚は英語よりもスペイン語に近いか。英語では「来る」と「行く」が奇妙にすれ違うからね、日本語とは。--で、その「すれ違い」が逆に、何か「肉体」の共通性を感じさせもするのだけれど。
ブリングルの詩の感想から脱線してしまったようだけれど。
そうでもないかもしれない。
ブリングルのことばは「明確な意味」を拒んでいる。「流通言語」(意味の確立したことば)を拒んでいるところがある。そんなことばでは、自分の気持ちは言えないという怒りがどこかにあって、それがことばを動かしている。
「いつだってどこかでおこっている」というタイトルの書き出し。
「言葉に押し倒されて」にブリングルの「抗議」のようなものが感じられるが、まあ、それはもう書かなくてもいいかな。
私がこの部分で気に入ったのは「ぷすんぷすんと軽石みたいに」の「ぷすんぷすん」。あ、なるほど、そういう感じだね。納得したのだ。肉体が、そして耳が。「ぷすんぷすん」はもちろん聞こえない音である。聞こえない音なのに「ぷすんぷすん」と書かれたとき、耳(鼓膜)ではなく、もっともっと体の奥にあるほんとうの耳(これを私は「肉耳」と呼ぶことがある)にはっきり聞こえる音である。
こういう「音」をはっきり聞き取り、ことばにする肉体はすごい。無防備に信じてしまっていい。無防備に信じてしまうというのは、変な言い方なのだが、別な言い方で言うなら、丸裸でつきあっていい、ということになるかもしれない。
私が無防備になれるのは、そういうことばといっしに生きているブリングルが無防備であるということかもしれない。
で、この無防備がなぜ信じていいかというと、無防備な人間の「暴力」というのは「肉体」の暴力そのものであり、肉体を越えないから、どんなに暴力的であってもそれはだれかを殺さない。傷つけるということも、ほんとうは、ない。だれかを傷つけるとわかった瞬間に、肉体の暴力は、ふっと手をとめる。肉体は自分の「限界」を無意識に知っていて、それがブレーキをかけるのである。
「氾濫した言葉」というような「流通言語」を「そうですかほーけーですか」という俗な肉体のことばで叩き、「アイロンで皺を伸ばすけれど一度ついた道筋はそんなに簡単に手放せない(消えない)」という暮らしに根ざしたことばで叩き、「ほじくったりまさぐったり」という「肉体の動き」そのものの強さを残していく--そのことばの動きに、その音の強さに、音を生きている肉体はいいなあ、と思うのである。
「意味」ではなく、「音」を前に押し出してことばが動いている部分が、とても強い、その強さを気持ちよく感じるのである。
ブリングル『、そうして迷子になりました』も「音」が肉体に迫ってくる。たとえば「はかる」の1連目。
あめ
が、
とったん、とったんと
穿ちますのでしばしわたくしは
わたくしの渇いた部分を探し
やねのしたに逃げ込みました
まにあった身体
安堵して歩く
すんすんと歩く
足のゆびさきんちょ、
むずむずとさきんちょ
とりわけ親指さき
んちょ、
むずむずと
足の指痛んでくる
つんつんと痛み増す
指先がめくれてきま つん
「意味(ストーリー)」があるのか、ないのか。あろうが、なかろうが、どうでもいい--と書いてしまうと、まあブリングルには申し訳ないことになるが、私はブリングルの書いている「意味」を無視して勝手に読む。
「とったん、とったん」は雨音なのか。そうであるなら、それはトタン屋根の上に落ちる雨音に違いない、というような「だじゃれ(?)」から始まり、それにつづく「わたくしの渇いた部分」から、なぜか、一気にセックスを想像するのである。
で、なぜセックスを想像するかというと、トタン屋根から私は家畜小屋(豚小屋、牛小屋、鶏小屋)のようなものを思い、藁の匂いだとか、排泄物の匂いだとか、あたたかい匂いを感じ、また、そこから「納屋」なんかもついつい思い浮かべる。そこは「夫婦」のセックスの場所にはふさわしくないが、そして「恋人」のセックスの場所にはもっとふさわしくないかもしれないけれど、ふさわしくないからこそ、そこでセックスをしてしまう。そうすると、そういう「汚れた(?)」の場所が一気に「純潔」の場所に変わるような、何事かが起きる。
そんなことは、ブリングルはここでは書いてはいないのだけれど。
書いていなからこそ、私は、そこに書かれていないことを書き加え、勝手に想像するのである。
とはいいながら、やっぱり書いてはいないので、書かれていることばにも引き戻され、そうか、この詩に登場する「わたくし」は実際にはセックスはしないけれど、でもセックスは想像するんだろうなあ、と軌道修正(?)したりする。
足のゆびさきんちょ、
むずむずとさきんちょ
とりわけ親指さき
んちょ、
むずむずと
セックスしてしまえば「むずむず」ではなくなるんだろうけれどね。何か、エクスタシーにたどりつけないもどかしさ、ほら、そこにあるのに、という感じが「さきんちょ」「さき/んちょ」ということばの「先」にある。わかってるのに、それが自分のものにならないもどかしさのうよなもの。それが「肉体」のなかに動きはじめる。
つんつんと痛み増す
指先がめくれてきま つん
これは何だろう。
つんつんと痛みます
指先がめくれてきま す
の「変形(?)」したことばかなあ。
指先がめくれてきま つん
は「指先がめくれてきま」まで言って、「せん」と言おうとして、それがひっくりかえったのかなあ。「きません」と「きます」をいっしょに言うと、そういう「声」になるのかなあ。
「きません」(否定)、「きます」(肯定)がいっしょになるというのは「矛盾」だけれど、そういう「矛盾」というのは「肉体」のなかにある。どっちかわからない。そういうものが、「肉体」なのかで人間を動かしている。
私はスケベなのでまたセックスを持ち出してしまうが、エクスタシーの瞬間を「死ぬ」(行く)というのは、この「きま つん」の矛盾の結びつきに似ている。「死ぬ」(行く)ではなく「生まれる」(私はここにいて、私ではないだれかが私をおきざりにして行ってしまう)なのだが、それを私たちは「死ぬ」(行く)と習慣的(?)に言う。
変だねえ。
変だけれど、私たちはなぜか、そういう矛盾を納得してしまっている。
さらに(?)変なのは、こういうことばというのは「国語」が違っても「そっくり」ということだね。英語なら「I'm coming」、スペイン語なら「me voy」。日本語の感覚は英語よりもスペイン語に近いか。英語では「来る」と「行く」が奇妙にすれ違うからね、日本語とは。--で、その「すれ違い」が逆に、何か「肉体」の共通性を感じさせもするのだけれど。
ブリングルの詩の感想から脱線してしまったようだけれど。
そうでもないかもしれない。
ブリングルのことばは「明確な意味」を拒んでいる。「流通言語」(意味の確立したことば)を拒んでいるところがある。そんなことばでは、自分の気持ちは言えないという怒りがどこかにあって、それがことばを動かしている。
「いつだってどこかでおこっている」というタイトルの書き出し。
ほんととか嘘とかいらないの。だってわた
しはぷすんぷすんと軽石みたいに酸素を孕ん
で今日もごきげんよかよかと過ごしている普
通のおんなのこですから言葉に押し倒されて
も固く閉じた身体を投げ出してされるがまま
でいるおぼこなだらしのないおんなのこでし
かないのです。
「言葉に押し倒されて」にブリングルの「抗議」のようなものが感じられるが、まあ、それはもう書かなくてもいいかな。
私がこの部分で気に入ったのは「ぷすんぷすんと軽石みたいに」の「ぷすんぷすん」。あ、なるほど、そういう感じだね。納得したのだ。肉体が、そして耳が。「ぷすんぷすん」はもちろん聞こえない音である。聞こえない音なのに「ぷすんぷすん」と書かれたとき、耳(鼓膜)ではなく、もっともっと体の奥にあるほんとうの耳(これを私は「肉耳」と呼ぶことがある)にはっきり聞こえる音である。
こういう「音」をはっきり聞き取り、ことばにする肉体はすごい。無防備に信じてしまっていい。無防備に信じてしまうというのは、変な言い方なのだが、別な言い方で言うなら、丸裸でつきあっていい、ということになるかもしれない。
私が無防備になれるのは、そういうことばといっしに生きているブリングルが無防備であるということかもしれない。
で、この無防備がなぜ信じていいかというと、無防備な人間の「暴力」というのは「肉体」の暴力そのものであり、肉体を越えないから、どんなに暴力的であってもそれはだれかを殺さない。傷つけるということも、ほんとうは、ない。だれかを傷つけるとわかった瞬間に、肉体の暴力は、ふっと手をとめる。肉体は自分の「限界」を無意識に知っていて、それがブレーキをかけるのである。
ほら4Bの鉛筆でこくりここくりことなぞ
るフォルムはもう線なんかじゃないよ。
一筆書きができないで、ほじくったりまさ
ぐったりしているうちに鮮度の悪くなった文
字たちでおなかがはじけるくらい蓄えた皮が
つっぱっているそうですかほーけーですか脳
みそまで皮かむりして氾濫した言葉、繰り返
す洪水、お戯れ、もう一切合切のーさんきゅ
ーだよとアイロンで皺を伸ばすけれど一度つ
いた道筋はそんなに簡単に手放せない、
「氾濫した言葉」というような「流通言語」を「そうですかほーけーですか」という俗な肉体のことばで叩き、「アイロンで皺を伸ばすけれど一度ついた道筋はそんなに簡単に手放せない(消えない)」という暮らしに根ざしたことばで叩き、「ほじくったりまさぐったり」という「肉体の動き」そのものの強さを残していく--そのことばの動きに、その音の強さに、音を生きている肉体はいいなあ、と思うのである。
「意味」ではなく、「音」を前に押し出してことばが動いている部分が、とても強い、その強さを気持ちよく感じるのである。
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