今西富幸「風景抄」ほか(「イリプスⅡnd」10、2012年11月20日発行)
私はいま風邪をひいている。ということと、詩の感想は無関係かもしれないけれど、関係があるかもしれない。私は肉体の変化はかならずことばにあらわれるからである。で、今回の私の風邪はとてもかわっている。熱がない。それなのに猛烈に寒けがするのである。とくに背中が寒い。そして関節がじわりと痛い。私はだいたい熱に弱くて熱が出ると関節が激しく痛む。キーボードも打てないくらいに痛む。今回はそうではないのだが、指が重たい。
で、こういう状態で詩を読むと、どんな具合にことばが動くのかなあ……。
今西富幸「風景抄」の「夜空」。
このリズムが肉体になじむ。息の長い文体は苦しいが、短い呼吸は体調にあう。
そして、この「思い出す」を「うらがえる」と言いなおすときの感じが、「肉体」の奥からことばを探すようで、不思議になっとくできる。「思い出す」というのは「にくたい」をひっくりかえすこと、そのとき「肉体」はうらがえる。確かにそう思う。そうすると何かが「沸き上がる」。その「沸き上がる」ものを「発見する」。「思い出す」というのは「発見」だね。「発見」できるのは、すでに「存在するもの」、ということは「思い出す」ことにほかならない。
あ、いま、私が求めているのは、こういう「肉体」の静かな、しかし、何か新しい変化なんだなあと思う。
ここに書かれていることは、じっくり考えると「非論理的」である。「思い出す」とは「すでに存在するもの(存在したもの)」を「発見する」ことである。1連目はそう読むことができる。
だが2連目で今西は「そのようなものは存在しなかった」と「存在した」ということを否定している。
でも、そうなのかな?
「思い出す」と「発見する」を結びつけることも、実は、「ことばの経済学」からいうと矛盾している。「思い出す=発見する」は「流通言語」の定義にはなじまない。つまり「辞書」には採用されない定義である。
だが「思い出す」は間違いなく「発見する」なのである。
「かつての僕」にはそれは「存在しなかった」とは、「かつての僕には発見できなかった」ということである。そしてそれが「知らなかった」ということなのである。「いま/ここ」にあるものをだれもが正確に「知っている」わけではない。それはあとになって「発見する=思い出す」ということがある。
そして、「思い出す」とは、あるいは「発見する」とは、必ずしも「目を開いて」何かをつかむことではない。「僕はすこし目を閉じる」。そうすると、そこに「しばらく途切れていた物音」がある。目が働くことをやめ、耳が働く。そのいれかわり--肉体の「うらがえり」の、その運動に誘われるように、「かつての僕」が見落としていたものが、聞くという肉体の力を借りて「沸き上がる」。
ことばは「肉体」を通るとき、確かに何かをつかみ取る。
だからこそ、「からだ」は大切なのだ。
健康なとき、この詩はどんなふうに響いてくるか--それは、また別の問題かもしれないが、そんなことを考えた。
*
倉橋健一「生きる」。この詩は病気のときに読むのはちょっとつらい。
ひとは言ったことを何度も反復する。言いなおす。言い直しながら、最初のことばをとらえなおす--という構造は、今西の「夜空」とおなじである。「赤ん坊」と「山姥」のあいだをことばが往復しながら、何かを「発見する」。イメージを結晶化させる。
「完全不完全燃焼」ということばが象徴的だが、「完全」な「不完全燃焼」というのは矛盾であり、同時に矛盾であることによって「絶対的なこと」になる。「絶対的なもの」ではなく、「こと」と私は考えている--と書いて。
なぜ、倉橋の書いていることばが、いまの私の体調には苦しいかがよくわかる。
「考える」。考えてしまう。そうだねえ。体調が悪いときは考えてはいけないのだ。
だいたい、こういう「息の長い」文体は、風邪のように呼吸困難な人間が読むのにはふさわしくないなあ。私は黙読だけで音読はしないのだが、
こういう行のわたりは、とても苦しい。
この「わたり」に倉橋のことばの「息の長さ」の特徴があると思うとなおさら苦しい。体調の悪いときには読む詩を選ばなければならない。
とかなんとか言いながら、
この1行の「転調」は気に入っている。そこだけ「一息」つける。「肉体」で受け止めることができる。「長ったらし」くない「退屈」なんて、つまり「短い退屈」なんて、それこそ「詩のことば」にしかないのだろうけれど、そのことが逆に「長ったらしい退屈」こそが「新しい詩」なのだと、私のいまの肉体には響いてくる。
病気のとき、詩はどんなふうに見えてくるか、というようなことを書き留めてみると、それはそれでおもしろいかなあ。
私はいま風邪をひいている。ということと、詩の感想は無関係かもしれないけれど、関係があるかもしれない。私は肉体の変化はかならずことばにあらわれるからである。で、今回の私の風邪はとてもかわっている。熱がない。それなのに猛烈に寒けがするのである。とくに背中が寒い。そして関節がじわりと痛い。私はだいたい熱に弱くて熱が出ると関節が激しく痛む。キーボードも打てないくらいに痛む。今回はそうではないのだが、指が重たい。
で、こういう状態で詩を読むと、どんな具合にことばが動くのかなあ……。
今西富幸「風景抄」の「夜空」。
夜の空がとてつもなく大きな顔に見えた時
僕はふっと思い出す
僕はふっとうらがえる
僕はふっと沸き上がる
僕はひとつのものを発見する
このリズムが肉体になじむ。息の長い文体は苦しいが、短い呼吸は体調にあう。
そして、この「思い出す」を「うらがえる」と言いなおすときの感じが、「肉体」の奥からことばを探すようで、不思議になっとくできる。「思い出す」というのは「にくたい」をひっくりかえすこと、そのとき「肉体」はうらがえる。確かにそう思う。そうすると何かが「沸き上がる」。その「沸き上がる」ものを「発見する」。「思い出す」というのは「発見」だね。「発見」できるのは、すでに「存在するもの」、ということは「思い出す」ことにほかならない。
あ、いま、私が求めているのは、こういう「肉体」の静かな、しかし、何か新しい変化なんだなあと思う。
しばらくとぎれていた物音が突然戻ったのだ
僕はすこし目を閉じる
でも
かつての僕のどのあたりにも
そのようなものは存在しなかった
こんなにも側にいて
何も知らなかったとは
ここに書かれていることは、じっくり考えると「非論理的」である。「思い出す」とは「すでに存在するもの(存在したもの)」を「発見する」ことである。1連目はそう読むことができる。
だが2連目で今西は「そのようなものは存在しなかった」と「存在した」ということを否定している。
でも、そうなのかな?
「思い出す」と「発見する」を結びつけることも、実は、「ことばの経済学」からいうと矛盾している。「思い出す=発見する」は「流通言語」の定義にはなじまない。つまり「辞書」には採用されない定義である。
だが「思い出す」は間違いなく「発見する」なのである。
「かつての僕」にはそれは「存在しなかった」とは、「かつての僕には発見できなかった」ということである。そしてそれが「知らなかった」ということなのである。「いま/ここ」にあるものをだれもが正確に「知っている」わけではない。それはあとになって「発見する=思い出す」ということがある。
そして、「思い出す」とは、あるいは「発見する」とは、必ずしも「目を開いて」何かをつかむことではない。「僕はすこし目を閉じる」。そうすると、そこに「しばらく途切れていた物音」がある。目が働くことをやめ、耳が働く。そのいれかわり--肉体の「うらがえり」の、その運動に誘われるように、「かつての僕」が見落としていたものが、聞くという肉体の力を借りて「沸き上がる」。
ことばは「肉体」を通るとき、確かに何かをつかみ取る。
だからこそ、「からだ」は大切なのだ。
健康なとき、この詩はどんなふうに響いてくるか--それは、また別の問題かもしれないが、そんなことを考えた。
*
倉橋健一「生きる」。この詩は病気のときに読むのはちょっとつらい。
老いさらばえ唐辛子になった赤ん坊
罅が入った浅いカリガラスの皿に
レタスに包まれよごれている
軋る音にも気づかない
落ちてきた雷鳴(かみなり)も天窓でにやりひと休み
山姥に似た目つきでしきりに覗き込んでいる
ああ何という長ったらしい退屈だ
としどけなく醒めている
日がしずみ(おきまりの)闇になる
寝息までが老いさらばえている
静寂もついには溜息と言葉を替える
完全不完全燃焼のまんまの雷鳴
に映される赤ん坊そのときばかりはほんとうに翁になる
ひとは言ったことを何度も反復する。言いなおす。言い直しながら、最初のことばをとらえなおす--という構造は、今西の「夜空」とおなじである。「赤ん坊」と「山姥」のあいだをことばが往復しながら、何かを「発見する」。イメージを結晶化させる。
「完全不完全燃焼」ということばが象徴的だが、「完全」な「不完全燃焼」というのは矛盾であり、同時に矛盾であることによって「絶対的なこと」になる。「絶対的なもの」ではなく、「こと」と私は考えている--と書いて。
なぜ、倉橋の書いていることばが、いまの私の体調には苦しいかがよくわかる。
「考える」。考えてしまう。そうだねえ。体調が悪いときは考えてはいけないのだ。
だいたい、こういう「息の長い」文体は、風邪のように呼吸困難な人間が読むのにはふさわしくないなあ。私は黙読だけで音読はしないのだが、
ああ何という長ったらしい退屈だ
としどけなく醒めている
完全不完全燃焼のまんまの雷鳴
に映される赤ん坊そのときばかりはほんとうに翁になる
こういう行のわたりは、とても苦しい。
この「わたり」に倉橋のことばの「息の長さ」の特徴があると思うとなおさら苦しい。体調の悪いときには読む詩を選ばなければならない。
とかなんとか言いながら、
ああ何という長ったらしい退屈だ
この1行の「転調」は気に入っている。そこだけ「一息」つける。「肉体」で受け止めることができる。「長ったらし」くない「退屈」なんて、つまり「短い退屈」なんて、それこそ「詩のことば」にしかないのだろうけれど、そのことが逆に「長ったらしい退屈」こそが「新しい詩」なのだと、私のいまの肉体には響いてくる。
病気のとき、詩はどんなふうに見えてくるか、というようなことを書き留めてみると、それはそれでおもしろいかなあ。
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