詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

疋田龍乃介『歯車vs丙午』(2)

2012-11-03 11:13:47 | 詩集
疋田龍乃介『歯車vs丙午』(2)(思潮社、2012年10月20日発行)

 疋田龍乃介『歯車vs丙午』には豆腐が登場する詩がある。きのう読んだ「豆腐冥府」のほかに「豆腐系譜」「豆腐慈雨」。そのどれもがおもしろい。なぜおもしろいかというと、豆腐というものが私になじみがあるからだ。豆腐を知っているからだ。そしてその私の知っている豆腐と疋田の書く豆腐がどこか違っている。で、どこが違っているかというと、実に簡単。私はそういう豆腐を知っていたが、そのことを「ことば」にしてきたことがなかった。別な表現でいうと、豆腐を考えるとき、疋田の考えるようなことは、豆腐から「除外」していた。その、私が除外していた豆腐の「過去」が疋田のことばのなかで動き、「過去」が「いま/ここ」になる。存在感のある役者が舞台にでてきたときのように。
 で、その「過去」には、疋田の場合、不思議な「音」がまじりこむ。
 タイトルの「豆腐冥府」「豆腐系譜」「豆腐慈雨」自体、とー「ふ」めー「ふ」、とー「ふ」けー「ふ」、とー「ふ」じ「う(ふ)」と、楽しい韻を踏んでいる。最後の「じう」の「う」に「ふ」を感じるのは、「思ふ(う)」のような動詞の活用が日本語にあるからかな? まあ、こんなことは、「感覚の意見」。

ひもとくよ
系譜にてらされて
ふるふい丘まえで
ほざく大豆はひぐまの
指のさきさ

 これは「豆腐系譜」の冒頭。「豆腐」の「系譜」が丘の前(ふもと?)の大豆から語られるのであるのだが、「ふるふい丘」か。「ふるうい丘」「ふるーい丘」。「ふ」と「う」と「ー(長音)」のゆらぎが、肉体の奥を揺さぶる。頭で理解していることではなく、肉体で覚えているものを動かす。肉体で覚えているものの、さらに「過去」を突き動かす感じだなあ。だから(?)、私は野生の熊(ひぐま)は見たことがないのだけれど、そうか、むかしは熊が大豆を食べにくるということもあったかもしれないなあ、と想像したりする。そこには、まあ、私の知らない「豆腐」の「過去」があるのだけれど、その「過去」をそこに置いておいて、

さきそらさっさ
ゆでられて順にはべる
白乳のからでできたうつわよ
おあまえも系譜にはいれるから
ひじで隠れていたおからのからい
からくやける豆腐の蒸気する
先祖のあじからひもとくよ

 大豆を「ゆでる」、豆乳(白い色をしている乳)=「白乳」、「おから」、「蒸気」が「豆腐の製造過程=過去」となって肉体を揺り動かす。
 「先祖のあじからひもとくよ」は「先祖の味から繙くよ」ということだろう。「味」を手がかりに「豆腐の過去」を見てみる、ということなんだろうなあ。
 それはそれで、「詩の構図」、芝居でいうと「ストーリー」のようなもの、これから展開していく世界のひとつの「指針」のようなものなのだが。
 それよりも、

さきそらさっさ

 これ、わからないね。わからないけれど、その前の「指のさきさ」の音と響きあってとても楽しい。むりに「意味(ストーリー)」を考えるなら、咲き揃った、じゃなく実りそろった大豆を「そら、さっさ」と「ゆでる」へつながっていくのかもしれない。豆腐をてきぱきとつくる、そのときの人間の動き、掛け声がここにまじりこんでいるかもしれない。そんなことは疋田は書いてはいないのだが、農作業をしたことのある私の「からだ」は「そら」という掛け声も「さっさ」というはげまし(叱り?)も覚えていて、豆腐をつくっているひとの姿を思い浮かべるのである。豆腐には、そういう「仕事の味」がある。なにか仕事をするとき、そこには「声」が同時に動いている。「声」は「からだ」をはげますものである。仕事にとっての、いわば「必然」のようなもの。
 私は疋田の「経歴」を知らないけれど、疋田のまわりには、そういう「声」と「からだ」と「仕事」をつなぐ「先祖」がいたんだろうなあ、と思う。

 「か」くれていたお「から」の「から」い/「から」くやける

 という音の楽しさもいいなあ。「から」だけではなく、「く」「け」も重なって、「か行」がうれしい。これは、その前の、はいれる「から」からはじまっているのかもしれないけれどね。

ゆるい波が枝をわたって
さきそらほてるよ
ほっほ、先祖は情婦に豆をゆで
まるでビーンズとダーイズが
ちがう片目をつむりあい
ふるふい丘のうえで
からみあいゆれて

 「ビーンズとダーイズ」は「先祖」ではなく「いま」の疋田の「からだ」しかつかみとれない音楽だけれど、そういう「新しさ」でことばを活性化させる、その手法にびっくりするなあ。笑いだすなあ。
 「ほてる」は大豆がゆでられてあつくなるということをふまえているのだが、「情婦」が出てくると、どうしてもセックスを想像するね。「からだ」を動かして「仕事」をするとセックスをしたくなるものだからね。「仕事」の達成というのは、ある意味では「自分が自分でなくなる=エクスタシー」ことだから、そこで、つい、むらむらっとする気分が仕事から「からだ」に伝染するものなのだ。
 仕事をしながら片目をつむりあい、つまりウィンクしてセックスの打ち合わせ(誘い合い)をする感じがあって、こういう部分はとてもうれしいなあ。
 だから(?)、ほら、詩はこんなふうにつづく。

よりふるえて
ひぐまの眼にとまるや
ひもとかれるまでしぼられ
色のぬけた墓の白くむさぼり
ひんむいた腐肌がふたたび
死んでおよぐ豆乳の川を
ひもとくのだよ
なめらかなそうそうふと
そふのやわらかい白髪がゆれる
はるか幾代もまえから

 何が書いてあるか--ではなく、ここからどれだけ勝手にことばを引き出して、それをつなげて「ストーリー」を無視して別なことを想像できるか、それを語らなければならない。「誤読」を「捏造」の次元にまで暴走させないといけない。そうしないと、読んだ楽しさがひろがらない。
 情婦(女)の服を「ひもとく」=紐・解く。おっぱいを「しぼる」(むんずとつかむ)。「色のぬけた」まっしろな肌を「むさぼり」、衣服を「ひんむいた」肌を「むさぼり」、(こんなふうに、ことばは前後する)、「死ぬ」と言わせたり、言ったり、何度でもくりかえす。そのたびに「なめらかな」「やわらかな」感じが新しくなり、あ、これ、これが「豆腐」が実現しなければならない「味」なんだ、なんて、嘘もつく。なぜ嘘かというと、そういう「方便」で、つまり「なめらかで、やわらかい味」を知らないとそれと同じ感触の豆腐はできない、だからセックスすることでそれを体に覚え込ませないと--なんてことを先祖(祖父や曾祖父?)が言ったかどうか知らないけれど、私は勝手にそういうことを想像して楽しむ。

 書いてあることとは違うこと、詩人が書かなかったことを勝手に捏造し、その「誤読」を前面に押し出して、「私はこの詩のこんな部分が大好きです」と告白し、詩人を困らせるのが私の楽しみである。こんなふうにこの詩人を「誤読」しようよ、と他の読者を誘い込むのが大好きである。







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