疋田龍乃介『歯車vs丙午』(思潮社、2012年10月20日発行)
疋田龍乃介『歯車vs丙午』を「犬のひげのがん」まで読んで、いまここで感想を書こうか、それとも全部読み通してからにしようか迷っている。と、書いたということは、もう迷っていなくて、よし、ここで書いてしまおうと思ったということになる。
なぜ、こんなことを書いているかというと、最初の「豆腐冥府」が非常におもしろかった。ところが「しみごし」「ハロー・オブ・ザ・リビングデッド」「犬でもできる」「犬のひげのがん」と読み進むうちに楽しさが消えていく。このまま楽しさが消えてしまったら「豆腐冥府」がおもしろかったという印象が消えてしまうんじゃないか--そんな気がしているからである。
で、あとのことはあとのこと。いまは「豆腐冥府」について書く時間だ、と決めたのである。
何が書いてあるか。わからないね。わからないけれど、最初、私は「貨物列車」ではじまることに、ちょっといやな感じをもった。1行目を読んでつづきを読むのをどうしようかな、と思うくらい悩んでしまった。何がいやかというと「貨物列車」ということばには、私の偏見だが、「抒情」がつまっている。「貨物列車」ということばは「抒情」にまみれている。「文学」の匂いがする。そこが嫌いだ。
で、なぜ、こういうどうでもいいようなことを書いているかというと、このどうでもいいことがとても大切だからである。ことばを読むとき、私は純粋にそこに書かれていることばだけを読んでいるわけではない。私の「過去」を読んでいる。私がこれまでにふれてきた「ことば」を読んでいる。どんなことばもそれぞれの「過去」をもっている。芝居でいうと「存在感」をもっている。それが登場するだけで、その背後に「何か」が感じられる。「貨物列車」の場合、私は「抒情」につながるあれこれを思い出してしまう。ひとが乗っていないこと、その列車が走る背景は荒野だとか、夕焼けの海だとか。あるいは大きな車輪の隙間からセイダカアワダチソウが揺れるのが見えるとか……。
そういうことを疋田が書いているかどうかは問題ではなく、私がそれを思い出してしまう。そして、その思い出したことを疋田のことばのなかで読みとる。詩を読むとは、結局私自身の「過去」を読むことになる。どんなに目新しいことが書いてあっても、それを私の「過去」として読んでしまう。そういう読み方しか、私にはできない。
で、そういう読み方をしながら、あ、そうか、私はこれを見落としていた。私が見ていたのはほんとうはこういう世界だったのだと思った瞬間、私はその詩が好きになる。疋田の書いていることとは関係なしに、私は私の「過去」を疋田のことばを利用して読む。それは二重の意味での「誤読」である。まず疋田のことばを疋田の「文脈」で読んでいない。そして私の過去を私のことばで読んでいない、という二重の「誤読」。
その「誤読」を支えるというか、なぜそういう「誤読」がはじまるのかというと、まあ、テキトウなものであるけれど、一種の「音楽」だな。
「貨物列車」はいやなのだけれど、そのあとの音がただ楽しい。「貨物列車」という外の世界(?)と豆腐という内の世界(?)の衝突がおもしろい。詩のあとの部分を先に言ってしまうことになるけれど(私はすでに読んでいるからね)、全体として団欒で湯豆腐(?)か何かの鍋を囲んでいる。鍋には豆腐と、湯葉と、里芋がはいっていることはわかる。ほかに何がはいっているかは、わからない。でも、そういうことはどうでもいい。わかることが少しあれば、それでぜんぶわかるのだ。で、わかったことを囲みながら、あれこれ思っている。たとえば「いま、ここ」ではない故郷(列車ということばのせいだね)を思っている。そこを出てきたときのことを思っている。
そんなことを疋田は具体的に書いていないのだが、私自身は、生まれ育った土地から離れ、別の土地で生活しているのでそんな「過去」をことばのなかに投げ込むのである。それから湯豆腐を団欒で食べたときのこととかね。そこには母もいる。母は病気である、というような「物語」もはいってくる。これは私自身の物語ではないが、いったん故郷、鍋、母、病気という具合にことばが結びつくと、そういう世界が自然にできあがる。これは、「貨物列車」の「抒情」にまみれきった世界だけれど、好きな世界ではないけれど、そうなってしまう。
で、その好きじゃない世界なのになぜおもしろいかというと。
これが説明がむずかしい。「音が楽しい」と私は先に書いたのだけれど、音としたいいようがない。音が裏切るのである。裏切るけれど、それが楽しい。新鮮である。そして、これはほんとうに「偏見と独断」なのだけれど、その音は「古今集」以前なのだ。おおらかなのだ。音の連続感と、イメージ(描かれた対象)とのあいだの「断絶」を「意味」が埋めない。「声」が埋めていく。「声」の力で、ことばを動かしてしまう。「言わない」ことでも「声」はつたえてしまう--というのは、これはまた私の「偏見と独断」なのだが、
この1行の「王」。この音がすばらしく美しい。「里芋の王」は「大きな里芋」くらいの意味かもしれない。まあ、そういうものを私は想像するけれど、それよりも、
こうやって「王」のあるなしを比べてみるとわかると思うけれど(もちろん、これは私の「偏見と独断」、あるいは「感覚の意見」)、「お(う)」の音が、うし「ろ」、さ「と」い「も」のなかにあって、それを「お(う)」がぐいと押す。そして、それが「ころがる」に飛躍する。(こ「ろ」がる、とそこにも「お」はあるが。)
イメージは飛躍するが音は肉体の奥でつながる。それがとても楽しい。ことばの接続と断絶が、説明すると面倒くさいのだが、肉体のなかで「活性化」する。
行が前後してしまうが、
この行の「い」の音の響きも、不思議に楽しい。「いちいち」はなくて「意味」はかわないというか、「路線が」「断絶される」ことにかわなはないのだけれど、そこに「いちいち」が入ると、「意味」以上に感じる何かがある。「いちいち」は「そのたびに」、あるいは「毎回」ということにもなるが、そういうことばを「いちいち」のかわりにいれると、「意味」はかわらないけれど、音がかわる。そして、いま書いたばかりのことと矛盾するけれど、音がかわると「意味」が変わって感じられる。
これは、まあ、どうでもいいことだけれど、どうでもよくない、とても大事なことで--って、どっちなんだ、と自分自身で自分を叱り飛ばしたい気持ちになるが、この「いいかげん(?)」なことがらのなかに、たぶん「ことばの自由」に関する大切なことがある。
わたしのことばでは、それを説明できない。私は、そこまで自分のことばをととのえていないし、肉体もととのっていないのだが、疋田のことばが私の肉体をとおるたびに、そこに新鮮な何かが照らしだされる。そして、あ、それ、わかる。それを私の「からだ(肉体)」は覚えている、という具合に感じる。
そういうことが積み重なって、
この「ふるふーんふーんふん」が私の「からだ(肉体)」のなかから聞こえてくる。その音は「からだ」の外から聞こえてくるのではなく、「からだ」のなかから聞こえてくる。
これは、たとえて言えば、道に疋田が倒れていて「うんうん」とうなっている。それを見た瞬間、私が、あ、疋田はいま腹が痛いのだと感じるような「感じ」に似ている。「痛み」は疋田のものであって、私の腹はちっとも痛くないのに、あ、腹が痛いのだと感じる。それは私自身が腹が痛くて苦しんだことを「からだ」が覚えていて、その覚えていることが、何かしらの「錯覚」のよう私と疋田を結びつける。
それに似ている。
こういうことが、実は「ふるふーんふーんふん」だけではなく、ほかの行でも起きているのだ。
説明できないけれど。
で、こういうことが起きる、そういうことを引き起こすことば、そういう詩は、私は好きだなあ。
そのあと、「犬がひげのがん」まで読んだけれど、「ふるふーんふーんふん」につながるような音に出合えなかった。「意味」だけが「流通言語」を壊しているような気がして、それはそれでわかるけれど、「楽しい」という気持ちにはなられない。
今夜は鍋にして、里芋も入れて、その里芋をテーブルの上、床の上に転がしてみたい、そうするとそこに貨物列車が走ってくるだろうか、試してみたい--そういう楽しい気持ちが、ほかの詩では感じられなかった。
で、いそいで、最初の詩の感想だけを書いている。
疋田龍乃介『歯車vs丙午』を「犬のひげのがん」まで読んで、いまここで感想を書こうか、それとも全部読み通してからにしようか迷っている。と、書いたということは、もう迷っていなくて、よし、ここで書いてしまおうと思ったということになる。
なぜ、こんなことを書いているかというと、最初の「豆腐冥府」が非常におもしろかった。ところが「しみごし」「ハロー・オブ・ザ・リビングデッド」「犬でもできる」「犬のひげのがん」と読み進むうちに楽しさが消えていく。このまま楽しさが消えてしまったら「豆腐冥府」がおもしろかったという印象が消えてしまうんじゃないか--そんな気がしているからである。
で、あとのことはあとのこと。いまは「豆腐冥府」について書く時間だ、と決めたのである。
貨物列車の切れ端にへばりつきながら
私の豆腐の波がたゆたうのだよ
湯葉が震動するたびに
新しい路線がいちいち断絶されていく
後ろから里芋の王は転がり続ける
人生の仁訓を糸ひきまきながら
ハンカチを執拗に振りかざす蛮人たちが
きれぎれ列車を白黒になって包囲する
彼らが一様に背負った致命傷から
借物の視線が延滞されていく
それは豆腐のことを思わなければならない
お母さんの体液は豆乳で成り立っていた
すい臓も大豆でてきていたらか
豆腐性リンパ腫の疑いがあります
何が書いてあるか。わからないね。わからないけれど、最初、私は「貨物列車」ではじまることに、ちょっといやな感じをもった。1行目を読んでつづきを読むのをどうしようかな、と思うくらい悩んでしまった。何がいやかというと「貨物列車」ということばには、私の偏見だが、「抒情」がつまっている。「貨物列車」ということばは「抒情」にまみれている。「文学」の匂いがする。そこが嫌いだ。
で、なぜ、こういうどうでもいいようなことを書いているかというと、このどうでもいいことがとても大切だからである。ことばを読むとき、私は純粋にそこに書かれていることばだけを読んでいるわけではない。私の「過去」を読んでいる。私がこれまでにふれてきた「ことば」を読んでいる。どんなことばもそれぞれの「過去」をもっている。芝居でいうと「存在感」をもっている。それが登場するだけで、その背後に「何か」が感じられる。「貨物列車」の場合、私は「抒情」につながるあれこれを思い出してしまう。ひとが乗っていないこと、その列車が走る背景は荒野だとか、夕焼けの海だとか。あるいは大きな車輪の隙間からセイダカアワダチソウが揺れるのが見えるとか……。
そういうことを疋田が書いているかどうかは問題ではなく、私がそれを思い出してしまう。そして、その思い出したことを疋田のことばのなかで読みとる。詩を読むとは、結局私自身の「過去」を読むことになる。どんなに目新しいことが書いてあっても、それを私の「過去」として読んでしまう。そういう読み方しか、私にはできない。
で、そういう読み方をしながら、あ、そうか、私はこれを見落としていた。私が見ていたのはほんとうはこういう世界だったのだと思った瞬間、私はその詩が好きになる。疋田の書いていることとは関係なしに、私は私の「過去」を疋田のことばを利用して読む。それは二重の意味での「誤読」である。まず疋田のことばを疋田の「文脈」で読んでいない。そして私の過去を私のことばで読んでいない、という二重の「誤読」。
その「誤読」を支えるというか、なぜそういう「誤読」がはじまるのかというと、まあ、テキトウなものであるけれど、一種の「音楽」だな。
貨物列車の切れ端にへばりつきながら
私の豆腐の波がたゆたうのだよ
湯葉が震動するたびに
新しい路線がいちいち断絶されていく
後ろから里芋の王は転がり続ける
「貨物列車」はいやなのだけれど、そのあとの音がただ楽しい。「貨物列車」という外の世界(?)と豆腐という内の世界(?)の衝突がおもしろい。詩のあとの部分を先に言ってしまうことになるけれど(私はすでに読んでいるからね)、全体として団欒で湯豆腐(?)か何かの鍋を囲んでいる。鍋には豆腐と、湯葉と、里芋がはいっていることはわかる。ほかに何がはいっているかは、わからない。でも、そういうことはどうでもいい。わかることが少しあれば、それでぜんぶわかるのだ。で、わかったことを囲みながら、あれこれ思っている。たとえば「いま、ここ」ではない故郷(列車ということばのせいだね)を思っている。そこを出てきたときのことを思っている。
そんなことを疋田は具体的に書いていないのだが、私自身は、生まれ育った土地から離れ、別の土地で生活しているのでそんな「過去」をことばのなかに投げ込むのである。それから湯豆腐を団欒で食べたときのこととかね。そこには母もいる。母は病気である、というような「物語」もはいってくる。これは私自身の物語ではないが、いったん故郷、鍋、母、病気という具合にことばが結びつくと、そういう世界が自然にできあがる。これは、「貨物列車」の「抒情」にまみれきった世界だけれど、好きな世界ではないけれど、そうなってしまう。
で、その好きじゃない世界なのになぜおもしろいかというと。
これが説明がむずかしい。「音が楽しい」と私は先に書いたのだけれど、音としたいいようがない。音が裏切るのである。裏切るけれど、それが楽しい。新鮮である。そして、これはほんとうに「偏見と独断」なのだけれど、その音は「古今集」以前なのだ。おおらかなのだ。音の連続感と、イメージ(描かれた対象)とのあいだの「断絶」を「意味」が埋めない。「声」が埋めていく。「声」の力で、ことばを動かしてしまう。「言わない」ことでも「声」はつたえてしまう--というのは、これはまた私の「偏見と独断」なのだが、
後ろから里芋の王は転がり続ける
この1行の「王」。この音がすばらしく美しい。「里芋の王」は「大きな里芋」くらいの意味かもしれない。まあ、そういうものを私は想像するけれど、それよりも、
後ろから里芋の王は転がり続ける
後ろから里芋は転がり続ける
こうやって「王」のあるなしを比べてみるとわかると思うけれど(もちろん、これは私の「偏見と独断」、あるいは「感覚の意見」)、「お(う)」の音が、うし「ろ」、さ「と」い「も」のなかにあって、それを「お(う)」がぐいと押す。そして、それが「ころがる」に飛躍する。(こ「ろ」がる、とそこにも「お」はあるが。)
イメージは飛躍するが音は肉体の奥でつながる。それがとても楽しい。ことばの接続と断絶が、説明すると面倒くさいのだが、肉体のなかで「活性化」する。
行が前後してしまうが、
新しい路線がいちいち断絶されていく
この行の「い」の音の響きも、不思議に楽しい。「いちいち」はなくて「意味」はかわないというか、「路線が」「断絶される」ことにかわなはないのだけれど、そこに「いちいち」が入ると、「意味」以上に感じる何かがある。「いちいち」は「そのたびに」、あるいは「毎回」ということにもなるが、そういうことばを「いちいち」のかわりにいれると、「意味」はかわらないけれど、音がかわる。そして、いま書いたばかりのことと矛盾するけれど、音がかわると「意味」が変わって感じられる。
これは、まあ、どうでもいいことだけれど、どうでもよくない、とても大事なことで--って、どっちなんだ、と自分自身で自分を叱り飛ばしたい気持ちになるが、この「いいかげん(?)」なことがらのなかに、たぶん「ことばの自由」に関する大切なことがある。
わたしのことばでは、それを説明できない。私は、そこまで自分のことばをととのえていないし、肉体もととのっていないのだが、疋田のことばが私の肉体をとおるたびに、そこに新鮮な何かが照らしだされる。そして、あ、それ、わかる。それを私の「からだ(肉体)」は覚えている、という具合に感じる。
そういうことが積み重なって、
切れ端にへばりつきながら
咽喉薬を飲むとねむたくなり
瞼を閉じれば列車が執着してまとまる
里芋の王は砕け散る
ふるふーんふーんふん
それを我慢してしまえば
豆腐は永劫に震えるだろうな
この「ふるふーんふーんふん」が私の「からだ(肉体)」のなかから聞こえてくる。その音は「からだ」の外から聞こえてくるのではなく、「からだ」のなかから聞こえてくる。
これは、たとえて言えば、道に疋田が倒れていて「うんうん」とうなっている。それを見た瞬間、私が、あ、疋田はいま腹が痛いのだと感じるような「感じ」に似ている。「痛み」は疋田のものであって、私の腹はちっとも痛くないのに、あ、腹が痛いのだと感じる。それは私自身が腹が痛くて苦しんだことを「からだ」が覚えていて、その覚えていることが、何かしらの「錯覚」のよう私と疋田を結びつける。
それに似ている。
こういうことが、実は「ふるふーんふーんふん」だけではなく、ほかの行でも起きているのだ。
説明できないけれど。
で、こういうことが起きる、そういうことを引き起こすことば、そういう詩は、私は好きだなあ。
そのあと、「犬がひげのがん」まで読んだけれど、「ふるふーんふーんふん」につながるような音に出合えなかった。「意味」だけが「流通言語」を壊しているような気がして、それはそれでわかるけれど、「楽しい」という気持ちにはなられない。
今夜は鍋にして、里芋も入れて、その里芋をテーブルの上、床の上に転がしてみたい、そうするとそこに貨物列車が走ってくるだろうか、試してみたい--そういう楽しい気持ちが、ほかの詩では感じられなかった。
で、いそいで、最初の詩の感想だけを書いている。
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谷内 修三 | |
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