川上明日夫『往還草』(思潮社、2012年10月31日発行)
私はどうも川上明日夫とは性が合わないようである。とても読みにくい。
たとえば「浮雲」。
1行が26字で組まれている。そして2行目(?)は必ず1字である。同じスタイル(あるいは類似のスタイル)の作品が何編もある。この行の「構成」が理解できない。詩集全体が1行が26字ならまだ組版の制約でそうなっているのかと想像するのこともできるが、「螢草」は1行目が19字、2行目が1字である。
なぜ?
私は「黙読派」であって、「朗読派」ではないのだが、この詩は「黙読」するひとにむけて書かれているか、「朗読」するひとにむかって書かれているのか。
私の黙読のリズムに、このスタイルはあわない。朗読する人は、この1行目と2行目の「長さ」をどんな呼吸で処理するのか。想像もつかない。
もしかすると、川上は自分のことばに酔って、同じところをぐるぐる回っているのかもしれない。ことばは確かに変化して、それにともなって「意味」もかわってくるから「同じところをぐるぐる」というのは変かもしれないが、私にはどうしてもそう感じられてしまう。
ことばではなく、「同じところ」、たとえば知らない街の規則正しくつくられた道を想像してみる。1ブロック(外国みたいな言い方だが)の長さがきまっている。そこをぐるぐるまわる。1字の1行は「交差点」である。そこから右へ行くか左へ行くか、あるいはまっすぐに行くか--歩き方はいろいろあるので、まっすぐに行けば「ぐるぐる回る」ではなくなるかもしれないが、それは「地理上」の問題であって、意識的には「ぐるぐる」である。頭の中に「地図」ができていて、いつでも「最初」にもどることができる。
どこかへ行くふりをしていながら、どこへも行かない。次の交差点まで、その道に沿って存在するものをことばにするだけである。そして、こんなふうに存在をことばにすることができる、ということに川上は酔っている。
これは、気持ちが悪い。そこに書かれていることばが、どんなに魅力的だとしても、そういう生き方(?)が気持ちが悪い。ことばは、川上をどこかへ運んで行くわけではない。つまり、どんなにことばを書いてみたって(動かしてみたって)、川上はけっしてかわらない。そういう「ところ」で書いている。そんなふうに感じられる。
ほかの人が読めば、きっと違ったふうに感じられるのだろうが、私には、このリズムはとても気持ちが悪いとしか言えない。実際に川上に会ったことがないのでこういうことを書くのは失礼かもしれないけれど、もし川上の姿をみかけたら、私は川上に見つからないように、そっと隠れるだろう。子どもが知らない人に出会って、あ、何か違う、と感じたとき、早くここから逃げたい、出会わなければよかったのにと思う気持ちに似ているかもしれない。
少しひどいことを書きすぎたかもしれない。でも、そう感じるのだから仕方がない。
一篇、少し気に入った詩について書いておく。「うつし花」。この詩には1字空きが頻繁に出てくる。
「ツユクサを 聴いています」と「ツユクサに 聴いています」は、どう違うのか。違わないだろうと思う。違わないということは「ぐるぐる回る」ということなのである。同じことばが何度も出てくる。それも「ぐるぐる回る」ことなのである。「ツユクサ」は「露」という文字になり「草」という文字になる。そして「ツユ」は音が変化して「月」にもなり、それが「月/草」という形であらわれもする。この変化は「澄む」ことか、「濁る」ことか。「生きる」ことか「死ぬ」ことか。区別はない。「ぐるぐる回っている」のだから、あるときは「澄む」ことが「濁る」ことでもあるのだ。
「澄む」ことが「濁る」ことである--というのは矛盾?
そんなことはない。たとえばコップにいれた泥水を思い浮かべればいい。それは時間が経つと澄んでくる。ただし「澄む」のは上の方であって、下の方はいっそう「濁る」。「澄む」と「濁る」は接続して「いま/ここ」になる。どちらに視点を置いて「世界」を見るかはそのひとの勝手である。
この「勝手」を川上は、私とはずいぶん違う形で生きている。「澄む/濁る」の「切断/接続」を「螺旋」のように「ぐるぐる回る」、そしてぐるぐる回りながら、上の方へか、下の方へかわからないけれど、まあ、動いていく。その「ぐるぐる回り」はきっとエッシャーのだまし絵のように、上だと思っていたらいつのまにか下へ来ていたというような、それも「ぐるぐる回り」なのだと思う。
こういうのは、一瞬見たときは、「あ、おもしろい」と思う。
でも、私は目が悪いせいか、そういうものを見ていると、ほんとうに気持ちが悪くなる。こんなふうに私は他人をだますことができます、という「技術」に酔っている感じだけがあとに残る。
酔ったひとのげっぷの匂いを嗅いでいる気持ち、というと言い過ぎになるのかもしれないけれど--まあ、そういう「生理的な反応」の方が私の場合、先に出てしまう。
私はどうも川上明日夫とは性が合わないようである。とても読みにくい。
たとえば「浮雲」。
見る人が雲を連れてきましたいまわたしの部屋に住んでま
す
ぽつんとわたしの思案に浮かんでは一緒にながれてゆきま
す
まいにち空の窓の開け閉めなどはるかな風の途など訊ねた
り
水分は希望ですから草や花々人などを染めての還り旅です
と
1行が26字で組まれている。そして2行目(?)は必ず1字である。同じスタイル(あるいは類似のスタイル)の作品が何編もある。この行の「構成」が理解できない。詩集全体が1行が26字ならまだ組版の制約でそうなっているのかと想像するのこともできるが、「螢草」は1行目が19字、2行目が1字である。
なぜ?
私は「黙読派」であって、「朗読派」ではないのだが、この詩は「黙読」するひとにむけて書かれているか、「朗読」するひとにむかって書かれているのか。
私の黙読のリズムに、このスタイルはあわない。朗読する人は、この1行目と2行目の「長さ」をどんな呼吸で処理するのか。想像もつかない。
もしかすると、川上は自分のことばに酔って、同じところをぐるぐる回っているのかもしれない。ことばは確かに変化して、それにともなって「意味」もかわってくるから「同じところをぐるぐる」というのは変かもしれないが、私にはどうしてもそう感じられてしまう。
ことばではなく、「同じところ」、たとえば知らない街の規則正しくつくられた道を想像してみる。1ブロック(外国みたいな言い方だが)の長さがきまっている。そこをぐるぐるまわる。1字の1行は「交差点」である。そこから右へ行くか左へ行くか、あるいはまっすぐに行くか--歩き方はいろいろあるので、まっすぐに行けば「ぐるぐる回る」ではなくなるかもしれないが、それは「地理上」の問題であって、意識的には「ぐるぐる」である。頭の中に「地図」ができていて、いつでも「最初」にもどることができる。
どこかへ行くふりをしていながら、どこへも行かない。次の交差点まで、その道に沿って存在するものをことばにするだけである。そして、こんなふうに存在をことばにすることができる、ということに川上は酔っている。
これは、気持ちが悪い。そこに書かれていることばが、どんなに魅力的だとしても、そういう生き方(?)が気持ちが悪い。ことばは、川上をどこかへ運んで行くわけではない。つまり、どんなにことばを書いてみたって(動かしてみたって)、川上はけっしてかわらない。そういう「ところ」で書いている。そんなふうに感じられる。
ほかの人が読めば、きっと違ったふうに感じられるのだろうが、私には、このリズムはとても気持ちが悪いとしか言えない。実際に川上に会ったことがないのでこういうことを書くのは失礼かもしれないけれど、もし川上の姿をみかけたら、私は川上に見つからないように、そっと隠れるだろう。子どもが知らない人に出会って、あ、何か違う、と感じたとき、早くここから逃げたい、出会わなければよかったのにと思う気持ちに似ているかもしれない。
少しひどいことを書きすぎたかもしれない。でも、そう感じるのだから仕方がない。
一篇、少し気に入った詩について書いておく。「うつし花」。この詩には1字空きが頻繁に出てくる。
心を じっと澄ます ツユクサを 聴いています 月草と呼
んで みるところに 死人の眼が ありました 生きること
とは 露のくさぐさ 眼をあげて 月の光りに たゆたって
います 空に沿う 喩がありますね 澄んで美しく 濁らな
い 月草とは そのように 偲んだ心にいたい 濁ることは
偲ぶこと 生きることである とあの方がいう 染まらない
魂なんてと しずかな 見るひとが ツユクサに 聴いてい
ます
「ツユクサを 聴いています」と「ツユクサに 聴いています」は、どう違うのか。違わないだろうと思う。違わないということは「ぐるぐる回る」ということなのである。同じことばが何度も出てくる。それも「ぐるぐる回る」ことなのである。「ツユクサ」は「露」という文字になり「草」という文字になる。そして「ツユ」は音が変化して「月」にもなり、それが「月/草」という形であらわれもする。この変化は「澄む」ことか、「濁る」ことか。「生きる」ことか「死ぬ」ことか。区別はない。「ぐるぐる回っている」のだから、あるときは「澄む」ことが「濁る」ことでもあるのだ。
「澄む」ことが「濁る」ことである--というのは矛盾?
そんなことはない。たとえばコップにいれた泥水を思い浮かべればいい。それは時間が経つと澄んでくる。ただし「澄む」のは上の方であって、下の方はいっそう「濁る」。「澄む」と「濁る」は接続して「いま/ここ」になる。どちらに視点を置いて「世界」を見るかはそのひとの勝手である。
この「勝手」を川上は、私とはずいぶん違う形で生きている。「澄む/濁る」の「切断/接続」を「螺旋」のように「ぐるぐる回る」、そしてぐるぐる回りながら、上の方へか、下の方へかわからないけれど、まあ、動いていく。その「ぐるぐる回り」はきっとエッシャーのだまし絵のように、上だと思っていたらいつのまにか下へ来ていたというような、それも「ぐるぐる回り」なのだと思う。
こういうのは、一瞬見たときは、「あ、おもしろい」と思う。
でも、私は目が悪いせいか、そういうものを見ていると、ほんとうに気持ちが悪くなる。こんなふうに私は他人をだますことができます、という「技術」に酔っている感じだけがあとに残る。
酔ったひとのげっぷの匂いを嗅いでいる気持ち、というと言い過ぎになるのかもしれないけれど--まあ、そういう「生理的な反応」の方が私の場合、先に出てしまう。
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