豊原清明「2012・海程新人賞候補作品」ほか(「白黒目」38、2012年11月発行)
「われ病むや」の「や」が強くひびいてくる。「切れ字」というものについて私は考えたことがないので見当違いのことを書くことになるかもしれないが、この「や」のあとの「空白」というのか、何もない感じに、「亀も病むなり」が呼応する。文法的には「われ」に対して亀「も」なのだけれど、「われ」と「亀」という「主語」が対比されているというより、「病む」という「こと(動詞の世界)」が呼応している感じがする。「われ」と「亀」は切断されるというのか、切断・断絶を意識するその意識のなかで「病むこと」という「動詞」が接近する。そのついたり、はなれたりする感じが「や」によって、清潔になる。べたべたしない。同情しない。「や」がないと、きっとべたべたした「抒情」になるのだと思う。
この「や」による明確な切断が、「夏ひとつ」の「ひとつ」を手触りのあるものにかえる。ほんとうは「夏」はいくつもある。「われ」の夏もあれば、「亀」の夏もあるし、その他の「夏」もある。でも、それを「ひとつ」に凝縮し、同時に複数に広げてしまう運動の「原点」のようなものが、「われ病むや」の「や」のなかにある。
なぜ九頭? わからないけれど、わからないからいいのだと思う。そのわからないものを受け入れたときだけ「天の泉」が見えてくる。そういうスピードのあることばだ。
この放心がいいなあ。「われ病むや」の「や」のなかにあるのも「放心」かもしれない。放心とは自分が自分から切断されることだろうか。自分から切断されることではじめてひとは「他者」とわだかまりなく「ひとつ」になれるのかもしれない。「月を見た」と豊原は書いているが、月を見るとき、月はまた豊原と父を見ている。そこに「呼応」がある。
それでどうしたといわれると困るけれど、「呼応がある」の「ある」を感じることが俳句なのかもしれない。
*
「さびしさの祭り」か。「祭りのさびしさ」というものは「抒情」だけれど、「さびしさの祭り」はそれを超越するね。こういうことばが豊原の詩のなかにはある。それは、五七五になっていないけれど、俳句だね。俳句はきっと詩を超越した詩なのだろう。
「胸の中の寂しいくしゃみ」も美しい。「こちらへ来るのだよ」は父のことばなのだろうけれど、豊原のことばとも受け取ることができる。どっちでもいいのだ。それは「呼応」しているのだから。どっちと断定してしまって、それでわかったつもりになるのではなく、そこに「呼応がある」ということの「ある」を感じればいいのだと思う。
きのう読んだ時里二郎のことばは、ことばの「分節以前」を目指していたが、その「分節以前」を豊原は「呼応がある」の「ある」という形でぐいとつかみとる。
「ヒマワリに顔を見られて」がいい。ここにも「呼応」がある。
ことオノマトペは「船音だけが」の、船の横腹に波があたるときの「音」なのだろう。「波の音」だけれど、「船音」。それは船と波と音が「ひとつ」だからだね。出会うことで「ひとつ」になる。
俳句とは一期一会の出会いによる「ひとつ」の瞬間なのだ。
だから、「波の音」であるはずのものが「海の波の色」。「音」は「色」と呼応する。そこに呼応がある。そしてその「ある」のなかには、そこには書かれていない潮風や明るい太陽の光、あるいは暗い悲しみも「ある」。そこに「ない」ものは「ない」。すべてが「未分節」のままに「ある」。
「未分節」だから、私たちはその「ある」をとおって、どこへでも行ける。つまり何にでも「なる」ことができる。「なる」を生み出す「ある」を豊原はとてもやわらかくつかみ取る。定着させる。
われ病むや亀も病むなり夏ひとつ
「われ病むや」の「や」が強くひびいてくる。「切れ字」というものについて私は考えたことがないので見当違いのことを書くことになるかもしれないが、この「や」のあとの「空白」というのか、何もない感じに、「亀も病むなり」が呼応する。文法的には「われ」に対して亀「も」なのだけれど、「われ」と「亀」という「主語」が対比されているというより、「病む」という「こと(動詞の世界)」が呼応している感じがする。「われ」と「亀」は切断されるというのか、切断・断絶を意識するその意識のなかで「病むこと」という「動詞」が接近する。そのついたり、はなれたりする感じが「や」によって、清潔になる。べたべたしない。同情しない。「や」がないと、きっとべたべたした「抒情」になるのだと思う。
この「や」による明確な切断が、「夏ひとつ」の「ひとつ」を手触りのあるものにかえる。ほんとうは「夏」はいくつもある。「われ」の夏もあれば、「亀」の夏もあるし、その他の「夏」もある。でも、それを「ひとつ」に凝縮し、同時に複数に広げてしまう運動の「原点」のようなものが、「われ病むや」の「や」のなかにある。
猪九頭突進して天の泉を呑む
なぜ九頭? わからないけれど、わからないからいいのだと思う。そのわからないものを受け入れたときだけ「天の泉」が見えてくる。そういうスピードのあることばだ。
月を見た無職となった父と見た
この放心がいいなあ。「われ病むや」の「や」のなかにあるのも「放心」かもしれない。放心とは自分が自分から切断されることだろうか。自分から切断されることではじめてひとは「他者」とわだかまりなく「ひとつ」になれるのかもしれない。「月を見た」と豊原は書いているが、月を見るとき、月はまた豊原と父を見ている。そこに「呼応」がある。
それでどうしたといわれると困るけれど、「呼応がある」の「ある」を感じることが俳句なのかもしれない。
*
父が働きに行くという
褪色して 二年後
働きたいと言う
さびしさの祭りが
僕の心の
あちこちで
起こっている
胸の中の寂しいくしゃみ
遠くで父が待っている
こちらへ来るのだよ
(「親父とイエス」)
「さびしさの祭り」か。「祭りのさびしさ」というものは「抒情」だけれど、「さびしさの祭り」はそれを超越するね。こういうことばが豊原の詩のなかにはある。それは、五七五になっていないけれど、俳句だね。俳句はきっと詩を超越した詩なのだろう。
「胸の中の寂しいくしゃみ」も美しい。「こちらへ来るのだよ」は父のことばなのだろうけれど、豊原のことばとも受け取ることができる。どっちでもいいのだ。それは「呼応」しているのだから。どっちと断定してしまって、それでわかったつもりになるのではなく、そこに「呼応がある」ということの「ある」を感じればいいのだと思う。
きのう読んだ時里二郎のことばは、ことばの「分節以前」を目指していたが、その「分節以前」を豊原は「呼応がある」の「ある」という形でぐいとつかみとる。
この布団に坐って
今年も
六十九の父と御飯を食べる
今日も部屋は黄色い
ヒマワリに顔を見られて
ずっと 座って
窓を見ていた
(「船音だけが」)
「ヒマワリに顔を見られて」がいい。ここにも「呼応」がある。
ぼっ、ぼっ、ぼうおん
ぼっ、ぼっ、ぼっ、ぼうおん
ぼっつ、ぼっつ、ぼっつ、
海の波の色
(「船から脱出!」)
ことオノマトペは「船音だけが」の、船の横腹に波があたるときの「音」なのだろう。「波の音」だけれど、「船音」。それは船と波と音が「ひとつ」だからだね。出会うことで「ひとつ」になる。
俳句とは一期一会の出会いによる「ひとつ」の瞬間なのだ。
だから、「波の音」であるはずのものが「海の波の色」。「音」は「色」と呼応する。そこに呼応がある。そしてその「ある」のなかには、そこには書かれていない潮風や明るい太陽の光、あるいは暗い悲しみも「ある」。そこに「ない」ものは「ない」。すべてが「未分節」のままに「ある」。
「未分節」だから、私たちはその「ある」をとおって、どこへでも行ける。つまり何にでも「なる」ことができる。「なる」を生み出す「ある」を豊原はとてもやわらかくつかみ取る。定着させる。
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