詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎「《祖父伝》」

2012-11-20 10:25:32 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「《祖父伝》」(「ロッジエ」12、2012年10月10日発行)

 時里二郎「《祖父伝》」の「伝」の字を時里は正字(旧字?)で書いているのだが、私のワープロでは表示できないので簡略文字で引用する。
 きのう、私は時里は何に遅刻したのか、というようなことを書いた。そして「ことば」に遅刻したのだ、と書いた。きょうはそのつづきを書こうとしているのだが、きのう書いたことを私はもう忘れてしまっているので、きのう書いたことと矛盾したことを書くかもしれない。矛盾していても、それは私が考えたことなのできっとどこかでつながっているだろうと思う。

 さて、書き出し。

 わたしはことばを商う者である。それも生きたことばではなく、死んだことば。厳密にいえば、文字として書き留められたことばにかぎる。死んで骸となった文字の連なりを標本として商うのである。

 ここで「死んだことば」と定義されているのは漠然としているが、逆の方から見ていくとすっきりする。「冊子や巻物といった整ったかたちの文書は扱わない」--つまり、本になっているものは「生きている」、他人に読まれるための身構えをしているものを「わたし」は商売の対象としていない。さらに言い換えると、「死んだことば」とは「全体をに復元されることは不可能な切れ端」(「を」か「に」か、どちらかは不要だろう。推敲の過程で「誤記」しているのだと思う)のことである。
 これをさらに言い換えると、「全体」から分離してしまった「断片」、「ストーリー」に組み込まれない「ことば」ということになるが、うーん、これって、「詩」の定義とかさならない? ストーリーから独立して、ただそこに「いま/ここ」としてあることば。自律していることば。--「死んだことば」が自律しているかどうか、ちょっとむずかしいが、ストーリーの否定、あるいはストーリーの破壊というふうに定義を少しずつ替えていくとさらに「詩」に近づいていくような感じがする。
 ということは、さておいて。
 あ、魅力的な商売だなあ、言い換えると「魅力的」としかいいようのない「無意味」な商売だなあ、と感じる。そして、ここにまた「無意味(ナンセンス、意味の否定)」という「詩」の定義がしのびこんでくるなあ。
 ということもさておいて。

 どうしてわたしがそんな仕事に手を染めたかを語るためには、まず祖父のことから始めなければならない。

 私はここでびっくりしてまった。
 私の勘違いなのだが、冒頭の「わたし」を私は「祖父」のそのものが「わたし」という形で語りはじめていると思っていたのだ。「祖父」の前に、魅力的な「わたし」がでてきてしまっては「主役」と勘違いしてもしようがないだろう。「脇役」なら、もっと静かに目立たない形で出てこないと……。
 などと書いていると、ほんとうに書きたい「感想」になかなかたどりつけないのだが。でも、この「わたし」の登場は、時里が頻繁に活用する「反復」のひとつ、「円還(螺旋)運動」のひとつである。「わたし」は「祖父」がいたからこそ「わたし」がいる。「わたし」と「祖父」とは「接続」している。別個の「切断」された人間であるけれど、どこかでつながっている。そして、そのつながり、あるいは重なりをていねいにたどるとき、そこにほんとうに時里が書きたいものがあらわれてくる。「円還(螺旋)運動」をしないことには、時里のことばは「ほんとうの詩」にたどりつかないのである。「ほんとうのことば」にたどりつけないのである。つまり、「円還(螺旋)運動」をすることが「遅刻」を解消する唯一の方法なのである。
 前置きが長くなったけれど、次の部分に「遅刻」以前の「ことば」、「ことば」がどんな具合に「動詞(こと)」として動いていたかが、魅力的に書かれている。

 祖父にはバランス感覚がなっかった。健康そうに見えて、まっすぐに歩けなかった。どちらかの耳とどちらかの目が普通ではなかったのである。見える・見えないとか、聞こえる・聞こえないという識別ではなく、ごく普通の視覚・聴覚が異様に研ぎ澄まされることに果てがなく、ついには眼で触ったり、耳で見たりすることが出きる。さらにその感覚器官に手が加わると、もはや《世界》の細部が、《世界》の閾(いき)を踏み外して、時間軸も空間軸も、祖父の指のなかで自在に操作できたのだ。

 「まっすぐに歩けなかった」は時里の「円還(螺旋)運動」につうじる。直線的には進まない運動である。
 で、そのあとに書かれている「見える・見えない」「聞こえる・聞こえない」の識別を超えて、

眼で触ったり、耳で見たりする

 これが「遅刻以前のことば」である。感覚が融合する。感覚が感覚器官の「閾を踏み外して」、他の感覚の仕事をしてしまう。越境してしまう。--逆に言うと(時里の書いていることをつかみとるには、たぶん「逆に言うとどうなるか」を考えるといいと思う)、「ことば」が「ことば」として成立する以前は、つまり「ことば」が「文法」に合致した形で世界を「分節」しながら運動する以前は、感覚(感覚器官)も「分節」していなかった。
 眼は「見る」ための器官ではなく、「触る」こともできた。「耳」は「聞く」だけではなく「見る」こともできた。「見える・見えない」「聞こえる・聞こえない」の識別を超える(閾を踏み外す)ということは、眼は「見る」以外の仕事もする、「耳」は「聞く」以外の仕事ともするということである。
 「識別」を超えるということと、「閾」を踏み外すは、時里の意識のなかでは同じことなのだが、識別を閾と置き換えるのはともかく、「超える」と「踏み外す」の差異はなかなかおもしろいと思う。「踏み外す」は「逸脱」でもある。
 きっと「ことばの分節」が確立される前には、さまざまな「逸脱」があった。野放図な感覚の運動があった。それでは「論理的(詩の対極だね)」には世界を構築できないので、ことばと感覚はきちんと分節・対応させる必要があったのだ。
 それはそれでいいのだけれど。
 ことばがきちんと「分節」され、感覚もきちんと仕事を「分節」されてしまうと、何か、味気ない。そこから「詩」が消えてしまう。「分節」を破壊してしまう何かが欠落してしまう。
 というふうに考えると。
 時里は、いま/ここで私たちがつかっていることば以前のことば、明確な「分節」が確立されていなかったことばを求めていることがわかる。時里は、いま/ここにある「分節が確立されたことば」以前の、まだ「分節がおこなわれていないことば」に「遅刻」してまった、と嘆いていることになる。「分節される前のことば」を探していることになる。人間が動き、事件が起きる、その「こと」をそのまま「動詞」として引き継ぐことができることばを掘り起こそうとしていることがわかる。
 で。
 その「分節が確立される前のことば」、これが「死んだことば」にもなる。どのようにも「分節」されていないことばとは、どのようにもストーリーに組み込まれていないことばということでもある。ふつう、ことばはストーリーが論理的というか美しく機能するように「分節」された状態で組み立てられる。「分節」が乱れると、非論理的というか、よくわからない「文章」になってしまう。
 「死んだことば」はストーリーから分離・逸脱する(識別を超える、閾を踏み外す)ことによって、ほんとうはストーリーとは別の「いのち」があることを証明しているのである。そのことばが「死んで」いるとしても、その「死」は最初から「死」であったのではなく、そのことばが生まれた瞬間は生きていたはずである。「いのち」があったはずである。その「いのち」に立ち会うことに時里は「遅刻した」。
 だから「遅刻」を取り戻すために、「死んだことば」のなかへ入ってゆき、そこで「いのち」が動いている瞬間をもう一度つかみなおそうとしている。
 ことばの「分節」以前へさかのぼることで、ことばの未来を切り開こうとしている。ことばが生きるのは「分節」以前の運動を、運動そのものとして生み出すことによってでしかなし遂げることができないのだ。



ジパング
時里 二郎
思潮社
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