詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎「《半島へ》のための抽斗」

2012-11-19 11:01:38 | 詩集
時里二郎「《半島へ》のための抽斗」(「ロッジエ」12、2012年10月10日発行)

 時里二郎「《半島へ》のための抽斗」は時里にしては珍しい行分けの作品である。

遅刻は
深海に棲む
ことばの
ほねの


かたちを喪った
耳の記憶をつついて
剥がれていく
半島の


胸のあたりまで
陽を浴びて
廊下に立たされている
ぼくが
見える

ぼくは何に遅れたのだろう

 1連目は何が書いてあるかわからない。では2連目、3連目について書かれていることがわかるのかといえば、やっぱりわからないのだが、それでも「かたちを喪った/耳の記憶をつついて」はとても印象に残る。そして、時里の書いている「ことば」を勝手に読み替えて(誤読して)、私はそこにない「耳の形」をつっついて、「耳の形」を記憶のなかから浮かび上がらせる何かを思う。そのとき、「耳の形」に「半島」の形が重なるようにあらわれてくるのを感じる。
 そういう「勝手な」イメージを私は思い描くことができるが、1連目では「誤読」ができない。「誤読」ができなければ、そのままほうっておけばいいのだけれど、「遅刻は」という書き出しから「深海に棲む」への飛躍が魅力的で、だからこそ「わからない」という感想がふっと出てしまうのである。
 何なのだろうなあ。
 そう思っていると、

ぼくは何に遅れたのだろう

 ふいに1行があらわれる。3連目の、学校(子ども時代の風景)を思わせる描写から、あのとき「ぼくは何に遅刻したために廊下に立たされたのだろうか」という具合に世界を広げることができるけれど、学校で「遅刻する」といえば授業の開始時間以外にないのだが、それを時里は「何に遅れたのだろうか」と自問している。
 で、その瞬間、その自問は「授業の開始時間」に遅刻したのではない、ということが「反語」のようにして、どこかで用意されている。それはさらに言えば「時間」ではないのだ。「時間」に遅刻したのではないのだ、ということである。

 時間に遅れることを「遅刻」というのだが、それが「時間」ではないとしたら?

 時里は明確に書いてはいないのだが、そしてだからこそ、私は自由に(勝手に、かもしれない)が「誤読」する。
 時里が遅れたのは「時間」ではなく、「事件」に遅れたのだ。「こと」に遅れたのだ。時里がたどりついたとき「こと」はおわっていた。でも、「こと」って何?
 わからない。
 わからないから「何に」ということばで自問する。
 時さとのことばは「何」を探しているのである。つまり、書きたいことがあって書いているのではなくて、書きたいことを探して書いているのである。それも、自分が間に合わなかった「時間」の中で起きた「事件」(こと)を探している。
 時里の知らない「事件(こと)」を探さずにいられないのは、「いま/ここ」が、時里の知らない「事件(こと)」の影響を受けているからである。はっきりとは見ることができないけれど、「いま/ここ」にいるその瞬間、あ、「いま/ここ」には「いま/ここ」よりまえに起きたことが反映していると感じるからである。
 言い換えると、

母ハ人形デス
祖父ガソレヲ作リマシタ
母ハボク(ワタシ)ヲウミ
祖父ガソレヲ育テクレマシタ

 「いま/ここ」には「過去」が反映している。そして「過去」とは「時間」ではなく「事件(こと)」なのである。それは「名詞」ではなく「動詞(運動)」によってしか語ることのできないものである。
 「時間」は「名詞」、「事件(こと)」は「動詞」というと、まあ、ちょっと「文法」を逸脱してしまうけれど、「事件(こと)」は「動詞」ぬきでは語れない。説明できない。誰が、何を、どうしたか。その「どうしたか」のなかに必ず「動詞」がある。そして、その「動詞」を動かしている(?)のは、人間の思いである。
 そうであるなら、時里が探している「何」は「人間の思い」ということになる。
 そして、時里が「遅刻」したのは、その「誰かの思い」に対して「遅刻」したということになる。

 こう考えると、たとえばこれまで時里が書いてきた父親の短歌をめぐるノート(私は、これは「創作」であると思っているのだが……)についての「考察」がぐいと近づいてくる。
 時里は「いま/ここ」には存在しないけれど「いま/ここ」の奥底で動いている「父の思い」を探している。それが時里に、どのような形で接続するのか、どんなふうに切断したままなのか--そういうことを探しているということが感じられる。
 「思い」(こころのなかで起きている「こと」)は「ことば」でしかとらえることができない(とはかぎらないかもしれないけれど、時里はたぶんそう考えている)。だから、「思い」を探すことは「ことば」を探すことでもある。

 で。

 時里は「何」に遅刻したのか。
 思い切って「飛躍」してしまうと、「ことば」に遅刻したのだ。先に書いていることと「矛盾」しているかもしれないが、「ことば」はすでに書かれてしまっている。「事件(こと)」は起きてしまっている。「思い」はすでに過ぎ去って、それを「語ることば」も、もう語り尽くされている。
 あらゆる「ことば」は、時里以前に存在してしまってる。時里がつかうことができるのは、そういう存在してしまっている「ことば」にすぎない。
 「遅刻」以外の形で「ことば」に近づくことはできない。「ことば」といっしょに「始める」ということはできない。
 不可能と知っていて、それでも時里は「遅刻」以前を目指している。「語られてしまったことば」。しかし、それは「すべてを語っている」といえるか。もしかしたら、語りこぼしている「ことば」があるかもしれない。それは「事件(こと)」といっしょに存在するのか、あるいはその「事件(こと)」よりもっと「過去」の「事件(こと)」の「ことば」によってしか語られないものなのか。
 逆に、そうではなくて「未来」の「事件(こと)」のなかに「過去」の「事件(こと)」を語る「ことば」があるかもしれない。
 言い換えると、「過去」にとっての「未来」とは「いま/ここ」なのだから、「いま/ここ」を探ることで、もしかすると「過去の事件(こと)」を語る「ことば」に出会えるかもしれない。
 あ、何を書いているか、わからないね。
 ごちゃごちゃしてきたね。
 まあ、そんな「ごちごちゃ」、ことばの「螺旋運動」(円還運動)ができるという「こと」のなかに、時里の探している「何か」があるということなのだと思う。言い換えると、時里は、そういう「円還運動」を「ことば」をとおしてすることが好きなのだ。



ジパング
時里 二郎
思潮社
コメント
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