時里二郎「《半島へ》のための抽斗」(「ロッジエ」12、2012年10月10日発行)
時里二郎「《半島へ》のための抽斗」は時里にしては珍しい行分けの作品である。
1連目は何が書いてあるかわからない。では2連目、3連目について書かれていることがわかるのかといえば、やっぱりわからないのだが、それでも「かたちを喪った/耳の記憶をつついて」はとても印象に残る。そして、時里の書いている「ことば」を勝手に読み替えて(誤読して)、私はそこにない「耳の形」をつっついて、「耳の形」を記憶のなかから浮かび上がらせる何かを思う。そのとき、「耳の形」に「半島」の形が重なるようにあらわれてくるのを感じる。
そういう「勝手な」イメージを私は思い描くことができるが、1連目では「誤読」ができない。「誤読」ができなければ、そのままほうっておけばいいのだけれど、「遅刻は」という書き出しから「深海に棲む」への飛躍が魅力的で、だからこそ「わからない」という感想がふっと出てしまうのである。
何なのだろうなあ。
そう思っていると、
ふいに1行があらわれる。3連目の、学校(子ども時代の風景)を思わせる描写から、あのとき「ぼくは何に遅刻したために廊下に立たされたのだろうか」という具合に世界を広げることができるけれど、学校で「遅刻する」といえば授業の開始時間以外にないのだが、それを時里は「何に遅れたのだろうか」と自問している。
で、その瞬間、その自問は「授業の開始時間」に遅刻したのではない、ということが「反語」のようにして、どこかで用意されている。それはさらに言えば「時間」ではないのだ。「時間」に遅刻したのではないのだ、ということである。
時間に遅れることを「遅刻」というのだが、それが「時間」ではないとしたら?
時里は明確に書いてはいないのだが、そしてだからこそ、私は自由に(勝手に、かもしれない)が「誤読」する。
時里が遅れたのは「時間」ではなく、「事件」に遅れたのだ。「こと」に遅れたのだ。時里がたどりついたとき「こと」はおわっていた。でも、「こと」って何?
わからない。
わからないから「何に」ということばで自問する。
時さとのことばは「何」を探しているのである。つまり、書きたいことがあって書いているのではなくて、書きたいことを探して書いているのである。それも、自分が間に合わなかった「時間」の中で起きた「事件」(こと)を探している。
時里の知らない「事件(こと)」を探さずにいられないのは、「いま/ここ」が、時里の知らない「事件(こと)」の影響を受けているからである。はっきりとは見ることができないけれど、「いま/ここ」にいるその瞬間、あ、「いま/ここ」には「いま/ここ」よりまえに起きたことが反映していると感じるからである。
言い換えると、
「いま/ここ」には「過去」が反映している。そして「過去」とは「時間」ではなく「事件(こと)」なのである。それは「名詞」ではなく「動詞(運動)」によってしか語ることのできないものである。
「時間」は「名詞」、「事件(こと)」は「動詞」というと、まあ、ちょっと「文法」を逸脱してしまうけれど、「事件(こと)」は「動詞」ぬきでは語れない。説明できない。誰が、何を、どうしたか。その「どうしたか」のなかに必ず「動詞」がある。そして、その「動詞」を動かしている(?)のは、人間の思いである。
そうであるなら、時里が探している「何」は「人間の思い」ということになる。
そして、時里が「遅刻」したのは、その「誰かの思い」に対して「遅刻」したということになる。
こう考えると、たとえばこれまで時里が書いてきた父親の短歌をめぐるノート(私は、これは「創作」であると思っているのだが……)についての「考察」がぐいと近づいてくる。
時里は「いま/ここ」には存在しないけれど「いま/ここ」の奥底で動いている「父の思い」を探している。それが時里に、どのような形で接続するのか、どんなふうに切断したままなのか--そういうことを探しているということが感じられる。
「思い」(こころのなかで起きている「こと」)は「ことば」でしかとらえることができない(とはかぎらないかもしれないけれど、時里はたぶんそう考えている)。だから、「思い」を探すことは「ことば」を探すことでもある。
で。
時里は「何」に遅刻したのか。
思い切って「飛躍」してしまうと、「ことば」に遅刻したのだ。先に書いていることと「矛盾」しているかもしれないが、「ことば」はすでに書かれてしまっている。「事件(こと)」は起きてしまっている。「思い」はすでに過ぎ去って、それを「語ることば」も、もう語り尽くされている。
あらゆる「ことば」は、時里以前に存在してしまってる。時里がつかうことができるのは、そういう存在してしまっている「ことば」にすぎない。
「遅刻」以外の形で「ことば」に近づくことはできない。「ことば」といっしょに「始める」ということはできない。
不可能と知っていて、それでも時里は「遅刻」以前を目指している。「語られてしまったことば」。しかし、それは「すべてを語っている」といえるか。もしかしたら、語りこぼしている「ことば」があるかもしれない。それは「事件(こと)」といっしょに存在するのか、あるいはその「事件(こと)」よりもっと「過去」の「事件(こと)」の「ことば」によってしか語られないものなのか。
逆に、そうではなくて「未来」の「事件(こと)」のなかに「過去」の「事件(こと)」を語る「ことば」があるかもしれない。
言い換えると、「過去」にとっての「未来」とは「いま/ここ」なのだから、「いま/ここ」を探ることで、もしかすると「過去の事件(こと)」を語る「ことば」に出会えるかもしれない。
あ、何を書いているか、わからないね。
ごちゃごちゃしてきたね。
まあ、そんな「ごちごちゃ」、ことばの「螺旋運動」(円還運動)ができるという「こと」のなかに、時里の探している「何か」があるということなのだと思う。言い換えると、時里は、そういう「円還運動」を「ことば」をとおしてすることが好きなのだ。
時里二郎「《半島へ》のための抽斗」は時里にしては珍しい行分けの作品である。
遅刻は
深海に棲む
ことばの
ほねの
名
かたちを喪った
耳の記憶をつついて
剥がれていく
半島の
翳
胸のあたりまで
陽を浴びて
廊下に立たされている
ぼくが
見える
ぼくは何に遅れたのだろう
1連目は何が書いてあるかわからない。では2連目、3連目について書かれていることがわかるのかといえば、やっぱりわからないのだが、それでも「かたちを喪った/耳の記憶をつついて」はとても印象に残る。そして、時里の書いている「ことば」を勝手に読み替えて(誤読して)、私はそこにない「耳の形」をつっついて、「耳の形」を記憶のなかから浮かび上がらせる何かを思う。そのとき、「耳の形」に「半島」の形が重なるようにあらわれてくるのを感じる。
そういう「勝手な」イメージを私は思い描くことができるが、1連目では「誤読」ができない。「誤読」ができなければ、そのままほうっておけばいいのだけれど、「遅刻は」という書き出しから「深海に棲む」への飛躍が魅力的で、だからこそ「わからない」という感想がふっと出てしまうのである。
何なのだろうなあ。
そう思っていると、
ぼくは何に遅れたのだろう
ふいに1行があらわれる。3連目の、学校(子ども時代の風景)を思わせる描写から、あのとき「ぼくは何に遅刻したために廊下に立たされたのだろうか」という具合に世界を広げることができるけれど、学校で「遅刻する」といえば授業の開始時間以外にないのだが、それを時里は「何に遅れたのだろうか」と自問している。
で、その瞬間、その自問は「授業の開始時間」に遅刻したのではない、ということが「反語」のようにして、どこかで用意されている。それはさらに言えば「時間」ではないのだ。「時間」に遅刻したのではないのだ、ということである。
時間に遅れることを「遅刻」というのだが、それが「時間」ではないとしたら?
時里は明確に書いてはいないのだが、そしてだからこそ、私は自由に(勝手に、かもしれない)が「誤読」する。
時里が遅れたのは「時間」ではなく、「事件」に遅れたのだ。「こと」に遅れたのだ。時里がたどりついたとき「こと」はおわっていた。でも、「こと」って何?
わからない。
わからないから「何に」ということばで自問する。
時さとのことばは「何」を探しているのである。つまり、書きたいことがあって書いているのではなくて、書きたいことを探して書いているのである。それも、自分が間に合わなかった「時間」の中で起きた「事件」(こと)を探している。
時里の知らない「事件(こと)」を探さずにいられないのは、「いま/ここ」が、時里の知らない「事件(こと)」の影響を受けているからである。はっきりとは見ることができないけれど、「いま/ここ」にいるその瞬間、あ、「いま/ここ」には「いま/ここ」よりまえに起きたことが反映していると感じるからである。
言い換えると、
母ハ人形デス
祖父ガソレヲ作リマシタ
母ハボク(ワタシ)ヲウミ
祖父ガソレヲ育テクレマシタ
「いま/ここ」には「過去」が反映している。そして「過去」とは「時間」ではなく「事件(こと)」なのである。それは「名詞」ではなく「動詞(運動)」によってしか語ることのできないものである。
「時間」は「名詞」、「事件(こと)」は「動詞」というと、まあ、ちょっと「文法」を逸脱してしまうけれど、「事件(こと)」は「動詞」ぬきでは語れない。説明できない。誰が、何を、どうしたか。その「どうしたか」のなかに必ず「動詞」がある。そして、その「動詞」を動かしている(?)のは、人間の思いである。
そうであるなら、時里が探している「何」は「人間の思い」ということになる。
そして、時里が「遅刻」したのは、その「誰かの思い」に対して「遅刻」したということになる。
こう考えると、たとえばこれまで時里が書いてきた父親の短歌をめぐるノート(私は、これは「創作」であると思っているのだが……)についての「考察」がぐいと近づいてくる。
時里は「いま/ここ」には存在しないけれど「いま/ここ」の奥底で動いている「父の思い」を探している。それが時里に、どのような形で接続するのか、どんなふうに切断したままなのか--そういうことを探しているということが感じられる。
「思い」(こころのなかで起きている「こと」)は「ことば」でしかとらえることができない(とはかぎらないかもしれないけれど、時里はたぶんそう考えている)。だから、「思い」を探すことは「ことば」を探すことでもある。
で。
時里は「何」に遅刻したのか。
思い切って「飛躍」してしまうと、「ことば」に遅刻したのだ。先に書いていることと「矛盾」しているかもしれないが、「ことば」はすでに書かれてしまっている。「事件(こと)」は起きてしまっている。「思い」はすでに過ぎ去って、それを「語ることば」も、もう語り尽くされている。
あらゆる「ことば」は、時里以前に存在してしまってる。時里がつかうことができるのは、そういう存在してしまっている「ことば」にすぎない。
「遅刻」以外の形で「ことば」に近づくことはできない。「ことば」といっしょに「始める」ということはできない。
不可能と知っていて、それでも時里は「遅刻」以前を目指している。「語られてしまったことば」。しかし、それは「すべてを語っている」といえるか。もしかしたら、語りこぼしている「ことば」があるかもしれない。それは「事件(こと)」といっしょに存在するのか、あるいはその「事件(こと)」よりもっと「過去」の「事件(こと)」の「ことば」によってしか語られないものなのか。
逆に、そうではなくて「未来」の「事件(こと)」のなかに「過去」の「事件(こと)」を語る「ことば」があるかもしれない。
言い換えると、「過去」にとっての「未来」とは「いま/ここ」なのだから、「いま/ここ」を探ることで、もしかすると「過去の事件(こと)」を語る「ことば」に出会えるかもしれない。
あ、何を書いているか、わからないね。
ごちゃごちゃしてきたね。
まあ、そんな「ごちごちゃ」、ことばの「螺旋運動」(円還運動)ができるという「こと」のなかに、時里の探している「何か」があるということなのだと思う。言い換えると、時里は、そういう「円還運動」を「ことば」をとおしてすることが好きなのだ。
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