小川三郎「洗濯」、金井雄二「蓋と瓶の関係」(「Dawn Beat」創刊号、2012年10月31日発行)
小川三郎「洗濯」を読みながら、あれっ、小川三郎ってこんな詩人だったっけ、と思った。私は記憶力がほとんどなく、特にひとの名前は苦手で勘違いしているかもしれないけれど。よくわからないが、今回の「明るい」ことばが私は気に入った。
1連目は「ほんとう」である。(と、仮定しておこう。)でも、2連目は「うそ」だね。そういうことは現実にはありえない。3連目も「うそ」。しかし、この3連目が「うそ」といいながら、実に微妙。
ここまでは、完全に「うそ」。しかし、そのあと
これは、どう?
「構う」「構わない」は「私(小川、と仮定しておく)」の「気持ち」。「気持ち」が「ほんとう」か「うそ」かは、変な言い方だが、本人次第。
で、この詩の場合、それは「ほんとう」なのだ。
なぜ、それが「構わない」かと言えば、それは「ほんとう」のことではなくことばで書いているだけのことなのだから、実際に何かが起きるわけではない。いや、何かが起きるのだけれど、それはあくまで「私」の「思い」のなか、「私」の「肉体」のなかに起きることであって、それは「私」が責任を持てばいいだけのことである。
こういう「うそ」を「構わない」と受け入れると何が起きるか。「楽しい」が起きる。つまり、愉快になる。
この「構わない=楽しい」を別なことばで言うと、どうなるか。
私の「現代詩講座」なら、ここで質問する。
そうだね、私もそう思う。「みんな仲良く」というのは「楽しい」。何かを忘れて(何かに構うことはいったん脇に置いておいて)、「いま/ここ」で「私」と「みんな」の区別をなくして何かをする。
で、ほら、いま「区別をなくして」と私は言ってしまったんだけれど、
そうだね。「混ざっている」。
そうだね。で、これがちょっとおもしろい。「区別をなくして」なのに、「パンツもシャツも手ぬぐいも」「泥の汚れも油の汚れも」も「区別している」。
そうだね。ほんとうは「区別」がある。けれど「区別しない」。「矛盾」だね。その「矛盾」を受け入れる。これが「構わない」。そうすると「楽しい」。
ここに小川の「肉体」というか、「思想」がある。思想はいつでも「矛盾」のなかにある。「矛盾」というのははっきり見えると思いがちだけれど、実はよく見えないこともある。
この詩の場合も、
こんなふうに突然質問しても、きっと、わけがわからなくなると思う。どのことばもだれもが知っていることばだし、ここに書かれていることはありえないことなんだけれど、ふとそんなふうな気持ちを感じることもある。
どこに矛盾がある?
矛盾なんてないじゃないか。
そんな感じになると思う。
でもね、「構わない」ということばをていねいにほかのことばと関係づけて読んでみると、何かが見えてくるでしょ? 矛盾が見えてくるでしょ?
そうすると、「構わない」が小川の詩の「キーワード」ということになる。「構わない」ということばを書かなかったら、この詩はうまく動かない。詩が成立しない。ふつう「キーワード」は隠れていて、詩人はそれを書かない。けれど、それを書かないとことばが動かないとき、たった一回かぎりつかう。そういうものだと思う。
つかいながら、きっとつかったという「気持ち」もない。
「みんな仲良く」区別がない。それが「かまわない」と言えるのは、まあ、暮らしというものがみんな「区別」のない何かだからだね。「ひとりひとり」違うけれど、その「違い」を飲みこんで「同じ」ものがある。そういうところをつかみとれば、暮らしは何があっても「構わない」といえる心境になるかもしれない。
これは「向こう」と「私」がつながって「区別がない」ということでもあるだろうね。
*
金井雄二の「蓋と瓶の関係」も楽しい詩だ。
「蓋の欲望は/瓶の上に乗ることだ」って、「ほんとう」? どうやって蓋の欲望を聞きだしたのかなあ。もしそれが蓋の欲望なら、瓶の方の欲望は? ね、こんなふうに「意地悪」をしてみると、金井の書いていることが「うそ」だとわかる。ことばだけの世界だということがわかる。
で、そういう「ことば」の世界を生きていくと、とっても変なことが起きる。
瓶の蓋を閉める(締める?)を、全部ことばにしてみる。「平均的な力を/だんだん加える」なんて、うーん、私に言えない。そうか、「だんだん」か。
で、途中を省略するけれど。蓋が「がっしりかさな」って、
うーん、どっちかわからない。「区別」がつかない。まじりあっている。この「交じりあって」「区別がない」状態を、小川の詩を読んだときは「楽しい」と言ったね。
この詩も、この「それは純粋な幸福感」という、蓋か「ぼく」か区別のつかないところへ来たとき、その「楽しさ」が頂点に達する。
あ、すっごくいい質問。
私はならないと思う。ほんとうは、そういうことまで金井は書いていると思う。瓶に蓋がしっかりしまり、それが蓋の幸福であり、「ぼく」の幸福であり、同時に瓶の幸福。「区別」がないことが「楽しい=幸福」だからね。
最後の3行は、その「幸福」をじゃましちゃだめだよ、という金井の「わがまま」。子どもはその幸福からはじき出されているのだけれど、構わないね。開けようとしてうんうんうなる--そこにはまた別の幸福があるはず。
書いていないけれど、金井はそういうものも見ている。
小川三郎「洗濯」を読みながら、あれっ、小川三郎ってこんな詩人だったっけ、と思った。私は記憶力がほとんどなく、特にひとの名前は苦手で勘違いしているかもしれないけれど。よくわからないが、今回の「明るい」ことばが私は気に入った。
洗濯機が回っている
私の洗濯ものが回っている。
知らないひとの洗濯ものも
ひとつふたつ混ざっている。
たぶん私の洗濯ものも
ひとつふたつは知らない家で
洗われているので構わない。
パンツもシャツも手ぬぐいも
みんな仲良く回っている。
泥の汚れも油の汚れも
みんな仲良く流されていく。
洗濯機は
底が抜けている。
向こうに私の顔がある。
1連目は「ほんとう」である。(と、仮定しておこう。)でも、2連目は「うそ」だね。そういうことは現実にはありえない。3連目も「うそ」。しかし、この3連目が「うそ」といいながら、実に微妙。
たぶん私の洗濯ものも
ひとつふたつは知らない家で
洗われている
ここまでは、完全に「うそ」。しかし、そのあと
ので構わない。
これは、どう?
「構う」「構わない」は「私(小川、と仮定しておく)」の「気持ち」。「気持ち」が「ほんとう」か「うそ」かは、変な言い方だが、本人次第。
で、この詩の場合、それは「ほんとう」なのだ。
なぜ、それが「構わない」かと言えば、それは「ほんとう」のことではなくことばで書いているだけのことなのだから、実際に何かが起きるわけではない。いや、何かが起きるのだけれど、それはあくまで「私」の「思い」のなか、「私」の「肉体」のなかに起きることであって、それは「私」が責任を持てばいいだけのことである。
こういう「うそ」を「構わない」と受け入れると何が起きるか。「楽しい」が起きる。つまり、愉快になる。
この「構わない=楽しい」を別なことばで言うと、どうなるか。
私の「現代詩講座」なら、ここで質問する。
<質問>「構わない」を小川は別のことばで言っていないかな?
ヒントは、大事なことばは何度でも繰り返される。
<受講生1>「みんな仲良く」かな。
そうだね、私もそう思う。「みんな仲良く」というのは「楽しい」。何かを忘れて(何かに構うことはいったん脇に置いておいて)、「いま/ここ」で「私」と「みんな」の区別をなくして何かをする。
で、ほら、いま「区別をなくして」と私は言ってしまったんだけれど、
<質問>「区別をなくして」を別なことばで言うと、どうなるかな?
小川は何と書いているかな?
<受講生2>「知らないひとの洗濯ものも/ひとつふたつ混ざっている。」の混ざってい
るかな。
そうだね。「混ざっている」。
<質問>「ひとつふたつ」は別なことばでは?
<受講生3>「パンツもシャツも手ぬぐいも」
<受講生4>「泥の汚れも油の汚れも」
そうだね。で、これがちょっとおもしろい。「区別をなくして」なのに、「パンツもシャツも手ぬぐいも」「泥の汚れも油の汚れも」も「区別している」。
<受講生3>「私の洗濯もの」と「知らないひとの洗濯もの」も。
そうだね。ほんとうは「区別」がある。けれど「区別しない」。「矛盾」だね。その「矛盾」を受け入れる。これが「構わない」。そうすると「楽しい」。
ここに小川の「肉体」というか、「思想」がある。思想はいつでも「矛盾」のなかにある。「矛盾」というのははっきり見えると思いがちだけれど、実はよく見えないこともある。
この詩の場合も、
<質問>この詩には矛盾したところがあります。それはどこですか?
こんなふうに突然質問しても、きっと、わけがわからなくなると思う。どのことばもだれもが知っていることばだし、ここに書かれていることはありえないことなんだけれど、ふとそんなふうな気持ちを感じることもある。
どこに矛盾がある?
矛盾なんてないじゃないか。
そんな感じになると思う。
でもね、「構わない」ということばをていねいにほかのことばと関係づけて読んでみると、何かが見えてくるでしょ? 矛盾が見えてくるでしょ?
そうすると、「構わない」が小川の詩の「キーワード」ということになる。「構わない」ということばを書かなかったら、この詩はうまく動かない。詩が成立しない。ふつう「キーワード」は隠れていて、詩人はそれを書かない。けれど、それを書かないとことばが動かないとき、たった一回かぎりつかう。そういうものだと思う。
つかいながら、きっとつかったという「気持ち」もない。
「みんな仲良く」区別がない。それが「かまわない」と言えるのは、まあ、暮らしというものがみんな「区別」のない何かだからだね。「ひとりひとり」違うけれど、その「違い」を飲みこんで「同じ」ものがある。そういうところをつかみとれば、暮らしは何があっても「構わない」といえる心境になるかもしれない。
向こうに私の顔がある。
これは「向こう」と「私」がつながって「区別がない」ということでもあるだろうね。
*
金井雄二の「蓋と瓶の関係」も楽しい詩だ。
蓋の欲望は
瓶の上に乗ることだ
ぼくは瓶の中から
ジャムをすくい
パンにぬりおわると
蓋を閉める
平均的な力を
だんだんと加える
蓋は瓶の縁を
幾重にもなめるように
合わさっていく
がっしりとかさなる
それは純粋な幸福感
子どもがきて
蓋を開けようとしても
あかない
「蓋の欲望は/瓶の上に乗ることだ」って、「ほんとう」? どうやって蓋の欲望を聞きだしたのかなあ。もしそれが蓋の欲望なら、瓶の方の欲望は? ね、こんなふうに「意地悪」をしてみると、金井の書いていることが「うそ」だとわかる。ことばだけの世界だということがわかる。
で、そういう「ことば」の世界を生きていくと、とっても変なことが起きる。
瓶の蓋を閉める(締める?)を、全部ことばにしてみる。「平均的な力を/だんだん加える」なんて、うーん、私に言えない。そうか、「だんだん」か。
で、途中を省略するけれど。蓋が「がっしりかさな」って、
それは純粋な幸福感
<質問>これはだれの幸福感?
<受講生1>蓋の幸福感。
<受講生2>「ぼく(金井)」の幸福感。
うーん、どっちかわからない。「区別」がつかない。まじりあっている。この「交じりあって」「区別がない」状態を、小川の詩を読んだときは「楽しい」と言ったね。
この詩も、この「それは純粋な幸福感」という、蓋か「ぼく」か区別のつかないところへ来たとき、その「楽しさ」が頂点に達する。
<受講生3>瓶の幸福感だと間違いになりますか?
あ、すっごくいい質問。
私はならないと思う。ほんとうは、そういうことまで金井は書いていると思う。瓶に蓋がしっかりしまり、それが蓋の幸福であり、「ぼく」の幸福であり、同時に瓶の幸福。「区別」がないことが「楽しい=幸福」だからね。
最後の3行は、その「幸福」をじゃましちゃだめだよ、という金井の「わがまま」。子どもはその幸福からはじき出されているのだけれど、構わないね。開けようとしてうんうんうなる--そこにはまた別の幸福があるはず。
書いていないけれど、金井はそういうものも見ている。
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