詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阪本順治監督「北のカナリアたち」(★)

2012-11-08 11:07:52 | 映画
監督 阪本順治 出演 吉永小百合

 若手6人の演技を見たくて行った映画だったが……。
 これは、ひどい。映画になっていない。「生きていなければだめ」というメッセージを伝えたいのはわかるが、この映画を見て、そう感じる? 最後の「うたをわすれたかなりあ」をいっしょに歌いたくなる?
 ならないなあ。
 「のど自慢」を見たときは、最後の「上を向いてあるこう」を思わず口ずさみそうになって、音痴なのを思い出してやめてしまったけれど……。
 何が問題か。
 小百合と6人の教え子、それに小百合の夫、愛人(?)が登場するのだが、これがばらばら。教え子の二人が、ほんとうは相手が好きだったという以外は、互いの関係がない。分校にいていっしょに歌を歌っているけれど、それだけ?
 全員が小百合と個人的に関係するだけ。
 うーん、これって、イスラム教みたい。私がイスラム教を誤解しているかもしれないが、誤解ついでに書いてしまうと、イスラム教というのは神と個人の「直接関係」の宗教。神と個人が、ひとりひとり「契約」を結び、その「契約」を履行すると天国へ行ける。だから9・11のテロにしても、他の人をどれだけ殺そうと、それが神に対して約束したこと(契約)なら、それは天国への道。神が個人に対して問うのは、どのような「契約」を神と結び、それを履行するかどうかだけ。
 で、ここから派生して(?)、人間関係も個人と個人をとても重視する。「直接的な関係」を重視する。「直接的」ではない関係なんて、その人にとっては「関係」ではないのである。
 この視点からみると、吉永小百合の「位置」がとてもすっきりする。
 小百合は子どもたちにとっては「神」。6人のこどもが登場するが、彼らは「神=小百合」と「直接関係」を生きる。そのときたまたま「コーラス」(コーラン、と書きそうになってしまう)を媒介にしているので、そこに「和音」の関係が生まれるが、それは副次的なもの。6人は、他の5人との「直接関係」では動かない、影響を受けない。いや、こどものけんかがあったではないかというかもしれないが、そのけんかで「人間」がかわるわけではない。「神=小百合」のまわりで起きた「飾り」であって、それが証拠に、そのけんかの結果、「神=さゆり」という関係が変わるわけではない。だれかが「先生、私意地悪をされた。かわりに叱って」と訴えるわけではないし、まあ、そんなことは訴えなくても先生なら注意しなければならないから注意するだけであって、その結果「先生は、だれそれの見方で、私のことなんかどうでもいいんだ」というような、こどもっぽい「すねた」何かが動くわけでもない。「神=さゆり」と児童ひとりひとりが「直接関係」を「個人的」に生きているから、こんな具合になる。
 事件(?)の奥にある「神=小百合」と男との密会をこどもが見た、ということさえ、なんというんだろう、「有機的」ではない。ことばのうえでは、小百合は男と会っていたというのが村中のうわさになっていると説明されるが、ぜんぜん有機的ではない。だいたい、そういうことを「主人公」の「こどもたち」が共有していないことがおかしい。こどもというのは何でも共有してしまう。分校で6人しか児童がいないなら、当然、共有されない「秘密」なんていうものはない。そして、そういう「秘密」が共有されるなら、人間関係はもっと濃密になる。
 人間関係が濃密にならないのは、すべて「神=小百合」と「個人」という「直接関係」が重視され、その他の「個人」と「個人」の関係は付属のもの、副次的なもの、と考えられているからである。
 小百合を「神」とあがめる「サユリスト」なら、まあ、こういう映画もいいのかもしれないが。
 人間が人間同士からみあって、そのからみあいがどうしようもなくなる、というところへ人間が動いていってしまう。そして、そのどうにもならないものを、役者が「肉体」として表現して見せる--そういうものでないと、映画とは言えない。スクリーンに大写しになる「役者の肉体」、その苦悩をこそ私は見たい。その苦悩なのかに、人間はこういう苦しみも生きることができる、という「希望」がある。
 映画が描きたいのは、まあ、そういうことだったのかもしれないけれどね。スクリーンからはつたわってこない。て

 問題はまた別のところにもあるかもしれない。
 こどもたち6人は小学校時代とおとなになってからを別人が演じるが、小百合は「神」なので若いときも年を経てからも同じ人物のままである。これがねえ、とっても「まずい」。「神=小百合」対「個人」という「直接関係」がさらに強調されてしまう。
 小百合が演じた教師も若いときとその後を別人が演じるべきなのだ。別人が演じながらも、そこに「先生-児童」という関係が思い出されて、甦るとき、「生きてきた時間(描かれなかった人生)」が噴出してきて、彼らを「いま/ここ」から「未来」へ突き動かしていく。そういうドラマがあってはじめて映画になる。
 ほんとうに描かなければならないのは、「いま」と「過去」のあいだにある「だれも知らない時間」である。その「だれも知らない時間」を小百合も6人のおとなになったこどももきちんとは描かない。「いま不倫しています」「けんかしていたけれど、実は好きでした」というのはほんの一瞬。そういう一瞬ではなくて、「会わなかった長い時間」が描かれないかぎり、それは映画ではなく、単に「小百合ショー」。「小百合」を美しく見せるための「ストーリー」があるだけ。
 小百合は松阪慶子のようにぶざまに太らず、むしろ若いときよりスマートになっている感じさえするが、でも、それがどうしたの、とサユリストではない私は思ってしまうのである。
                        (中州大洋1、2012年11月04日)




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