アン・ホイ監督「桃さんのしあわせ」(★★★★★)
監督 アン・ホイ 出演 ディニー・イップ、アンディ・ラウ
最初はどこに惹きつけられているのかわからないままスクリーンを見ていた。ディニー・イップが朝食の準備をし、アンディ・ラウが食べる。もくもくと食べる。ディニー・イップがご飯をもってくる。アンディ・ラウがふりむきもせず片手で受け取り食べつづけるシーンは、あ、このふたりはもう長い間ずーっとこうやってきたのでことばがいらないんだ、ということを告げる。そして、そのことばのかわりに「動き」があるのだけれど、その「動き」というのは、実は人間だけのものではない--というのはとても矛盾した言い方だが、たとえばアンディ・ラウが向かっている食卓。それは動かないけれど、そこに「ある」という「動き」をしている。「ある」ということは「動いている」、言い換えると「生きている」ということである。この「生きている」に私は惹きつけられた。引き込まれたのだ、しだいしだいに気がついてくる。
どのシーンとはっきりとは思い出せないのだが(つまり、それくらい頻繁にそういうシーンが出てくるのだが)、俳優が動く「場」としての「室内」。俳優をカメラがとらえるとき、俳優だけではなく、そのフレームの中に家具やドアが入ってくる。家具やドアが「ある」。それが動かないまま俳優の演技(アクション)を受け止めている。そこに「もの」が生きているという感じがする。この「もの」の生きている感じ、いっしょに「いま/ここ」に「ある」ということが、なんとも不思議な手触りなのである。
ディニー・イップが脳卒中で入院し、それからリハビリ施設のある老人ホーム(?)に入ってからも、そういう印象がある。そこにある「もの」はディニー・イップがなじんでいる「もの」ではない。ドア(カーテンの仕切り)も部屋ごとの区切りもディニー・イップにはなじみのない「もの」である。ところが、それは彼女にとってなじみがなくても、彼女より長くそこに「ある」、「生きている」。それが静かに彼女を受け止める。その感じがスクリーンから静かに静かにつたわってくる。「主張」ではなく、「事実」としてつたわってくる。
だから。
その施設を私は知っているわけではない。私は他の老人施設も知らない。けれど、ディニー・イップの動きとともにそのフレーム(映像)のなかにテーブルやドアや、ディニー・イップのこまごまとした日用品がまぎれこむとき、私はそれを知っている、と感じる。知らないものなのに知っていると感じる。そのとき感じていることを、ゆっくり思いめぐらしてみると、あ、これは「もの」が「ある」ということは、「もの」が「生きている」ということなのだ、とわかる。
で、この感じが--たぶん、逆に感じないといけないのかもしれないけれど、私の感じた順を正確にたどってみると、この「もの」が「ある」、「もの」が「生きている」という感じが、人間に反映(?)してくる。
アンディ・ラウは最初ディニー・イップが「生きている」とは実感していない。「もの」のように感じているというといいすぎになるけれど、まあ、空気のように、存在を意識せずに暮らしている。最初に書いた食事のシーン、片手を少し持ち上げていると、そこにディニー・イップが運んできた茶碗がのり、それを当然のようにして食べつづけるシーンには「もの」は存在しても「人間」の存在は稀薄である。「茶碗」という「もの」が二人を動かしている。まるで茶碗が「生きていて」、そのいのちを人間が受け止めて動いている感じすらする。
でもそうではなくて、やはり人間が「生きている」。「もの」のように、そこに「ある」ことが当然と思っていた人間は、そこに「ある」のではなく「生きている」。
人間は「ある」のではなく、「生きている」。これは、当然のことなのだけれど、ほんとうは「当然」とは感じていないときがある。老人ホームの入居者を描いたシーンが、そういうことをどぎまぎさせるくらいに感じさせる。人間は「生きている」。しかし、「生きている」ということに対して尊厳がはらわれていない。「もの」として、そこに「ある」という状態に置かれている。--そんなふうに「見える」。醜い体をさらしながら、そこに「ある」。それは「生きている」ので排除できないから、そこに「ある」という状態にしているのだ。これは残酷なことだが、そういう醜さが、「いきる」と「ある」の関係を「事実」として映像化されている。
こういう状況で「生きる」のは、つらい。しかし、ディニー・イップは少しずつ工夫して生きていくし、それをアンディ・ラウはそっと寄り添って見守る。そしてそれはあくまで「生きている」を見守り、寄り添うのであって、それ以上はしない。その過程で、「生きる」「ある」が結びついて、人間が「いる」にかわる。
「もの」は「ある」。しかし、人間は「いる」という。--ああ、日本語っていいなあ。こういう微妙なことが言えるのだから。「もの」が「ある」ことの幸せのように、ひとが「いる」ことが人間を幸せにする。そういうことをスクリーンを見ていると自然に感じるのである。
「もの」が「ある」が「生きる」につながり、ひとが「生きる」が「いる」にかわる。この変化を「なる」と言いなおすこともできるなあ。脳卒中で倒れたディニー・イップをアンディ・ラウが親身な見守るとき、アンディ・ラウは「主人」ではなく「義理の息子」に「なる」。そこに「いる」のは、昔からのアンディ・ラウではなく、「義理の息子」に「なった」ひとりの新しい人間だ。「なる」ことで、アンディ・ラウはさらに「いきる」ことができる。
この人間の「生きる」「いる」「なる」の変化を、この映画は、ほんとうに自然に描いている。いつでも、どこでも見ることのできる日常として描いている。今年、「最強のふたり」という映画が大ヒットしたが(まだ上映されているが)、その映画に比べると「桃さんのしあわせ」は地味すぎる(おもしろみが少ない)が、「地味」だけがもちうる強靱な哲学があると感じた。
蛇足になるけれど、次のシーンも好き。
老人ホームにスケベな男がいる。入居者に無心しては女を買ってセックスをしている。アンディ・ラウは二度目に無心されたとき拒絶するが、ディニー・イップは「好きにさせたらいい」と金をかしてやれとアンディ・ラウに助言する。
このとき、私は、あっと思った。ディニー・イップの生涯というのは、アンディ・ラウの家族の世話をするという、どちらかというと「下積み」の暮らしである。そんなふうに「生きる」ことがほんとうに楽しいの? そういう疑問に対して、ディニー・イップは、「そうやって生きるのが好きなんだ」と答えるだろう。部屋をきれいにして暮らす。おいしいものをつくり、「おいしい」と言ってもらう。特別な人間に「なる」のではなく、ふつうの人間として「いる」。生きて「いる」ことが「好き」なのだ。
ディニー・イップは死んでしまうのだけれど、なぜか、ああ、いいなあ、としみじみと思うのだった。
(2012年11月14日、KBCシネマ2)
監督 アン・ホイ 出演 ディニー・イップ、アンディ・ラウ
最初はどこに惹きつけられているのかわからないままスクリーンを見ていた。ディニー・イップが朝食の準備をし、アンディ・ラウが食べる。もくもくと食べる。ディニー・イップがご飯をもってくる。アンディ・ラウがふりむきもせず片手で受け取り食べつづけるシーンは、あ、このふたりはもう長い間ずーっとこうやってきたのでことばがいらないんだ、ということを告げる。そして、そのことばのかわりに「動き」があるのだけれど、その「動き」というのは、実は人間だけのものではない--というのはとても矛盾した言い方だが、たとえばアンディ・ラウが向かっている食卓。それは動かないけれど、そこに「ある」という「動き」をしている。「ある」ということは「動いている」、言い換えると「生きている」ということである。この「生きている」に私は惹きつけられた。引き込まれたのだ、しだいしだいに気がついてくる。
どのシーンとはっきりとは思い出せないのだが(つまり、それくらい頻繁にそういうシーンが出てくるのだが)、俳優が動く「場」としての「室内」。俳優をカメラがとらえるとき、俳優だけではなく、そのフレームの中に家具やドアが入ってくる。家具やドアが「ある」。それが動かないまま俳優の演技(アクション)を受け止めている。そこに「もの」が生きているという感じがする。この「もの」の生きている感じ、いっしょに「いま/ここ」に「ある」ということが、なんとも不思議な手触りなのである。
ディニー・イップが脳卒中で入院し、それからリハビリ施設のある老人ホーム(?)に入ってからも、そういう印象がある。そこにある「もの」はディニー・イップがなじんでいる「もの」ではない。ドア(カーテンの仕切り)も部屋ごとの区切りもディニー・イップにはなじみのない「もの」である。ところが、それは彼女にとってなじみがなくても、彼女より長くそこに「ある」、「生きている」。それが静かに彼女を受け止める。その感じがスクリーンから静かに静かにつたわってくる。「主張」ではなく、「事実」としてつたわってくる。
だから。
その施設を私は知っているわけではない。私は他の老人施設も知らない。けれど、ディニー・イップの動きとともにそのフレーム(映像)のなかにテーブルやドアや、ディニー・イップのこまごまとした日用品がまぎれこむとき、私はそれを知っている、と感じる。知らないものなのに知っていると感じる。そのとき感じていることを、ゆっくり思いめぐらしてみると、あ、これは「もの」が「ある」ということは、「もの」が「生きている」ということなのだ、とわかる。
で、この感じが--たぶん、逆に感じないといけないのかもしれないけれど、私の感じた順を正確にたどってみると、この「もの」が「ある」、「もの」が「生きている」という感じが、人間に反映(?)してくる。
アンディ・ラウは最初ディニー・イップが「生きている」とは実感していない。「もの」のように感じているというといいすぎになるけれど、まあ、空気のように、存在を意識せずに暮らしている。最初に書いた食事のシーン、片手を少し持ち上げていると、そこにディニー・イップが運んできた茶碗がのり、それを当然のようにして食べつづけるシーンには「もの」は存在しても「人間」の存在は稀薄である。「茶碗」という「もの」が二人を動かしている。まるで茶碗が「生きていて」、そのいのちを人間が受け止めて動いている感じすらする。
でもそうではなくて、やはり人間が「生きている」。「もの」のように、そこに「ある」ことが当然と思っていた人間は、そこに「ある」のではなく「生きている」。
人間は「ある」のではなく、「生きている」。これは、当然のことなのだけれど、ほんとうは「当然」とは感じていないときがある。老人ホームの入居者を描いたシーンが、そういうことをどぎまぎさせるくらいに感じさせる。人間は「生きている」。しかし、「生きている」ということに対して尊厳がはらわれていない。「もの」として、そこに「ある」という状態に置かれている。--そんなふうに「見える」。醜い体をさらしながら、そこに「ある」。それは「生きている」ので排除できないから、そこに「ある」という状態にしているのだ。これは残酷なことだが、そういう醜さが、「いきる」と「ある」の関係を「事実」として映像化されている。
こういう状況で「生きる」のは、つらい。しかし、ディニー・イップは少しずつ工夫して生きていくし、それをアンディ・ラウはそっと寄り添って見守る。そしてそれはあくまで「生きている」を見守り、寄り添うのであって、それ以上はしない。その過程で、「生きる」「ある」が結びついて、人間が「いる」にかわる。
「もの」は「ある」。しかし、人間は「いる」という。--ああ、日本語っていいなあ。こういう微妙なことが言えるのだから。「もの」が「ある」ことの幸せのように、ひとが「いる」ことが人間を幸せにする。そういうことをスクリーンを見ていると自然に感じるのである。
「もの」が「ある」が「生きる」につながり、ひとが「生きる」が「いる」にかわる。この変化を「なる」と言いなおすこともできるなあ。脳卒中で倒れたディニー・イップをアンディ・ラウが親身な見守るとき、アンディ・ラウは「主人」ではなく「義理の息子」に「なる」。そこに「いる」のは、昔からのアンディ・ラウではなく、「義理の息子」に「なった」ひとりの新しい人間だ。「なる」ことで、アンディ・ラウはさらに「いきる」ことができる。
この人間の「生きる」「いる」「なる」の変化を、この映画は、ほんとうに自然に描いている。いつでも、どこでも見ることのできる日常として描いている。今年、「最強のふたり」という映画が大ヒットしたが(まだ上映されているが)、その映画に比べると「桃さんのしあわせ」は地味すぎる(おもしろみが少ない)が、「地味」だけがもちうる強靱な哲学があると感じた。
蛇足になるけれど、次のシーンも好き。
老人ホームにスケベな男がいる。入居者に無心しては女を買ってセックスをしている。アンディ・ラウは二度目に無心されたとき拒絶するが、ディニー・イップは「好きにさせたらいい」と金をかしてやれとアンディ・ラウに助言する。
このとき、私は、あっと思った。ディニー・イップの生涯というのは、アンディ・ラウの家族の世話をするという、どちらかというと「下積み」の暮らしである。そんなふうに「生きる」ことがほんとうに楽しいの? そういう疑問に対して、ディニー・イップは、「そうやって生きるのが好きなんだ」と答えるだろう。部屋をきれいにして暮らす。おいしいものをつくり、「おいしい」と言ってもらう。特別な人間に「なる」のではなく、ふつうの人間として「いる」。生きて「いる」ことが「好き」なのだ。
ディニー・イップは死んでしまうのだけれど、なぜか、ああ、いいなあ、としみじみと思うのだった。
(2012年11月14日、KBCシネマ2)
傾城の恋 [DVD] | |
クリエーター情報なし | |
キングレコード |