詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アン・ホイ監督「桃さんのしあわせ」(★★★★★)

2012-11-15 11:05:56 | 映画
アン・ホイ監督「桃さんのしあわせ」(★★★★★)

監督 アン・ホイ 出演 ディニー・イップ、アンディ・ラウ

 最初はどこに惹きつけられているのかわからないままスクリーンを見ていた。ディニー・イップが朝食の準備をし、アンディ・ラウが食べる。もくもくと食べる。ディニー・イップがご飯をもってくる。アンディ・ラウがふりむきもせず片手で受け取り食べつづけるシーンは、あ、このふたりはもう長い間ずーっとこうやってきたのでことばがいらないんだ、ということを告げる。そして、そのことばのかわりに「動き」があるのだけれど、その「動き」というのは、実は人間だけのものではない--というのはとても矛盾した言い方だが、たとえばアンディ・ラウが向かっている食卓。それは動かないけれど、そこに「ある」という「動き」をしている。「ある」ということは「動いている」、言い換えると「生きている」ということである。この「生きている」に私は惹きつけられた。引き込まれたのだ、しだいしだいに気がついてくる。
 どのシーンとはっきりとは思い出せないのだが(つまり、それくらい頻繁にそういうシーンが出てくるのだが)、俳優が動く「場」としての「室内」。俳優をカメラがとらえるとき、俳優だけではなく、そのフレームの中に家具やドアが入ってくる。家具やドアが「ある」。それが動かないまま俳優の演技(アクション)を受け止めている。そこに「もの」が生きているという感じがする。この「もの」の生きている感じ、いっしょに「いま/ここ」に「ある」ということが、なんとも不思議な手触りなのである。
 ディニー・イップが脳卒中で入院し、それからリハビリ施設のある老人ホーム(?)に入ってからも、そういう印象がある。そこにある「もの」はディニー・イップがなじんでいる「もの」ではない。ドア(カーテンの仕切り)も部屋ごとの区切りもディニー・イップにはなじみのない「もの」である。ところが、それは彼女にとってなじみがなくても、彼女より長くそこに「ある」、「生きている」。それが静かに彼女を受け止める。その感じがスクリーンから静かに静かにつたわってくる。「主張」ではなく、「事実」としてつたわってくる。
 だから。
 その施設を私は知っているわけではない。私は他の老人施設も知らない。けれど、ディニー・イップの動きとともにそのフレーム(映像)のなかにテーブルやドアや、ディニー・イップのこまごまとした日用品がまぎれこむとき、私はそれを知っている、と感じる。知らないものなのに知っていると感じる。そのとき感じていることを、ゆっくり思いめぐらしてみると、あ、これは「もの」が「ある」ということは、「もの」が「生きている」ということなのだ、とわかる。
 で、この感じが--たぶん、逆に感じないといけないのかもしれないけれど、私の感じた順を正確にたどってみると、この「もの」が「ある」、「もの」が「生きている」という感じが、人間に反映(?)してくる。
 アンディ・ラウは最初ディニー・イップが「生きている」とは実感していない。「もの」のように感じているというといいすぎになるけれど、まあ、空気のように、存在を意識せずに暮らしている。最初に書いた食事のシーン、片手を少し持ち上げていると、そこにディニー・イップが運んできた茶碗がのり、それを当然のようにして食べつづけるシーンには「もの」は存在しても「人間」の存在は稀薄である。「茶碗」という「もの」が二人を動かしている。まるで茶碗が「生きていて」、そのいのちを人間が受け止めて動いている感じすらする。
 でもそうではなくて、やはり人間が「生きている」。「もの」のように、そこに「ある」ことが当然と思っていた人間は、そこに「ある」のではなく「生きている」。
 人間は「ある」のではなく、「生きている」。これは、当然のことなのだけれど、ほんとうは「当然」とは感じていないときがある。老人ホームの入居者を描いたシーンが、そういうことをどぎまぎさせるくらいに感じさせる。人間は「生きている」。しかし、「生きている」ということに対して尊厳がはらわれていない。「もの」として、そこに「ある」という状態に置かれている。--そんなふうに「見える」。醜い体をさらしながら、そこに「ある」。それは「生きている」ので排除できないから、そこに「ある」という状態にしているのだ。これは残酷なことだが、そういう醜さが、「いきる」と「ある」の関係を「事実」として映像化されている。
 こういう状況で「生きる」のは、つらい。しかし、ディニー・イップは少しずつ工夫して生きていくし、それをアンディ・ラウはそっと寄り添って見守る。そしてそれはあくまで「生きている」を見守り、寄り添うのであって、それ以上はしない。その過程で、「生きる」「ある」が結びついて、人間が「いる」にかわる。
 「もの」は「ある」。しかし、人間は「いる」という。--ああ、日本語っていいなあ。こういう微妙なことが言えるのだから。「もの」が「ある」ことの幸せのように、ひとが「いる」ことが人間を幸せにする。そういうことをスクリーンを見ていると自然に感じるのである。
 「もの」が「ある」が「生きる」につながり、ひとが「生きる」が「いる」にかわる。この変化を「なる」と言いなおすこともできるなあ。脳卒中で倒れたディニー・イップをアンディ・ラウが親身な見守るとき、アンディ・ラウは「主人」ではなく「義理の息子」に「なる」。そこに「いる」のは、昔からのアンディ・ラウではなく、「義理の息子」に「なった」ひとりの新しい人間だ。「なる」ことで、アンディ・ラウはさらに「いきる」ことができる。
 この人間の「生きる」「いる」「なる」の変化を、この映画は、ほんとうに自然に描いている。いつでも、どこでも見ることのできる日常として描いている。今年、「最強のふたり」という映画が大ヒットしたが(まだ上映されているが)、その映画に比べると「桃さんのしあわせ」は地味すぎる(おもしろみが少ない)が、「地味」だけがもちうる強靱な哲学があると感じた。

 蛇足になるけれど、次のシーンも好き。
 老人ホームにスケベな男がいる。入居者に無心しては女を買ってセックスをしている。アンディ・ラウは二度目に無心されたとき拒絶するが、ディニー・イップは「好きにさせたらいい」と金をかしてやれとアンディ・ラウに助言する。
 このとき、私は、あっと思った。ディニー・イップの生涯というのは、アンディ・ラウの家族の世話をするという、どちらかというと「下積み」の暮らしである。そんなふうに「生きる」ことがほんとうに楽しいの? そういう疑問に対して、ディニー・イップは、「そうやって生きるのが好きなんだ」と答えるだろう。部屋をきれいにして暮らす。おいしいものをつくり、「おいしい」と言ってもらう。特別な人間に「なる」のではなく、ふつうの人間として「いる」。生きて「いる」ことが「好き」なのだ。
 ディニー・イップは死んでしまうのだけれど、なぜか、ああ、いいなあ、としみじみと思うのだった。
                     (2012年11月14日、KBCシネマ2)


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千葉剛「詩人ディキンスンの2ショット」

2012-11-15 00:56:52 | 詩(雑誌・同人誌)
千葉剛「詩人ディキンスンの2ショット」(「朝日新聞」2012年11月13日夕刊)

 ディキンスンの2枚目の写真が発見された。女性といっしょに写っている。これはディキンスンが同性愛者だったという説を補強するのものだという。
 ふーん。
 同性と二人で写っている写真があると「同性愛」か。
 私なんか、犬とキスしている写真まであるんだけれど、どうなるのかなあ。

 ということよりも。
 千葉剛の書いている次の部分がとても気になった。

ああ 海よ!
今宵(こよい)こそ--あなたの胸に--
錨(いかり)をおろすことができるなら!
           (F269 千葉剛訳)

 これは愛をテーマとした詩「嵐の夜よ--嵐の夜よ!」の終わりの3行だが、同性愛の心境の反映と考えれば詩の意味が理解しやすくなる。海は広く深く、ここでは包容力のある恋人を意味する。錨は固くて水底目指して突き進んでいくものであり、そのイメージから男性性器を意味する。愛する女性と一体になるには、自分自身が男性にならなければいけない。つまり、エミリィの性交願望の表出であり、同性愛ゆえの表現と言えるだろう。

 これが女性のひとのことばなら、そうなのかなあ、と思うが、千葉剛というのは、私はよく知らないがたぶん「男性」だろう。そうなると、これはあてにならないなあ。というか、これってマッチョ思想そのものの視点であり、とても信じられない。
 同性愛の場合、一方が女性であり、もうひとりが男性であらなければならないというのは、ほんとうなのだろうか。それは同性愛を異性愛に置き換えて理解しているに過ぎなくて、ほんとうは違っているのではないだろうか。
 女性だけれど男性のように女性を愛したい、というのがディキンスンの同性愛だと仮定してみる。この仮定は、男にはとても簡単な仮定である。だから、すぐに納得してしまうけれど。でも、変だなあ、と私は思う。
 では、ディキンスンの相手は? どう思っている? 女性だけれど、男性のように振る舞ってくれる女性に愛されたい? こう考えたとき、変だと思わないのだろうか。
 ディキンスが男性として女性を「愛したい」なら、他方の女性は「愛されたい」でいいのか。
 「愛」は「愛したい」「愛されたい」と二人が分業しておこなうことなのか。違うんじゃないのかなあ。愛すると同時に愛されたい。そこには「能動/受動」の区別がない。そういう区別があるときは「愛」には達していない。
 ディキンスンはどんなふうに愛されたいと感じていたのか。相手の女性はどんなふうに愛したいと感じていたのか。そして、そのふたりの「愛したい/愛されたい」が「ひとり」のなかで人間を動かしていたかを理解しないことには、「愛」自体を誤解することにならないだろうか。
 錨が「固く」「突き進んでいく」から「男性性器」を意味するだとしたら、「あなたの胸」は、なぜ、海なのだろう。胸と海の共通項は? 女性性器との共通項は? 胸(乳房)は確かに女性の魅力であるし、乳房に欲望をかきたてられるというのはわかるけれど、乳房がなぜ海? 錨を男性性器と呼ぶのなら、胸と海との関係も女性性器に結びつけて明らかにしてほしいと思う。
 詩なのだから、何がなんでも全部論理的にとらえなくてもいい--というのなら。
 うーん。なぜ、簡単に錨と男性性器だけを結びつけたのか、そのことが私にはよくわからない。

 それに。
 私は「嵐の夜よ--嵐の夜よ!」を読んでいないので勝手な想像になってしまうが、嵐の夜に、海に深く錨をおろしたいというのは、女性を男性として愛したいという欲望とは関係がないんじゃないだろうか。嵐とどこで出合うかにもよるけれど、嵐の日に船が錨をおろすのは流されてしまわないためなのではないだろうか。そうすると、それは男性性器となって海を愛するということとは違うんじゃないだろうか。

 わからない。
 千葉の文章から私がわかるのは、そうか、千葉は、自分に固く突き進んでゆく男性性器を男性のあかしとして要求しているということだけである。
 マッチョ思想にもとづいて、ディキンスの同性愛を描写したって、それは女性の同性愛とは無縁だろうなあ、誤解するだけだろうなあ、としか思えない。



エミリィ・ディキンスン詩集
エミリィ・ディキンスン
七月堂
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