浜田優『生きる秘密』(思潮社、2012年10月25日発行)
浜田優『生きる秘密』を読みながら、あ、そうか、詩とは比喩なのか--と、あたりまえのようなことにあらためて気づいた。詩が比喩であることを私は忘れていた。
「約束」を読んだとき、私はそれが何を書いているのか一瞬わからなかった。
「夏」ということばとがあるから、夏の情景である、と私は単純に考える。ある夏の一日、「私(浜田、と仮定しておく)」は蛾か蝶かわからないが青虫(毛虫の幼虫?)が葉っぱを食べているのを見た。それを見ながら、蛹になって蝶になって飛んで行く姿を想像した。そのうち青虫を見失った。(蛾か蝶になって、飛んで行ったのかもしれない)。見失ったので、その青虫に託すはずだった「新生への希望」(生まれ変わりたい欲望?)もまた見失われてしまった--というようなことが書いてあるのかなあ。
ことばが変な具合に「清潔」である。
こんな表現(言い方)を私はしない。「脳髄で自問する」。びっくりする。びっくりするのだけれど、その「びっくり」のなかに、なぜか「清潔」という印象が入ってくる。これは「抽象的」なものがもっているひとつの「性質」かもしれない。抽象的なものは、なぜか「どろどろ」と絡みついてくる感じがしない。ある「距離感」がある。「客観的」ということばと「抽象的」ということばは、私のなかではどうも重なり合う部分がある。
「自問する」とは、あれこれ悩む、考えこんでどうにもならないことばをこねまわすという具合に書いてしまうと、ほら、何か、うるさくて「清潔」というかんじじゃなくなってしまうけれど、浜田はあくまで「自問する」と、自分自身を「客観的」に見ている。
ほう。
で、ついでに「しんしんと痺れる」と「痺れる」まで「客観的」に描写したりする。ねえ、脳髄がしんしんと痺れているなら「自問」なんかしないで、はやく病院へ行って検診を受けてみたら、などと、ここでは言ってはいけないのだが。
うん。
私は、そのことばの「清潔さ」がかなり気になったのである。
ことばが「清潔」であることがたぶん浜田の詩の特徴(評価の中心)なのかなあ、と思ったが--いや、実際に、この「清潔さ」は非常に印象に残るのである。
青虫は、葉を食べながら丸まっている。それが「勾玉」に見えるというのも、翡翠の勾玉を見るような気持ちになるからね。毛虫になって、蛹になってというような生々しい変化ではなく、勾玉という鉱物、それからそれが笛(音楽)になる変化--ここに「清潔」の「清潔」たる理由があるね。
で、そういうことを考えながら、いま私が感じている変な「違和感」は何だろうと、私は体のなかが揺さぶられる思いがした。私はほんとうは何を感じているのかな?
それこそ「自問」している自分に出会い、わっ、浜田のことばに染まっているとも思った。私が私でなくなっていくような感じ。--これが「快感」なら、それはそのまま詩の体験であり、その私が私ではなくなっていく「誤読」へ私は突き進むのだけれど。
うーん。
何かがひっかかる。
何がひっかかるのだろう。
で、「雨の台座」まで読んできて、そこで私は「あっ」と声をあげてしまった。
これは「雨」を「種子」という「比喩」に置き換えて語った行である。そうか。詩は比喩なのか--と、このときはっきりわかったのである。
比喩とは、「いま/ここ」にないものを借りて、「いま/ここ」にあるものを描く。「種子」はほんとうは「いま/ここ」にない。けれど、そのことばを借りて「いま/ここ」になる「雨」のかわりに動かしてみる。そうすると、「雨」のなかにある「運動」が見えてくる。「雨」は大地(アスファルト)に落ちてもそこから芽ぶくことはない。そのまま死んでしまう。「燃えつきてしまう」。これは、雨を描きながら、同時に植物(種子)と大地の関係を語ることでもある。
こういう「比喩」を語るとき、「私」は「どこ」にいるのか。
「いま/ここ」にいない。
「いま/ここ」かもしれないが、そしてそこに雨が降っているかもしれないが、ことばを動かす「脳髄」は「いま/ここ」にどっぷりとひたっている(染まり切っている)わけではなく、何か遠くにいる。「安全地帯」のような場所で「いま/ここ」を客観視している。
「比喩」とはきわめて個人的・主観的なものであるけれど、同時に「客観的」なのものである。「客観」の要素がないと、その比喩は他者には共有されない。
あ、ここなんだな、と私は思う。
他者と共有できる「客観」としての「比喩」。それは「客観」であるからこそ「清潔」なのだ。主観にまみれていない。個人的事情にまみれていない。それは客観であるから、どんなに接近しても「私(読者)」にとっては「遠い」ままである。たとえ「いま/ここ」であっても、私の「主観」にふれてることはない。
ああ、ここからが問題だなあ。
「私の主観」にふれてこなくても、それは「文学」なのか。
これは大問題だぞ。
この問題に、私は自分自身の「答え」というものを出し切れていない。よくわからないのである。
ただなんとなく、ここ数年(もっと前からかもしれない、10年以上前になるかもしれない)、「客観」というものを私はうさんくさく感じはじめている。「主観/客観」という分類の仕方にうさんくさいものを感じている。
なのに。
いまもこうやって「主観/客観」ということばをつかうしかなくて。
そして、浜田の「客観」と「比喩」のことを考えようとしてつまずいているのだが。
こういう問題は、まあ、保留しておく。放置しておく。
きょうはここまでことばを動かしてみたと書いておくしかないことがらである。
で、(と、ここで飛躍する)。
「雨と台座」には「雨」の3行のあと、次のことばも出てくる。
あ、これは魅力的なことばだ。
私もそう思う。言語(ことば)は論理的に不可能なこと(客観的ではないこと)が楽々とできてしまう。
そしてこれこそが、ことばを考えるとき、大問題として「いま/ここ」にある。非論理的というのは、ある意味で「客観的ではない」ということである。「主観的」である。思いつきである。それを支えてくれる「科学的証拠」などない。
でも、これって「主観」でいいのかな?
問題のたて方が、どこかで間違っているのだろう。
何かを考える。そのとき、たいてい「断定」する。そして「断定」は共有されるとき「客観」となる--といえるかどうかはわからないけれど、まあ、テキトウにそう考えておくのだが、テキトウというのは、そのことにこだわってしまうと、また「主観/客観」の何かがねじれてくる。わけがわからなくなるからである。
だんだん詩集感想からかけ離れてくる。
まあ、仕方がない。
私はもともと「感想」を書くふりをしているだけで、ほんとうは一度も詩の感想など書いたことがない。詩をそっちのけにして、その日その日、ことばについて考えたことを書いているのだから。
*
たぶん--というのは、またいいかげんな方便なのだが。
たぶん、浜田の詩は、私が「客観」と呼んだものの向こう側というか、その「客観(比喩)」の運動の「法則」のようなものを追っていくと、全体像が鮮やかになるのだと思う。
「いま/ここ」にある「現実」。それは「現実」とはいっても「流通言語」にまみれているだけの「仮構」である。その「仮構」に浜田は「比喩」という「主観的客観(言語矛盾だね)」を持ち込むことで「現実」を破壊する。その瞬間に詩が誕生する。
ね、ことばって、なんでも「それらしいこと」が言えてしまうでしょ?
気をつけようね。
浜田優『生きる秘密』を読みながら、あ、そうか、詩とは比喩なのか--と、あたりまえのようなことにあらためて気づいた。詩が比喩であることを私は忘れていた。
「約束」を読んだとき、私はそれが何を書いているのか一瞬わからなかった。
あまりにもはやくいってしまったから
いたむ夏には一点の染みもなく
視界は光の海に灼かれ
炎天の真下、しんしんと痺れる脳髄で私は自問する
私がおまえに託すはずだった新生の希望は
この夏の日ざかりのようにじゅうぶん白かった
それから薄い楕円になって揺れる木蔭にいて
聞こえる、聞こえてくる
いっしんに青葉を食む幼虫のさざ波は曲がった勾玉の笛
蛹になったら、あさぎ色の産着にくるまれて
かたく身を尖らせて眠るふいごの息、ああ
まだ翔べないのに
おまえどこへいったのか
「夏」ということばとがあるから、夏の情景である、と私は単純に考える。ある夏の一日、「私(浜田、と仮定しておく)」は蛾か蝶かわからないが青虫(毛虫の幼虫?)が葉っぱを食べているのを見た。それを見ながら、蛹になって蝶になって飛んで行く姿を想像した。そのうち青虫を見失った。(蛾か蝶になって、飛んで行ったのかもしれない)。見失ったので、その青虫に託すはずだった「新生への希望」(生まれ変わりたい欲望?)もまた見失われてしまった--というようなことが書いてあるのかなあ。
ことばが変な具合に「清潔」である。
炎天の真下、しんしんと痺れる脳髄で私は自問する
こんな表現(言い方)を私はしない。「脳髄で自問する」。びっくりする。びっくりするのだけれど、その「びっくり」のなかに、なぜか「清潔」という印象が入ってくる。これは「抽象的」なものがもっているひとつの「性質」かもしれない。抽象的なものは、なぜか「どろどろ」と絡みついてくる感じがしない。ある「距離感」がある。「客観的」ということばと「抽象的」ということばは、私のなかではどうも重なり合う部分がある。
「自問する」とは、あれこれ悩む、考えこんでどうにもならないことばをこねまわすという具合に書いてしまうと、ほら、何か、うるさくて「清潔」というかんじじゃなくなってしまうけれど、浜田はあくまで「自問する」と、自分自身を「客観的」に見ている。
ほう。
で、ついでに「しんしんと痺れる」と「痺れる」まで「客観的」に描写したりする。ねえ、脳髄がしんしんと痺れているなら「自問」なんかしないで、はやく病院へ行って検診を受けてみたら、などと、ここでは言ってはいけないのだが。
うん。
私は、そのことばの「清潔さ」がかなり気になったのである。
ことばが「清潔」であることがたぶん浜田の詩の特徴(評価の中心)なのかなあ、と思ったが--いや、実際に、この「清潔さ」は非常に印象に残るのである。
青虫は、葉を食べながら丸まっている。それが「勾玉」に見えるというのも、翡翠の勾玉を見るような気持ちになるからね。毛虫になって、蛹になってというような生々しい変化ではなく、勾玉という鉱物、それからそれが笛(音楽)になる変化--ここに「清潔」の「清潔」たる理由があるね。
で、そういうことを考えながら、いま私が感じている変な「違和感」は何だろうと、私は体のなかが揺さぶられる思いがした。私はほんとうは何を感じているのかな?
それこそ「自問」している自分に出会い、わっ、浜田のことばに染まっているとも思った。私が私でなくなっていくような感じ。--これが「快感」なら、それはそのまま詩の体験であり、その私が私ではなくなっていく「誤読」へ私は突き進むのだけれど。
うーん。
何かがひっかかる。
何がひっかかるのだろう。
で、「雨の台座」まで読んできて、そこで私は「あっ」と声をあげてしまった。
雨は種子
アスファルトに撒かれてすぐ
燃えつきる種子
これは「雨」を「種子」という「比喩」に置き換えて語った行である。そうか。詩は比喩なのか--と、このときはっきりわかったのである。
比喩とは、「いま/ここ」にないものを借りて、「いま/ここ」にあるものを描く。「種子」はほんとうは「いま/ここ」にない。けれど、そのことばを借りて「いま/ここ」になる「雨」のかわりに動かしてみる。そうすると、「雨」のなかにある「運動」が見えてくる。「雨」は大地(アスファルト)に落ちてもそこから芽ぶくことはない。そのまま死んでしまう。「燃えつきてしまう」。これは、雨を描きながら、同時に植物(種子)と大地の関係を語ることでもある。
こういう「比喩」を語るとき、「私」は「どこ」にいるのか。
「いま/ここ」にいない。
「いま/ここ」かもしれないが、そしてそこに雨が降っているかもしれないが、ことばを動かす「脳髄」は「いま/ここ」にどっぷりとひたっている(染まり切っている)わけではなく、何か遠くにいる。「安全地帯」のような場所で「いま/ここ」を客観視している。
「比喩」とはきわめて個人的・主観的なものであるけれど、同時に「客観的」なのものである。「客観」の要素がないと、その比喩は他者には共有されない。
あ、ここなんだな、と私は思う。
他者と共有できる「客観」としての「比喩」。それは「客観」であるからこそ「清潔」なのだ。主観にまみれていない。個人的事情にまみれていない。それは客観であるから、どんなに接近しても「私(読者)」にとっては「遠い」ままである。たとえ「いま/ここ」であっても、私の「主観」にふれてることはない。
ああ、ここからが問題だなあ。
「私の主観」にふれてこなくても、それは「文学」なのか。
これは大問題だぞ。
この問題に、私は自分自身の「答え」というものを出し切れていない。よくわからないのである。
ただなんとなく、ここ数年(もっと前からかもしれない、10年以上前になるかもしれない)、「客観」というものを私はうさんくさく感じはじめている。「主観/客観」という分類の仕方にうさんくさいものを感じている。
なのに。
いまもこうやって「主観/客観」ということばをつかうしかなくて。
そして、浜田の「客観」と「比喩」のことを考えようとしてつまずいているのだが。
こういう問題は、まあ、保留しておく。放置しておく。
きょうはここまでことばを動かしてみたと書いておくしかないことがらである。
で、(と、ここで飛躍する)。
「雨と台座」には「雨」の3行のあと、次のことばも出てくる。
遺伝子を断ち切れ
生命にはできないことが
言語にはできる
あ、これは魅力的なことばだ。
私もそう思う。言語(ことば)は論理的に不可能なこと(客観的ではないこと)が楽々とできてしまう。
そしてこれこそが、ことばを考えるとき、大問題として「いま/ここ」にある。非論理的というのは、ある意味で「客観的ではない」ということである。「主観的」である。思いつきである。それを支えてくれる「科学的証拠」などない。
でも、これって「主観」でいいのかな?
問題のたて方が、どこかで間違っているのだろう。
何かを考える。そのとき、たいてい「断定」する。そして「断定」は共有されるとき「客観」となる--といえるかどうかはわからないけれど、まあ、テキトウにそう考えておくのだが、テキトウというのは、そのことにこだわってしまうと、また「主観/客観」の何かがねじれてくる。わけがわからなくなるからである。
だんだん詩集感想からかけ離れてくる。
まあ、仕方がない。
私はもともと「感想」を書くふりをしているだけで、ほんとうは一度も詩の感想など書いたことがない。詩をそっちのけにして、その日その日、ことばについて考えたことを書いているのだから。
*
たぶん--というのは、またいいかげんな方便なのだが。
たぶん、浜田の詩は、私が「客観」と呼んだものの向こう側というか、その「客観(比喩)」の運動の「法則」のようなものを追っていくと、全体像が鮮やかになるのだと思う。
「いま/ここ」にある「現実」。それは「現実」とはいっても「流通言語」にまみれているだけの「仮構」である。その「仮構」に浜田は「比喩」という「主観的客観(言語矛盾だね)」を持ち込むことで「現実」を破壊する。その瞬間に詩が誕生する。
ね、ことばって、なんでも「それらしいこと」が言えてしまうでしょ?
気をつけようね。
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