詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中山直子『雲に乗った午後』

2012-11-06 10:35:39 | 詩集
中山直子『雲に乗った午後』(土曜美術社出版販売、2012年10月10日発行)

 中山直子『雲に乗った午後』の詩篇は、私は苦手である。たとえば「氷雨」。

氷雨よ
おまえは なんと まっすぐに
冷たく 正直に
ふるのだろう

氷雨よ
はるかな鈍色の情感から
無心に せつせつと
くだる

音なく 暗く
ただ しんしんと
冷える日

けれど 氷雨よ
いまこそ わたしの
生きねばならぬ時

 「苦手」の理由は最終行。そう書かなければならない理由があるのだろうけれど、そう書かれただけではわからない。で、こういうことに対して批判すると、「私にはこれこれの理由があるんです」云々という反論(?)がときどき返ってくる。
 そりゃあねえ、だれにだって理由はある。でも、それがどうしたの? それがどんなに肉体的に、あるいは精神的につらいことであろうと、そんなことは、私には関係ない。
 一方。
 たとえば道でだれかがうずくまって、腹をかかえてうんうんうなっている。そうすると、それが「演技」であっても、あ、腹が痛いんだ、「だいじょうぶですか?」と声をかけてしまう。私には関係がないのに、その腹の痛みさえ感じてしまう。
 この違い。
 「私には関係がない」ことであって、しかもそれが嘘であってもこころが動くことがあるのに、それがほんとうであったとしてもぜんぜんこころが動かないことがある。
 それなのに、その「理由(?)」を中山は「けれど」という「論理的」なことばでつないでゆく。「けれど」はその単語だけである「意味」をもっている。前に書かれたことを否定するという「意味」をもっている。そして、その「意味」についてこい、と読者に言う。
 あ、これがいやなんだなあ。「論理」のなかにある押し付け。そして、それが「生きねばならぬ」とつながるとき、私なんかは臆病なので、それを否定できない。「生きねばならぬ」と言っているひとに、そんなことはないよ、とは言えない。「同情(?)」を強いられているような気持ちになる。
 これは、いやだなあ。

 いやだなあ、と書きながら、なぜこの詩集を鳥開けているかというと、1連目の「まっすぐに」「冷たく 正直に」の組み合わせが「流通言語」とは少し違う。「正直に」が、簡単に言うと、かわっている。冷たく降る氷雨は、ふつうは「意地悪」なものである。いやなものである。けれど、それを中山は「正直」と呼んでいる。「まっすぐに」から導き出されたことばなのだが、「まっすぐに 正直に」ではなく、そのあいだに「冷たく」ということばが入ることで曲折する。この曲がり方と、それをもとに戻す(?)感じ、ことばが揺れ動くところが魅力的なのだ。
 もう少し読んでみようかな、という気持ちにさせられる。

雪晴れの朝
広い寂しい十字路で
鳩が 雪を 食んでいる
--ぽっぽろう くっくう
                          (「雪を食む鳩 母の姿」)

 「ぽっぽろう くっくう」というのは美しい音だ。中山は、こういう音を聞く耳を自然な感じでもっている。それも、私にはうれしい。ただし、この鳩が母の思い出とつながっていくのは、「理由」としては「反論」できないのだが--私のいつもつかっている表現で言えば、そこから「誤読」はできないのだけれど、それが、うーん、窮屈。
 私はいつでも、どんな詩でも「誤読」したいのだ。
 だから、「シベリアの原野の白鳥」のような詩は「感動的」であるかもしれないが、その「感動的でしょ?」という感じがいやで、身を引いてしまう。へんに説教くさい。説教は聞きたくないなあ。それがどんなに正しいことであっても、と私は思う。
 似たような(?)話なら、志賀直哉の「鳩」だったかな、番の鳩と志賀直哉の友人の鉄砲内のことを書いた短編の方が実におもしろい。志賀直哉が書いていないことをどんどん「誤読」してゆける。 

 で、「誤読」のついでに書くと。
 「牛の瞳」。この詩は好きだなあ。「誤読」できる。同人誌(だったと思う)で読んだとき感想を書いた記憶がある。なんと書いたか、よく覚えていないけれど、たしか書いたと思う。この詩はとても好きだ。

かっきりと大きく見開かれた
澄んだ瞳の牡牛が
牛舎の柵のそばまで来て
不思議そうに 私の顔をじっと見る

「よしよし」と言いながら
柵からはみ出した秣(まぐさ)を
向こうに押しやる
もそもそと長い舌で巻きとって
少し食べる
また 見ている

「こいつ 興味津津なんですよ」
ニーダ・ザクセンの牛飼いが言う
朝焼けいろしたエリカの咲く
荒地の近く
「さよなら」と言っても
まだ 見ている

 ここには「過去」がない。つまり、ここには中山の「体験」したことが、その「体験」のなかに入ってきていない。中山ははじめてその牛と出会い、その牛の表情に向き合っている。いま体験していることを「意味」として支えてくれる「過去」がない。たとえば、そこに母の入ってくる余地はない。--いや、ほんとうは、そこには「鳩」の詩のときと同じように母が入ってきてもいいのだけれど、中山はそれをうまく組み込むことができずにいる。
 「過去」がないと、逆に、「過去」が剥き出しになる。人間性が剥き出しになる。
 じっと見つめてくる完全なる他者(牛、それまで話ここともない存在である)に向き合い、知らず知らずに「よしよし」ということばが出てくる。その「よしよし」はたとえば小犬に言ったことがあるかもしれない。あるいは自分の子ども、見知らぬ子どもにもに言ったことがあるかもしれない。そのときと同じ「よしよし」--その「同じ」の感覚のなかに「過去」が噴出する。
 あ、中山はいいひとなんだなあ、とその瞬間にわかる。
 こういう感覚は、たぶん動物にもつたわる。生き物の本能にふれる何かである。
 だから牛は中山の押しやった秣を食べる。そうして中山を見つめる。
 このひと、どういうひとなんだろう。ひとと暮らしている動物は、それが知りたいものである。それが「興味津津」ということである。
 「興味津津」のとき、「警戒心」は消える。無防備になる。その無防備同士が出合う。無防備同士が出会うと、その瞬間、世界が一気に広がるね。自分の枠を越えて、いままでの自分じゃなくなる。セックスのエクスタシーに似ている。あの瞬間って、みんな無防備でしょ?

「さよなら」と言っても
まだ 見ている

 これは「シベリアの白鳥」よりも、もっと感動的である。
 中山は、その瞳を「ことば」ではなく瞳のまま「覚えている」ということが、その無防備さからつたわってくる。
 ひとがもし何かを共有しなければならないとしたら、こういう「無防備」こそ共有すべきなのだと思う。
 あ、「説教」になってしまったかな?



雲に乗った午後―詩集
中山 直子
土曜美術社出版販売
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