詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

福田知子『ノスタルギィ』

2012-11-26 09:55:11 | 詩集
福田知子『ノスタルギィ』(思潮社、2012年11月15日発行)

 福田知子『ノスタルギィ』は、音がとても印象に残る。
 「緑の劇場」という作品の冒頭。

三つの緑に向かい合っている
緑と話す日々……

--泡雪に白く凍る緑
--光のレエスを纏う緑
--眩しい紅葉に翳る緑

 「緑」という「音」は「ひとつ」である。しかし、その「色」はどうか。「三つ」と福田は簡単に呼んでいるが、その「三つ」が私には簡単にはつかめない。「泡雪に白く凍る緑」ということばのなかには「緑」以外の色があり、それが緑を簡単には感じさせてくれない。どうしてもほかの色と交じりあう。しかも、その交じり合いは単純ではない。「白」も単純な「白」ではないからだ。「白く凍る緑」というとき、「凍る」のは「白」か「緑」か。区別ができない。
 そして、その「区別のできない緑」が「三つ」描かれるとき、それでもそれは「三つ」? 私はこういう単純な算数が苦手である。「区別がない」と「ひとつ」になってしまう。ほんとうは「三つ」なのかもしれないけれど、その「三つ」のなかには「ひとつ」があると感じてしまう。
 で、その色は?
 わからないね。そのかわり「みどり」という「音」が、「色」を超えて「色」を「ひとつ」にしているように感じるのだ。
 「音が印象に残る」というとき、実は「音」を聞きながら「音」以外のものを感じているということかもしれない。

 「緑の詐欺師」の音は、「音のなかには音以外のものがある」ということを強烈に訴えかけてくる。

ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!
幾星霜の雨林を泳げ
昼なお暗い宇宙の森の水槽アマゾン
海から河の上流へと逆流するポロロッカのように
濁流を渡って

ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!
泥まみれの河の精
三〇億年の酸素のかたみを
地球の創世記に返すまで

ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!
アマゾンの熱帯雨林にきれいな朝焼けがかかる
たたみかけるように強い陽ざしが照りつけ
スコールが水面を強打する
そのとき河の底は古代王国のように静かだ
何事もなっかたかのように彼らは
泳いでいく

 「ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!」とは何なのか。「ピラクル」が泳いでいるときの「音楽」、福田が受け止めたいのちの「鼓動」かもしれない。
 そして、その「音楽=鼓動」は「ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!」につづくことばで言いなおされている。言い直しというのは「違うことば」によっておこなわれるのだけれど、それが指し示しているのは同じもの。福田が受け止めたいのちの「鼓動」。それは繰り返され、重なることで「交響曲」になる。ひとつの音が「和音」を呼び、「和音」が「メロディー」を呼び、それが重なり合って「交響曲」になる。
 だから。
 その「交響曲」は「複数の音」でできあがるけれど、それは複数であることによって「ひとつの音」になる。
 この変化は、豪快で、強烈で、気持ちがいい。

ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!
ピラクルがアマゾン河からヌメリのある顔を出して
ふうっと酸素を吸い込んだとき
緑をまとったわたしは詐欺師だった
ピララーラが鯰の直感で大地震を予知したとき
わたしは給食を食べる小学生だった
ピライーバがはじめて釣り上げられたとき
わたしはイスパニアの石段で詩を朗読していた

ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!
アマゾンの河の精たちよ
おまえたちが須磨水族園のアマゾン館にやって来た未明
わたしは生まれたばかりで
星の顔をした母親が
天の川の産湯をつかわせていた

 「ピラクル」という魚から始まる「音楽」は、そうやって「わたしの誕生」から「宇宙」までをのみこみ「ひとつ」の「交響曲」にしてしまう。
 こういうことが可能なのは「音」が「意味」であると同時に、意味を超えるものだからである。

 でも、どうやって、意味を超えるのかなあ。

 この質問(疑問)は、まあ、めんどうくさいものを含んでいる。つまり、簡単には答えることのできない問題をいろいろ抱え込んでいる。
 けれど、私は簡単にいってしまう。
 「肉体」をつかって超えてしまうのである。ことばを「音」にする。つまり「声」にする。「声」にするとき、のどをつかう。口も、舌も、歯もつかう。鼻腔もつかうなあ。下腹だってつかう。耳もつかっている。ひっとすると目だってつかっているかもしれない。「息」を吸い込み、「息」を吐き出す。人間の呼吸にあわせて、ことばが呼吸し、それに合わせて世界が呼吸する。そして「リズム」が生まれる。
 福田のことばは、どうやら、そういうものを潜り抜けてきている。だからひとつの「音」、ひとつの「ことば」のなかに、何か複数のものがある。そしてそれは複数であることによって、より強い「ひとつ」に結晶する。そういう「運動」が生きている。

 「春の嵐によせて」の書き出しの2行にも非常に衝撃を受けた。

さみどりの 目覚めの際(きわ)のみどりよ
ゆきつ戻りつ みどりを祈(の)みつつ

 この詩にも「緑」が「みどり」という形で繰り返されているのだが、その「みどり」が「のみつつ」という「音」に変化する。「のみつつ」のなかにある「み」が「みどり」の「み」と呼応する。
 この2行を声にするとき(私は黙読しかしないので、実際に声は出さないのだが、声に出さない黙読のときでも喉や舌やなにかは動くのである)、もえいづる「みどり」そのもののなかに「いのり」があるという感じが「肉体」のなかに力強く育ってくる。なにからしら「野生の力」というのか「原始の力」のようなものと「肉体」が触れあうのを感じる。それは万葉集の歌の「音のゆらぎ」を肉体で感じるときによく似ている。
 「ピラクル、ピララーラ、ピライーバ!」というのは「日本の音」ではないのだが、「原始の音」であることによって、国籍(国語)を超えて「肉体」に響いてくるのかもしれない。福田の肉体は、音をそういうところでつかんでいるのかもしれない。



ノスタルギィ
福田 知子
思潮社
コメント
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