詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中上哲夫『ジャズ・エイジ』

2012-11-25 10:31:28 | 詩集
中上哲夫『ジャズ・エイジ』(花梨社、2012年09月30日発行)

 中上哲夫『ジャズ・エイジ』で私が一番気に入ったのは、<アイオワにて>という作品である。

北米中西部の大学町のキャンパスをさまよっていたとき
思ったのだった
世界は音に満ちている
芝生が踏みしだかれる音
くもが網をはる音
枝が折れる音
木の実が落ちて地面に当たる音
心臓の鼓動
風の足音
魚のはねる音
ため息
雲の流れる音
渡り鳥たちのはばたき
ジャズのない町で

 いろんな音に気がついたその音を書き留めた--ただそういう作品だけれど、ここにジャズがあると私は感じだ。それが「ジャズのない町で」というところが、とてもおもしろい。最後の「ジャズのない町で」は一種の逆説だ。ジャズが好きなひとにとっては、どこにでもジャズはある。

くもが網をはる音

 というのを私は聴いたことがないが、それが「芝生が踏みしだかれる音」「枝が折れる音 」「木の実が落ちて地面に当たる音」ということば(音)のあいだにはさまるとき、芝生を渡り、木々のあいだを歩く情景が浮かぶ。「くもの網」は「視覚」に、そしてときには「触覚」にぶつかってくるものだろうけれど、人間の感覚というのは肉体の奥底で融合しているから、「視覚」や「触覚」が「聴覚」を揺り起こすこともあるに違いない。その、私の知らない音に耳を澄ます瞬間、知らない音に出会う瞬間、その驚きのなかにたしかに「ジャズ」があるんだなあと思う。
 おなじ感覚が<蛙たちとのセッション>にもある。

田んぼの近くに住んでいたことがあって

ラジオをかけると
蛙たちがいっせいに鳴き出すのだった
サックスがパパパーと鳴ると
蛙たちはケロケロケロと
トランペットがプププーと鳴ると
ケロケロケロと
ピアノがポロポロポロンと鳴ると
ケロケロケロと
ニューヨークでもパリでもロンドンでも
キトーキョーでもストックホルムでもないなあと
夜もふけるにつれて
官能的な気分になって
家をそっとぬけ出すと
女たちのいる酒場へと出かけて行ったものだった

 「官能的」とは何か。それはジャズ。異質なもの、それまで出合ったことのないものが出合い、そこで何かを発見する。
 ラジオのジャズと蛙がセッションをするとき、中上の「肉体」のなかの「自然」とラジオの中のジャズがセッションをする。蛙が官能的なのではなく、そこにジャズを感じる中上が官能的になるのだ。
 何かを揺らしたい気分になる。
 これは、いいなあ。

 私はニューヨークのビレッジバンガードでジャズを聴いたとき、びっくりしたことがある。途中で地下鉄のゴーっと走り去る音が響いてきたのだ。それまで私は雑音が入るところでジャズを聴いたことがなかった。もっぱら自分の部屋で聞いていた。だから、えっ、こんなところで「名演」は繰り広げられてきたのかとびっくりしたのだが、同時に、あ、これがジャズなんだとも思った。
 楽器が奏でる音だけではなく、世界には音が満ちている。その音に対して自分がどんなふうに「音」として反応できるか。自分の枠を揺さぶって、自分を解き放つことができるか。
 ジャズ奏者は「楽器」を演奏しているのではなく、自分を演奏しているのだ。

 中上は自分を「演奏」するということを知っている。そして、そういう「同類」とセッションをする喜びを知っている。そういうことをしていないひとからも「音」を引き出しセッションをしてしまう。
 そういう作品を一篇ひいておく。「14」という数字だけでくくられた詩。

仕事がなかったので
郊外電車にゆられて
釣具と
遠くの川へ出かけて行ったものだった
竿をつき出していると
トランジスターラジオをぶらさげた釣人が
となりにすわって
ジャズをガーガー鳴らすのだった
すると
にわかに魚の喰いが止まるのだった
日本の魚には歌謡曲かなと
たまに浮子が動いても
男は流れる雲をながめていて
竿を上げる気配もなく
息子の嫁の悪口を
えんえんと
嫁の顔を見たくないので
釣りに出かけてくるのだと
男のおしゃべりと
ガーガーというトランジスタラジオのジャズをきいている
釣果はどうでもよかった
暗い部屋から
光あふれる野へ
川風にふかれて
雲雀の声をあびて

 「息子の嫁の悪口」も「音」である。その「音」に反応する「官能」がある。その「音」にふれて動くものがある。ノイズによってめざめるいのち。ノイズとは「他者」の「いのち」そのものである。




エルヴィスが死んだ日の夜
中上 哲夫
書肆山田
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