八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』(シマシマ書房、2012年10月01日発行)
八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』はタイトル通り辻征夫の思い出を書いている。詩の批評がところどころに出てくる。
「ある日」という詩の批評の最後の部分で、八木は辻の「核心」に触れている。
キーワードは「転調」である。辻の詩は転調する。そのあとに八木が書いてることを先取りする形で言えば、モノローグからダイアローグに転調する。もちろん、このモノローグからダイアローグというのは正確なモノローグとダイアローグではない。ほんとうに他者が出てくるのわけではなく、自己のなかに、もうひとりの自己があらわれ、対話する。それは、結局モノローグの変形なのだけれど、その「変化」が「転調」。
音楽でも「転調」する。簡単な例でいうと岩崎宏美の「思秋期」は2回転調する。同じはずのメロディーがそのとき「色」がかわる。そして、その変化のなかに、なんというのだろう、「対話」のようなものがある。いままで聴いてきた(歌ってきた)メロディーと転調したメロディーが対話する。そして、記憶と重なって、そこに「和音」が生まれる。記憶の中で「ひとりコーラス」、あるいは「ひとりデュエット」が始まるという感じがする。「思秋期」の場合、とくに最後が最初のメロディーと比較するのと3度の和音(ピーナツの歌によくある?和音)になって、あ、美しいなあと思う。岩崎宏美の声が、その和音のなかで透明に透き通る。--あの、最後の音が、ほんとうにきれいだ。
あ、脱線してしまった。
で、八木が高く評価する「転調」。それ自体はたしかに「技術」なのだと思う。辻の「ことばの技術」(転調の技術)はほんとうにすばらしいと思う。
「ある日」を引用しておこう。
公園の中で半日すごしていた「ぼく」が、おっさん→俳優と変化して行く。そしてまた「ぼく」にもどってくる。この「転調」。あれこれ「理屈」をいわずに、らくらくと「転調」していく。
でもねえ。
私は、その「技術」に、かなりうさんくさいものを感じる。「ぼくにも かなしいものが すこしあって」といいながら、その「すこしかなしいもの」については結局何も言っていない。「ぼく」をそんなふうに「転調」させながら書くことで、辻自身をどこかに隠している。そういうことを私は感じる。
で、私は、そういうことを書いて、辻とけんか(?)してしまったが、(もともと会ったこともないのだけれど、まあ、完全に仲違いのような状態になってしまったが)、八木が最後の方に書いている「歯ぎしり」のエピソード、「業の深いものを抱え込んでいた」とか、「男性原理」という指摘を読むと、私の当時の批判(評価したつもりで書いたのだけれど)は、きっと的を射ていたのだと思う。
「業の深いもの」「男性原理」をもっと解き放てば、辻の詩のことばは違った運動をしたと思う。「転調」に頼らずに、ほんとうに他者をまきこんで、壮大な「交響曲」になりえたのではないのか。私は辻の散文を読んだことがないのでわからないが、詩ではなく小説も書けたのではないのか、と思う。
辻は自分におびえていたのかもしれない。そのおびえを「転調」という形で隠していた、というより、誰かに「転調」の技術をたよらなければ生きていけない苦しみを支えてほしいと呼び掛けていたのかもしれない。その呼び掛けが「耳」に強くひびいてきたひとには、辻は忘れられない詩人なのだと思った。
八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』はタイトル通り辻征夫の思い出を書いている。詩の批評がところどころに出てくる。
「ある日」という詩の批評の最後の部分で、八木は辻の「核心」に触れている。
こういう持ち込み方というのは、やっぱり技術がなければ詩は書けないということの典型だと思いますし、そういう転調を辻さんは長い時間の中で獲得紫檀ではないかと思うんです。
キーワードは「転調」である。辻の詩は転調する。そのあとに八木が書いてることを先取りする形で言えば、モノローグからダイアローグに転調する。もちろん、このモノローグからダイアローグというのは正確なモノローグとダイアローグではない。ほんとうに他者が出てくるのわけではなく、自己のなかに、もうひとりの自己があらわれ、対話する。それは、結局モノローグの変形なのだけれど、その「変化」が「転調」。
音楽でも「転調」する。簡単な例でいうと岩崎宏美の「思秋期」は2回転調する。同じはずのメロディーがそのとき「色」がかわる。そして、その変化のなかに、なんというのだろう、「対話」のようなものがある。いままで聴いてきた(歌ってきた)メロディーと転調したメロディーが対話する。そして、記憶と重なって、そこに「和音」が生まれる。記憶の中で「ひとりコーラス」、あるいは「ひとりデュエット」が始まるという感じがする。「思秋期」の場合、とくに最後が最初のメロディーと比較するのと3度の和音(ピーナツの歌によくある?和音)になって、あ、美しいなあと思う。岩崎宏美の声が、その和音のなかで透明に透き通る。--あの、最後の音が、ほんとうにきれいだ。
あ、脱線してしまった。
で、八木が高く評価する「転調」。それ自体はたしかに「技術」なのだと思う。辻の「ことばの技術」(転調の技術)はほんとうにすばらしいと思う。
「ある日」を引用しておこう。
ある日
会社をさぼった
あんまり気分が
よかったので
公園で
半日すごして
午後は
映画をみた
つまり人間らしくだな
生きたいんだよぼくは
なんて
おっさんが喋っていた
俳優なのだおっさんは
芸術家かもしれないのだおっさんは
ぼくにも かなしいものが すこしあって
それを女のなかにいれてしばらく
じっとしていたい
公園の中で半日すごしていた「ぼく」が、おっさん→俳優と変化して行く。そしてまた「ぼく」にもどってくる。この「転調」。あれこれ「理屈」をいわずに、らくらくと「転調」していく。
でもねえ。
私は、その「技術」に、かなりうさんくさいものを感じる。「ぼくにも かなしいものが すこしあって」といいながら、その「すこしかなしいもの」については結局何も言っていない。「ぼく」をそんなふうに「転調」させながら書くことで、辻自身をどこかに隠している。そういうことを私は感じる。
で、私は、そういうことを書いて、辻とけんか(?)してしまったが、(もともと会ったこともないのだけれど、まあ、完全に仲違いのような状態になってしまったが)、八木が最後の方に書いている「歯ぎしり」のエピソード、「業の深いものを抱え込んでいた」とか、「男性原理」という指摘を読むと、私の当時の批判(評価したつもりで書いたのだけれど)は、きっと的を射ていたのだと思う。
「業の深いもの」「男性原理」をもっと解き放てば、辻の詩のことばは違った運動をしたと思う。「転調」に頼らずに、ほんとうに他者をまきこんで、壮大な「交響曲」になりえたのではないのか。私は辻の散文を読んだことがないのでわからないが、詩ではなく小説も書けたのではないのか、と思う。
辻は自分におびえていたのかもしれない。そのおびえを「転調」という形で隠していた、というより、誰かに「転調」の技術をたよらなければ生きていけない苦しみを支えてほしいと呼び掛けていたのかもしれない。その呼び掛けが「耳」に強くひびいてきたひとには、辻は忘れられない詩人なのだと思った。
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