詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』

2012-11-18 14:18:16 | 詩集
八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』(シマシマ書房、2012年10月01日発行)

 八木幹夫『余白の時間 辻征夫さんの思い出』はタイトル通り辻征夫の思い出を書いている。詩の批評がところどころに出てくる。
 「ある日」という詩の批評の最後の部分で、八木は辻の「核心」に触れている。

 こういう持ち込み方というのは、やっぱり技術がなければ詩は書けないということの典型だと思いますし、そういう転調を辻さんは長い時間の中で獲得紫檀ではないかと思うんです。

 キーワードは「転調」である。辻の詩は転調する。そのあとに八木が書いてることを先取りする形で言えば、モノローグからダイアローグに転調する。もちろん、このモノローグからダイアローグというのは正確なモノローグとダイアローグではない。ほんとうに他者が出てくるのわけではなく、自己のなかに、もうひとりの自己があらわれ、対話する。それは、結局モノローグの変形なのだけれど、その「変化」が「転調」。
 音楽でも「転調」する。簡単な例でいうと岩崎宏美の「思秋期」は2回転調する。同じはずのメロディーがそのとき「色」がかわる。そして、その変化のなかに、なんというのだろう、「対話」のようなものがある。いままで聴いてきた(歌ってきた)メロディーと転調したメロディーが対話する。そして、記憶と重なって、そこに「和音」が生まれる。記憶の中で「ひとりコーラス」、あるいは「ひとりデュエット」が始まるという感じがする。「思秋期」の場合、とくに最後が最初のメロディーと比較するのと3度の和音(ピーナツの歌によくある?和音)になって、あ、美しいなあと思う。岩崎宏美の声が、その和音のなかで透明に透き通る。--あの、最後の音が、ほんとうにきれいだ。
 あ、脱線してしまった。

 で、八木が高く評価する「転調」。それ自体はたしかに「技術」なのだと思う。辻の「ことばの技術」(転調の技術)はほんとうにすばらしいと思う。
 「ある日」を引用しておこう。

ある日
会社をさぼった
あんまり気分が
よかったので

公園で
半日すごして
午後は
映画をみた
つまり人間らしくだな
生きたいんだよぼくは
なんて

おっさんが喋っていた
俳優なのだおっさんは
芸術家かもしれないのだおっさんは

ぼくにも かなしいものが すこしあって
それを女のなかにいれてしばらく
じっとしていたい

 公園の中で半日すごしていた「ぼく」が、おっさん→俳優と変化して行く。そしてまた「ぼく」にもどってくる。この「転調」。あれこれ「理屈」をいわずに、らくらくと「転調」していく。
 でもねえ。
 私は、その「技術」に、かなりうさんくさいものを感じる。「ぼくにも かなしいものが すこしあって」といいながら、その「すこしかなしいもの」については結局何も言っていない。「ぼく」をそんなふうに「転調」させながら書くことで、辻自身をどこかに隠している。そういうことを私は感じる。
 で、私は、そういうことを書いて、辻とけんか(?)してしまったが、(もともと会ったこともないのだけれど、まあ、完全に仲違いのような状態になってしまったが)、八木が最後の方に書いている「歯ぎしり」のエピソード、「業の深いものを抱え込んでいた」とか、「男性原理」という指摘を読むと、私の当時の批判(評価したつもりで書いたのだけれど)は、きっと的を射ていたのだと思う。
 「業の深いもの」「男性原理」をもっと解き放てば、辻の詩のことばは違った運動をしたと思う。「転調」に頼らずに、ほんとうに他者をまきこんで、壮大な「交響曲」になりえたのではないのか。私は辻の散文を読んだことがないのでわからないが、詩ではなく小説も書けたのではないのか、と思う。
 辻は自分におびえていたのかもしれない。そのおびえを「転調」という形で隠していた、というより、誰かに「転調」の技術をたよらなければ生きていけない苦しみを支えてほしいと呼び掛けていたのかもしれない。その呼び掛けが「耳」に強くひびいてきたひとには、辻は忘れられない詩人なのだと思った。


八木幹夫詩集 (現代詩文庫)
八木 幹夫
思潮社
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ロバート・B ・ウィード監督「映画と恋とウディ・アレン」(★★)

2012-11-18 11:22:54 | 映画
監督 ロバート・B ・ウィード 出演 ウディ・アレン、ダイアン・キートン、ペネロペ・クルス、スカーレット・ヨハンソン

 ドキュメンタリーである。で、あのシーンは出てくるかな、と期待して見に行った。出てきました。「アニー・ホール」のエビのシーン。
 ウディ・アレンはエビがこわい。それをからかうように、ダイアン・キートンがエビを持ってウディ・アレンを追いかける。映画では、途中で笑いだしてしまう。それが演技ではなくて、ほんとうにおかしくて笑ってしまう、という感じ。いわばNGのシーン。それをそのままつかっている--と私は思っている。
 で、この映画にもそれがそのままそっくり出てくる。ただし、もう40年ほど前の映画なので、私もはっきりとは思い出せないのだが、やっぱり、このNGシーンをそのままつかっていると思う。映画としては「反則」なのかもしれないけれど、ダイアン・キートンの笑いがほんとうにすばらしい。このシーンを見ると、なぜ二人は別れてしまったんだろうと不思議な気持ちになる。こんなに楽しく、なんでもないことで笑い転げることができたのに……。
 映画では、このあと別な女と同じようにエビのシーンがあるんだけれど、そのときは女の方が「あんた、何やってるの」と冷めた感じでウディ・アレンを見ている。その冷淡な顔と、ダイアン・キートンの笑顔の違いが、とてもおもしろい。
 「アニー・ホール」にはもうひとつ好きなシーンがある。二人がそれぞれセラピーを受ける。で、セックスの回数について語る。ウディ・アレンが「少ないんだ、週に3回」。ダイアン・キートンは「多いの。週に3回」。ね、おかしいでしょ? で、このシーンは画面が分割しているのだけれど、なんとセットをくっつけて一回で撮っているという。えっ、と驚いてしまった。たしかにそうすると経済的だね。
 ダイアン・キートンにかぎらず、ウディ・アレンの映画に出てくる女性はとてもいい。演技がとても「自然」だ。「ブロードウェイと銃弾」のダイアン・ウィーストのオーバーな演技さえ、とても自然だ。演じさせるというよりも、その人がもっているものがあふれてくるように、それを受け止めるようにしているのだと思う。「アニー・ホール」のエビのシーンのダイアン・キートンの笑いのように。そして、それがふつうの映画では「NG」であっても、その自然とあふれてくるものが魅力的ならそれでいいと考えているのだと思う。
 これはウディ・アレン自身が語っているが、男がつくるコメディー(ジョーク)とはまったく違うものである。ジョークというのは、何かしら自分を押し付けるものである。思わずあふれてくる感情ではなく、知的な力で、知そのものを叩き壊す。それがジョークだね。
 ウディ・アレンは女性たちと出会うことで、この知の力による破壊という笑いから、そこに人間がいるということの親しみへと世界が変化していく。ダイアン・キートンの力は偉大だなあ、と思う。だからこそ、なぜ、別れちゃったのかねえ。
 まあ、他人のことだから、いいんだけれど。
 別れ話といえば、ミア・ファローは「作品」としては出てきたけれど、証言者としては出てこなかったね。当然か……。

 それとは別に。
 私は「スターダスト・メモリー」が大好きなのだけれど、これってヒットしなかったんだよね。「マンハッタン」も大好き。これは、ごくふつうにヒットしたのかな? 「マンハッタン」はウディ・アレンは失敗作と思っていたらしいけれど。
 そういう監督の「想像」と観客の反応の違いについて、ウディ・アレン自身がとまどっているところが描かれているのはおもしろかったなあ。
 あ、大ヒットした「ミッドナイト・イン・パリ」は私はそんなに好きじゃないんだけれど。「世界中がアイ・ラブ・ユー」の方が好きだなあ。もっとも比較するようなものではないけれど。




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