秋川久紫『戦禍舞踏論』(土曜美術社出版販売、2012年10月20日発光)
秋川久紫『戦禍舞踏論』はタイトルもそうだが漢字が目立つ。で、その漢字なのだが私には2種類あるように見える。
ひとつは白象、獅子、麒麟、孔雀の類。こういう漢字表記は、いまはあまりみかけない。で、私は単純だから、その「いまはみかけない」ということにつまずく。瞬間的に「いま」から切り離されてしまう。いわば「異次元」に誘い込まれる。何が起きても、それは「いま/ここ」とは違った世界である。ということは、まあ、想像力の世界である。
もうひとつ。戒厳、断片化、集積、反転、刹那的。これらのことばは、さらにふたつにわけることができるかもしれないけれど、そういうことを細かにやっていると面倒くさいので、とりあえず「ひとつ」の固まりとしてとらえると。これは、何やら「意味」が凝縮している。「口語」ではないなあ。「断片化」は「ばらばらにして」、「集積」は「寄せ集めて」、「反転」はひっくりかえしてくらいの「口語」になるかもしれない。でも、秋川はそういうまどろっこしい(?)言い方をしないで、「漢語」(漢字熟語?)つかう。このとき、私は意識が加速化するのを感じる。--あ、これは「感覚の意見」です。説明はできない。そんなふうに感じる。
「戒厳」とか「刹那」は、うーん、漢字は読めるけれど、私は書けるかなあ。画数が多くてめんどうくさいから、私はそれを書くことを思うと、きっと違うことばを選んでしまう。書かないと思う。ワープロだから書くのは簡単、という人がいるかもしれないけれど、私の場合ちょっと違う。私はきっとワープロで文字を打ち込みながらも、「肉体」は文字を書いている。だからむずかしい漢字はワープロのキーを叩くとき避けてしまう。(これは本を読むときに、音読はしないけれど、無意識に声帯や何かが動くのに似ている。)
あ、脱線してしまったが。
で、この「意識の加速」というのはほんとうに意識の加速?
私の「感覚の意見」はここでも、ちょっと暴走する。
どうも「漢字(文字)」が文字の力(表意文字だから、その表意する力といえばいいのかもしれないが)に乗っかって、どこかへ飛んで行く感じがする。
離脱、飛翔、ということになるかもしれない。--あ、こんなことばをつかってしまうのは、きっと秋川のことばのあり方に染まっているからなんだろうなあ。
で、
その離脱、飛翔は、「いま/ここ」から離れること、「いま/ここ」が引き留めているものをふりきってどこかへ飛んで行くこと、という具合に考えると、ほら、最初の「麒麟(書けない)」「孔雀(書こうとしても思い出せない)」の「いま/ここ」とは違う世界ということとつながらない?
「断片化」とか「集積」というようなことばは、どちらかというと「科学的」(客観的?)な雰囲気があるが--これも、感覚の意見です、はい。その、どちらかというと理知的で客観的なことばが、麒麟や孔雀という幻想的な表記を、ぐい、と押す。「いま/ここ」から切り離され、飛んで行ってしまうことに対して、理性の保証を与えるという感じの役割をしていると思う。
いいかえると、
これからいろんなことが、「いま/ここ」ではつかわれないことばで書かれるけれど、それは幻想ではなくて、ほんとうは「理性」がとらえた客観的世界(科学的世界)なのだという「保証」。
なんとなく、そう説得されてしまう感じがするのだ。
ほんとう? わからないけれど、これが「わからない」のは私がばかだからですね。だって、秋川のことばは科学的・客観的なことばに支えられているのだから。
ふーん。
書きながら、私は半信半疑(って、つかい方で大丈夫?)。
「実感」できるのは、秋川のことばを読んでいると、そのことばが、どうも私の日常的につかっていることばとは違って、ことばがことばのなかを自由に飛んで行く感じがする。ことばがそうやって、どんどん「いま/ここ」から遠くへ行ってしまう、という感じがする。
まあ、秋川は、ことばにそういう力を与えようとして書いていることなんだろうなあ。
それから。気がついたことがひとつ。ことばが「いま/ここ」から離脱、飛翔するという運動を考えるとき、秋川のことばには、もうひとつ大事な「ことば」(要素)がある。「漢字」でなはい、あることばが重要な役割をしている。いいかえると、頻繁に出で来る。
この文の中の「ない」。否定。それが、ことばが「いま/ここ」を離れていくとき、とても便利(?)なのだ。「いま/ここ」では「ない」の「ない」につながっていくのだ。そして、その「ない」が否定ではあるけれど、私たちが日常的につかっているために、意外と(?)否定しているという気持ちが意識されない。
「終わらせることができないだろう」も「終わらせることができるろう」も、たぶん、私は同じ感じで自分の肉体の中に取り込んでしまうだろうなあ、と思う。
ここでは「できない」と「できる」が「同じ」感じでつかわれているだけではなく、「できたとしても」「できないだろう」という、とても複雑な--「ない」を強調する形でことばが動いている。
ここが秋川の詩の特徴だと思う。「舞踏」とはよくいったもので、この「できたとしても」「できないだろう」という、どこへも進まない、「いま/ここ」に踏みとどまる運動が「舞踏」なんだろうねえ。
一方で漢字(表意文字)を利用して「いま/ここ」から離脱・飛翔しながら、否定と肯定をぶつけるという「矛盾(結果的には、否定の方へ傾くのだけれど)」が、ことばの肉体を「舞踏」に仕立てるということなんだろうと思う。
くりかえして言うと(整理して言うと)、秋川のキーワードは「ない」である。漢字が目立つけれど、その意識のそこにあるのは「ない」という不思議な「哲学」である。「ない」ものが「ある」をめぐってことばが運動している。
「ない」ということばがないと、たとえば次のような行は書けなくなる。そのことが「ない」こそが秋川のキーワードであることを証明している。
最後に引用した「……に過ぎない」の「ない」。これは特に秋川のことばを考えるとき象徴的なものに思える。
「……に過ぎない」は「ない」という「否定」を含んでいるが、その「意味」は「……である」である。強い肯定である。
より強い肯定のために、秋川のことばは否定を潜り抜けるのである。
ここから一気に飛躍してしまうと。
より深く「いま/ここ」に潜り込むために、「いま/ここ」から離脱・飛翔するのが秋川の詩である。
秋川久紫『戦禍舞踏論』はタイトルもそうだが漢字が目立つ。で、その漢字なのだが私には2種類あるように見える。
白象も獅子も、麒麟も孔雀も、恐らくこの戒厳の季節を瞬時に終わ
らせることはできないだろう。断片化してしまった心を集積し、あ
るいは魂を強く反転させて、刹那的にその舌先を浄めることができ
たとしても。
(「戦禍舞踏論」)
ひとつは白象、獅子、麒麟、孔雀の類。こういう漢字表記は、いまはあまりみかけない。で、私は単純だから、その「いまはみかけない」ということにつまずく。瞬間的に「いま」から切り離されてしまう。いわば「異次元」に誘い込まれる。何が起きても、それは「いま/ここ」とは違った世界である。ということは、まあ、想像力の世界である。
もうひとつ。戒厳、断片化、集積、反転、刹那的。これらのことばは、さらにふたつにわけることができるかもしれないけれど、そういうことを細かにやっていると面倒くさいので、とりあえず「ひとつ」の固まりとしてとらえると。これは、何やら「意味」が凝縮している。「口語」ではないなあ。「断片化」は「ばらばらにして」、「集積」は「寄せ集めて」、「反転」はひっくりかえしてくらいの「口語」になるかもしれない。でも、秋川はそういうまどろっこしい(?)言い方をしないで、「漢語」(漢字熟語?)つかう。このとき、私は意識が加速化するのを感じる。--あ、これは「感覚の意見」です。説明はできない。そんなふうに感じる。
「戒厳」とか「刹那」は、うーん、漢字は読めるけれど、私は書けるかなあ。画数が多くてめんどうくさいから、私はそれを書くことを思うと、きっと違うことばを選んでしまう。書かないと思う。ワープロだから書くのは簡単、という人がいるかもしれないけれど、私の場合ちょっと違う。私はきっとワープロで文字を打ち込みながらも、「肉体」は文字を書いている。だからむずかしい漢字はワープロのキーを叩くとき避けてしまう。(これは本を読むときに、音読はしないけれど、無意識に声帯や何かが動くのに似ている。)
あ、脱線してしまったが。
で、この「意識の加速」というのはほんとうに意識の加速?
私の「感覚の意見」はここでも、ちょっと暴走する。
どうも「漢字(文字)」が文字の力(表意文字だから、その表意する力といえばいいのかもしれないが)に乗っかって、どこかへ飛んで行く感じがする。
離脱、飛翔、ということになるかもしれない。--あ、こんなことばをつかってしまうのは、きっと秋川のことばのあり方に染まっているからなんだろうなあ。
で、
その離脱、飛翔は、「いま/ここ」から離れること、「いま/ここ」が引き留めているものをふりきってどこかへ飛んで行くこと、という具合に考えると、ほら、最初の「麒麟(書けない)」「孔雀(書こうとしても思い出せない)」の「いま/ここ」とは違う世界ということとつながらない?
「断片化」とか「集積」というようなことばは、どちらかというと「科学的」(客観的?)な雰囲気があるが--これも、感覚の意見です、はい。その、どちらかというと理知的で客観的なことばが、麒麟や孔雀という幻想的な表記を、ぐい、と押す。「いま/ここ」から切り離され、飛んで行ってしまうことに対して、理性の保証を与えるという感じの役割をしていると思う。
いいかえると、
これからいろんなことが、「いま/ここ」ではつかわれないことばで書かれるけれど、それは幻想ではなくて、ほんとうは「理性」がとらえた客観的世界(科学的世界)なのだという「保証」。
なんとなく、そう説得されてしまう感じがするのだ。
それはただ慈しみを湛えた阿弥陀如来や弥勒菩薩とて同じであり、
それゆえ、我々は煌びやかな舞踏によって、やがて世界をプラチナ
箔の一双屏風の中に塗り込める力を持った観音が現れるのを待つし
かないのだ。
ほんとう? わからないけれど、これが「わからない」のは私がばかだからですね。だって、秋川のことばは科学的・客観的なことばに支えられているのだから。
ふーん。
書きながら、私は半信半疑(って、つかい方で大丈夫?)。
「実感」できるのは、秋川のことばを読んでいると、そのことばが、どうも私の日常的につかっていることばとは違って、ことばがことばのなかを自由に飛んで行く感じがする。ことばがそうやって、どんどん「いま/ここ」から遠くへ行ってしまう、という感じがする。
まあ、秋川は、ことばにそういう力を与えようとして書いていることなんだろうなあ。
それから。気がついたことがひとつ。ことばが「いま/ここ」から離脱、飛翔するという運動を考えるとき、秋川のことばには、もうひとつ大事な「ことば」(要素)がある。「漢字」でなはい、あることばが重要な役割をしている。いいかえると、頻繁に出で来る。
白象も獅子も、麒麟も孔雀も、恐らくこの戒厳の季節を瞬時に終わ
らせることはできないだろう。
この文の中の「ない」。否定。それが、ことばが「いま/ここ」を離れていくとき、とても便利(?)なのだ。「いま/ここ」では「ない」の「ない」につながっていくのだ。そして、その「ない」が否定ではあるけれど、私たちが日常的につかっているために、意外と(?)否定しているという気持ちが意識されない。
「終わらせることができないだろう」も「終わらせることができるろう」も、たぶん、私は同じ感じで自分の肉体の中に取り込んでしまうだろうなあ、と思う。
白象も獅子も、麒麟も孔雀も、恐らくこの戒厳の季節を瞬時に終わ
らせることはできないだろう。断片化してしまった心を集積し、あ
るいは魂を強く反転させて、刹那的にその舌先を浄めることができ
たとしても。
ここでは「できない」と「できる」が「同じ」感じでつかわれているだけではなく、「できたとしても」「できないだろう」という、とても複雑な--「ない」を強調する形でことばが動いている。
ここが秋川の詩の特徴だと思う。「舞踏」とはよくいったもので、この「できたとしても」「できないだろう」という、どこへも進まない、「いま/ここ」に踏みとどまる運動が「舞踏」なんだろうねえ。
一方で漢字(表意文字)を利用して「いま/ここ」から離脱・飛翔しながら、否定と肯定をぶつけるという「矛盾(結果的には、否定の方へ傾くのだけれど)」が、ことばの肉体を「舞踏」に仕立てるということなんだろうと思う。
くりかえして言うと(整理して言うと)、秋川のキーワードは「ない」である。漢字が目立つけれど、その意識のそこにあるのは「ない」という不思議な「哲学」である。「ない」ものが「ある」をめぐってことばが運動している。
「ない」ということばがないと、たとえば次のような行は書けなくなる。そのことが「ない」こそが秋川のキーワードであることを証明している。
期待は毒薬、絶望は媚薬? 悪い噂をキャベツみたいに齧り尽く
した所で、謹厳な父親が鸚鵡になったりはしないだろう。
(「狂詩曲(ラプソディー)」)
あらゆる訴訟は不安と保身の顕現であって、その正体はナースコー
ルと変わらない。言うなれば、逃げる輩が正義をかざす。
(「春の覚醒」)
ところで、富がいつしか卓越した創造の前に跪くという願いはつい
にナイーブな幻影に過ぎないとして、創造が必然的に富に隷属する
という断定も、言わば一つの軽佻なデジャヴに過ぎない。
「舞姫(をとめのすがたしばしとどめむ」)
最後に引用した「……に過ぎない」の「ない」。これは特に秋川のことばを考えるとき象徴的なものに思える。
「……に過ぎない」は「ない」という「否定」を含んでいるが、その「意味」は「……である」である。強い肯定である。
より強い肯定のために、秋川のことばは否定を潜り抜けるのである。
ここから一気に飛躍してしまうと。
より深く「いま/ここ」に潜り込むために、「いま/ここ」から離脱・飛翔するのが秋川の詩である。
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