詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松井ひろか『若い戦果』

2012-11-27 10:48:21 | 詩集
松井ひろか『若い戦果』(土曜美術社出版販売、2012年11月10日発行)

 ことばは「意味」を整理するとつまらなくなる。松井ひろか『若い戦果』を読んで、すぐに思ったのはそのことである。「あなたと わたし」という作品の「先年の知己」という部分。

あなたと わたしが
はじめて会ったとき
おたがいが すでに
千年の知己のように
あたりまえの存在でいられたら--

 ここには「あなた」はいないし、「わたし」もいない。「千年の知己」ということばが「意味」としてだけ提出されている。「千年」って、どれくらいの長さ? 知ってる? 私は意地悪だから、こういうことばにであうとどうしてもそう質問したくなる。「千年」と「九九九年」の違い、わかる?
 もちろん「頭」ではわかる。つまり「頭で整理した意味」でなら「千年」と「九九九年」の違いはわかるし、「九九七年」の違いだってわかる。そして「千年」というのは具体的な長さではなく、とても長い間という「意味」、つまりひとによっては「千一年」であっても、「九八年」であってもかまわないこともわかる。
 でも、私は、こういう「わかり方」がどうも納得できない。それって、わかったことになるのかどうか、わからない。
 そういう「わかり方」よりも、おなじ「千年の知己」の別の部分の「わかない」ものの方が納得できる。

毎日 青いりんごがいくつも
いくつも わたしの家に降ってくる月も降ってくる
眉のような三日月のまんま
私はそれを拾い上げて
丸かじり 当然歯は欠ける はぐきは出血する

 「りんごが降ってくる」ということ、まあ、家のなかにりんごの木がないかぎりありえない。「月が降ってくる」ということもありえない。「月の光が降ってくる」なら、ありうる。でも、松井は「月の光」ではなく「月」と書いているし、さらに「眉のような三日月のまんま」と言いなおしている。こういうことは、実際には、ありえない。
 つまり「ナンセンス」、「意味がない」。
 「頭」でどんなにがんばってみたって「意味」にはなりえない。
 「月の光」とは書いてないが、それは「月の光」のことである。「光」は省略されている。「月が美しい」というとき、それは「月の光が美しい」というのに等しいように、ひとはわかりきったことは省略する。
 という具合に、いったん「頭」で整理することもできる。でも、それが「月の光」ならば、それを「丸かじり」したとき、歯は欠ける? それは「当然」? 違うよね。空にある月そのものが降ってきて、その硬い固まりをかじったときなら歯は欠けるかもしれない。
 ね、「頭」で考えはじめると、どうしたっておかしなことになる。松井は「でららめ」を書いていることになる。
 しかし、「頭」で「意味を整理する」ということをやめたら?
 月は降ってくる。それをかじれば歯が欠ける。歯茎は出血する。そうだろうなあ--と感じるのは「頭」ではなく、何かをかじったことがある「肉体」である。そこにかかれていることから、「わかる」のは「肉体」は硬いものをかじったら歯が欠けるという「肉体」のあり方である。
 それがわかれば、「肉体」はそういうものと向き合うために、「硬いものを煮る」(煮ることによってやわらかくする)という「仕事」をすることも、とても自然に「わかる」。納得できる。

陽当たりの悪いわが家に
月の灯は滲み入り
ぶつ切りにしたりんごに砂糖をぶっかけてステンレスの鍋で煮る
たまに鍋底からごむべらで混ぜてやる
今日 百歳のバースデーを迎えた彼女へ
わたしはりんごをお裾分け

 鍋底からまぜるのに、なぜ「ごむべら」か。ステンレスのへらではまずいのか。こういうことは「頭」でももちろん説明できる。しかし、そんなことを私たちは「頭」では説明しない。「肉体」で納得する。
 「頭」などつかわずに、私たちは「肉体」で何事かを「のみこんでしまう」。「からだ」のなかに入れてしまって、「おぼえてしまう」。「わかる」はどこかへ消えてしまって、私たちは「肉体」を「つかう」。
 「肉体」を「つかう」、その「つかう肉体」(肉体のつかい方)がわかったとき、私たちは、そのひとといっしょに生きている。--少なくとも、私は、そう感じている。で、その「肉体のつかい方」が「ことば」となって動いているとき、私は、あ、これが詩だなあと感じる。

 こういう「肉体」へ、どうやってたどりつくか。どうやって、その「肉体」を自分のものにするか。いろいろ方法はあるのだろうけれど、松井は「旅」という方法をとっている。「いま/ここ」という自分の場所を離れ、「他人のいま/ここ」に出合う。そうすると、そこではいままでの「肉体」のままでは生きていけない。「他人の肉体」と共通のものを生み出さない限り、他人と接続でいない。「肉体」は「いま/ここ」ではどんなふうに動いているのか、その動きにはどんな「つかい方」があるのか。そういうことを「わかる」よりまえに、まねて、なれて、「おぼえこむ」。そのあとに「つかう」がやってくる。それが「肉体」をつきやぶって「ことば」になるとき、そこに詩が動く。
 そういう作品のひとつが「やみのなかを」である。これは、いい作品だ。

一月のモスクワ
誰も帰ってしまった
夜の イズマイロヴァの土産市場で
マイナス四度の寒さに からだの先端という先端がかじかんで
わたしは立ちすくんでいた

マトリョーシカ職人のマリーナさんに夕食を誘われて
彼女が商品を片付けるのをじっと待っている
手伝いましょうかと声をかけると
--余計なことはしなくていい
とぴしゃりと言われてしまう

わたしはこぶしを握り締めておもい浮かべた
暖められた部屋に用意された
 マッシュポテト ウクライナ風ボルシチ 白身魚の香草焼き 黒パン
皿に山盛りのチョコレート ぶどう すもも 洋梨
そしてもちろんウォッカで乾杯

マリーナさんは急ぐ気配なし
凍えてたちすくむわたしの前を
駆け抜けていく
やみのなかを
黒い猫一匹




若い戦果―詩集 (現代詩の新鋭)
松井 ひろか
土曜美術社出版販売
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