詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡田哲也『茜ときどき自転車』(2)

2013-07-02 23:59:59 | 詩集
岡田哲也『茜ときどき自転車』(2)(書肆山田、2013年06月30日発行)

 岡田哲也『茜ときどき自転車』は、ある意味で「私小説」である。そこに書いてあることがフィクションであると読むこともできるけれど、たぶん、実生活を書いているのだろう。実生活の中から動きはじめる感情というよりも、実生活そのものが動いていき、それが感情をつくりだしていく。その感情を育てる実生活を、感情を育てるものであるがゆえに、正直に書いて整える。いつでもたどれるように、だれにでもたどれるように整える。
 でも、その「だれにでも」のだれって、だれだろう。もちろん、その詩を読んでいる読者(私)もそのことばをたどりながら岡田の生活を見るのだが--それは、たぶん、いま、この詩を読まないひと(読めないひと)をこそ「読者」に想定しているのである。こう書いてしまうと、それは「遺書」のようにも見えるけれど、やがて残される遺族のことを思ってしまうが、そうではないのである。もちろん遺族も「読者」になるのだが、そうではなくて、すでに死んでしまったひとも「読者」として想定されているのだ。それは意識的か無意識的かわからないが……。
 そして、このことは言い換えると、岡田は実生活を、実はいま生きているひとのために整えるのではなく、すでに死んでしまったひとのために整えているということになる。死んだひとのために実生活を整えて、それでどうなるのか、と問われると答えに困るのだが、死んだひとにむけて書くとき、その死んだひとが「いま」ここに生き返るのである。そして、岡田といっしょに「いま」を生きるのである。そのとき「永遠」が姿をあらわす。時を超えた「感情」が広がる。
 死んでしまった人たちにとって、この世が「永遠」に美しいものであり、その「この世の永遠」を死んでしまったひとたちが大切なものとして生きることができるようにするために、岡田は「いま」を整える。そして、その整えられた「いま」が、岡田の感情を育てると同時に、死んでしまったひとの感情も育てる。(「永遠」というのは、そういうことだ。)それはつまり、そのひとたちが生きていたときにははっきりした形(ことば)にならなかった感情とのあたたかい交流なのである。そういうあたたかな感情の交流のためにに岡田は詩を書いている。
 「返事」という作品は、「名前を呼ばれたら ハイッと返事じゃ」「俺(おい)の名が呼ばれるのは 俺が必要な証拠じゃ」と教えてくれた隣のおじいさんの思い出しながら書かれた詩である。「わたしには この世のしくみはわかりません」と書いて、岡田はつづける。

だけど たとえば 蟹星雲のかなたから
台所の水を流すその奥から
自分の位牌のような受話器から
校庭のコノハズクの鳴き声から
わたしを呼んでいるような声が聞こえたら
わたしは ハイッと言って
即刻 声の方を振りむくのです

この二日間
誰とも口をきかず寝ぐるしい夜
わたしは
「おじいちゃん」
と呼んでみました
すると 闇の中で
しぼんだ大豆の瞳をしたおじいさんが答えました
「おぼえとってくれたいかい いやいや
誰からも声のかからんのは 徒然(とぜん)なかなあ」

 生活を整え、そのなかで感情を育てはじめると、肉親とか他人とかは関係がなくなる。「永遠」のなかで、いっしょに生きたことのあるひとのすべてと、何でもないことのように出会い、ふたたび生きるのである。
 これは、偶然(?)ふたつの家庭をもってしまった岡田の、強い強い願いかもしれない。
 人とかかわることは、ある意味で、ひととのかかわりを限定する。閉ざすことでもある。そのときの「閉ざす」は、もっと違う形にもなりうるではないか。開かれたまま、区別なく、かかわることはできないだろうか。「永遠」を具体化できないだろうか……。
 まあ、そんなふうに「意味」がわかるように書いてしまうと、それは「男のわがまま」「身勝手で強引な方便」という具合になってしまうけれど。
 不可能かもしれない。けれど、だれかの名前を呼びたい。だれかに名前を呼ばれたい。そうして「返事」をしつづけたい。そこには、感情を整えるではなく、感情をひきもどす力がある。そして、感情が育つとしたら、ひきもどされて育つのである。ただどこかへ言ってしまうことが成長なのではない。どこまで行っても、かならずひきもどされ、そこから出発していくという往復運動がたぶん育つということなのだ。
 その往復運動のために、岡田は実生活を整える。実生活が、そして、往復運動の中でことばを育てる。ことばを整える。

 この詩集には、たたいても壊れないものがある。「永遠」は遠くにあるのではなく、「いま/ここ」に、そのままある。どれだけ永い時間が過ぎ去っても遠くならないものが、岡田にとっては「永遠」なのである。






茜ときどき自転車
岡田哲也
書肆山田
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