原利代子「放課後」ほか(「something 」17、2013年06月28日発行)
原利代子「放課後」は高台にある中学校のグラウンドから聞こえてくる声について書いている。野球部員たちだ。
なんでもない情景のようなのだが、「肉体」がひきずられた。ひっぱられた。野球部員の声が遠くから聞こえるような気がしたのである。
なぜだろう。
何が私の「肉体」をひっぱったのか。
「ある時」という表現である。
「野球の練習をしている時」のなかに、いくつもの「時」がある。それが「連続した時(時間)」のなかで、ぽつん、ぽつんととぎれるように浮いてくる。「ある時」という限定が、連続した「時間」を「時」にかえて、瞬間を浮かび上がらせる。
そして、そのぽつん、ぽつんと浮かんできた「時」が連続するのではなく、「交じり合う」。--これが、非常におもしろい。
原は「時」が交じり合うと書いているのではなく、少年の「声」が交じり合ってと書いているのかもしれないが、私は「時」が交じり合っていると、どうしても読んでしまう。それは、その「時」といっしょにあるものが「声」だからだろう。「声(音)」と「時」とともに消えてしまう。「時」がすぎれば「声」は消える。「声」が交じり合うとしたら、「同じ時」に存在する「声」だけなのだが--そのことが逆に「時」を交じり合わせてしまうのである。
一人の少年の声を聞く、その「時」、ふと複数の少年の声を思い出す。さっきは複数だったと思う。そうすると、「いま」という「時」に「さっき」という「時」が重なり、交じり合うのだ。意識のなかで「声」が交じり合うとき、同時に「時」も交じり合う。
この感じが、とてもおもしろい。
というのも、原はそのとき、少年の声だけを聞いているのではないのだから。いや、実際に聞くのは少年の声なのだが、その少年の声の特徴を思うとき、まだそうなってはいない大人になった男の声とも比較している。まだ存在しない「時」がそのときに交じり合っている。
こう書くとき、原の意識のなかには、本当の男の声になった「時」がある。そして本当の男の声もある。まだ存在しないものが、比較という形で交じり合う。
少年の声を聞きながら、原は、「いま」という「時」だけを聞いているのではない。「過去」の「時(さっきの少年の声)」を聞き、また「未来」の「時(これから変わっていくだろう男の声)」を聞き、それを交じり合わせながら、しかし、識別している。
かなり「ややこしい」ことをしているのである。
ややこしい--と書いたが、それは実はややこしくない。私たちが無意識にやっていることである。無意識にやっているから、それを「意識的に」説明しようとすると、ことばがつまずき、ややこしくなるだけなのである。
この矛盾のなかに、詩があるだと思う。
さらに。
原は野球の練習をしている少年とは違って、本当の男の声を知っている。このとき、声というものはのどから出てくる音だけを意味するのではない。聞く声だけなら、少年たちも大人の声を聞いている。けれど、少年たちは、自分が聞いた声と比較して、いま叫んでいる「おーい」を初々しいとは言わないだろう。つまり、初々しいとは自覚できないだろう。
野球部員の声を「初々しい」と呼ぶとき、原は耳だけで少年たちの声を聞いているわけではないということになる。そこからは見えない少年を見ている。そこからはふれることのできない少年にふれている。「肉体」のすべてで少年に接し、同時に大人の男と少年を対比させている。つまり、どこかで大人の男とふれている。
こんなふうに書いてしまうと、なんだかエロチックになってしまうが。こんなふうに「誤読」されることを原は望んではないだろうけれど……。
原は生きてきた「時間」のなかにあるすべてのものを動員し、少年(ある時)をとらえている。「ある時」という時間のとらえ方が、刺戟的なのである。
「ある時」という時間のとらえ方が、刺戟的なのである--というのは、引用した部分を、
と書き直してみると、わかるかもしれない。
「ある時」「ある時」と「時」を別々にしなくて、「練習をしている時(時間)」と言ってしまえば、それでも「意味」は通じる。けれど、そうすると、「ある時」と言った「瞬間」にこだわる何かが消えてしまう。
「時」はつねに存在しているが「ある時」は一瞬しか存在しない。そして、それは「過去」だけではなく、「未来」においても同じである。
「ある時」は、「時間」にとっては無意味だけれど、無意味だから、そこに詩がある。思想がある。肉体がある。--ということになるのかもしれない。
「声」を聞きながら「時」を聞いて、ふれている--それが原の詩なのかもしれない。
「一枚の絵のように」も美しい作品である。耳ではなく、目でとらえた「ある時」が描かれている。
ここに描かれている「ある時」は、いまはない。それはそこに描かれている父も少年もいないということである。「ある時」に存在するものは、「いま」は存在しない。けれども「いま」それを思い出すことができる。
そうすると、そこに「時間」があらわれてくる。
この視覚の「ある時」は、耳の「ある時」のように交じり合わない。
時(一瞬)と時間(持続)、聴覚(消えていく存在)と視覚(消えない存在)の違いについて、いつかまた考えてみよう。中途半端だけれど、きょうは、これでおしまい。
原利代子「放課後」は高台にある中学校のグラウンドから聞こえてくる声について書いている。野球部員たちだ。
おーい あいー おーら おーら
とにかく声を上げている野球部員
ある時は一人の少年のように
ある時は複数の少年のように
交じり合って聞こえてくる
すでに子供の声ではないが
大人の男の声でもない
太く変わったはずの声のなかに
まだ少年の甲高さの名残があって
本当の男の声になる寸前の初々しさに満ちている
なんでもない情景のようなのだが、「肉体」がひきずられた。ひっぱられた。野球部員の声が遠くから聞こえるような気がしたのである。
なぜだろう。
ある時は一人の少年のように
ある時は複数の少年のように
交じり合って聞こえてくる
何が私の「肉体」をひっぱったのか。
「ある時」という表現である。
「野球の練習をしている時」のなかに、いくつもの「時」がある。それが「連続した時(時間)」のなかで、ぽつん、ぽつんととぎれるように浮いてくる。「ある時」という限定が、連続した「時間」を「時」にかえて、瞬間を浮かび上がらせる。
そして、そのぽつん、ぽつんと浮かんできた「時」が連続するのではなく、「交じり合う」。--これが、非常におもしろい。
原は「時」が交じり合うと書いているのではなく、少年の「声」が交じり合ってと書いているのかもしれないが、私は「時」が交じり合っていると、どうしても読んでしまう。それは、その「時」といっしょにあるものが「声」だからだろう。「声(音)」と「時」とともに消えてしまう。「時」がすぎれば「声」は消える。「声」が交じり合うとしたら、「同じ時」に存在する「声」だけなのだが--そのことが逆に「時」を交じり合わせてしまうのである。
一人の少年の声を聞く、その「時」、ふと複数の少年の声を思い出す。さっきは複数だったと思う。そうすると、「いま」という「時」に「さっき」という「時」が重なり、交じり合うのだ。意識のなかで「声」が交じり合うとき、同時に「時」も交じり合う。
この感じが、とてもおもしろい。
というのも、原はそのとき、少年の声だけを聞いているのではないのだから。いや、実際に聞くのは少年の声なのだが、その少年の声の特徴を思うとき、まだそうなってはいない大人になった男の声とも比較している。まだ存在しない「時」がそのときに交じり合っている。
本当の男の声になる寸前の初々しさに満ちている
こう書くとき、原の意識のなかには、本当の男の声になった「時」がある。そして本当の男の声もある。まだ存在しないものが、比較という形で交じり合う。
少年の声を聞きながら、原は、「いま」という「時」だけを聞いているのではない。「過去」の「時(さっきの少年の声)」を聞き、また「未来」の「時(これから変わっていくだろう男の声)」を聞き、それを交じり合わせながら、しかし、識別している。
かなり「ややこしい」ことをしているのである。
ややこしい--と書いたが、それは実はややこしくない。私たちが無意識にやっていることである。無意識にやっているから、それを「意識的に」説明しようとすると、ことばがつまずき、ややこしくなるだけなのである。
この矛盾のなかに、詩があるだと思う。
さらに。
原は野球の練習をしている少年とは違って、本当の男の声を知っている。このとき、声というものはのどから出てくる音だけを意味するのではない。聞く声だけなら、少年たちも大人の声を聞いている。けれど、少年たちは、自分が聞いた声と比較して、いま叫んでいる「おーい」を初々しいとは言わないだろう。つまり、初々しいとは自覚できないだろう。
野球部員の声を「初々しい」と呼ぶとき、原は耳だけで少年たちの声を聞いているわけではないということになる。そこからは見えない少年を見ている。そこからはふれることのできない少年にふれている。「肉体」のすべてで少年に接し、同時に大人の男と少年を対比させている。つまり、どこかで大人の男とふれている。
こんなふうに書いてしまうと、なんだかエロチックになってしまうが。こんなふうに「誤読」されることを原は望んではないだろうけれど……。
原は生きてきた「時間」のなかにあるすべてのものを動員し、少年(ある時)をとらえている。「ある時」という時間のとらえ方が、刺戟的なのである。
「ある時」という時間のとらえ方が、刺戟的なのである--というのは、引用した部分を、
一人の少年のようにも
複数の少年のようにも
交じり合って聞こえる
と書き直してみると、わかるかもしれない。
「ある時」「ある時」と「時」を別々にしなくて、「練習をしている時(時間)」と言ってしまえば、それでも「意味」は通じる。けれど、そうすると、「ある時」と言った「瞬間」にこだわる何かが消えてしまう。
「時」はつねに存在しているが「ある時」は一瞬しか存在しない。そして、それは「過去」だけではなく、「未来」においても同じである。
「ある時」は、「時間」にとっては無意味だけれど、無意味だから、そこに詩がある。思想がある。肉体がある。--ということになるのかもしれない。
「声」を聞きながら「時」を聞いて、ふれている--それが原の詩なのかもしれない。
「一枚の絵のように」も美しい作品である。耳ではなく、目でとらえた「ある時」が描かれている。
あれは大浜と呼ばれる海水浴場の葦簾(よしず)の囲いのなか
どっしりとあぐらをかいた海浜着姿の父は
一人の少年の海水パンツの紐を結んでやっていた
白い線の入った水泳帽をかぶった少年
いま海から上がってきたばかりの
身体は海の水で濡れて光っていた
頬にも顎にも水滴がたれていた
それを手でぬぐいもせず
黙って父に顔をむけて立っていた伏目がちの少年よ
ここに描かれている「ある時」は、いまはない。それはそこに描かれている父も少年もいないということである。「ある時」に存在するものは、「いま」は存在しない。けれども「いま」それを思い出すことができる。
そうすると、そこに「時間」があらわれてくる。
この視覚の「ある時」は、耳の「ある時」のように交じり合わない。
時(一瞬)と時間(持続)、聴覚(消えていく存在)と視覚(消えない存在)の違いについて、いつかまた考えてみよう。中途半端だけれど、きょうは、これでおしまい。
ラクダが泣かないので | |
原 利代子 | |
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