森川雅美「天井譚」(「詩誌酒乱」6、2013年05月31日発行)
森川雅美「天井譚」は何を書いているかというと、何も書いていない。
「主語」と「述語」の関係がわからない。1行目(前の行)と2行目(次の行)のつながりがわからない。
で、このわからないというときの「わからない」は「意味」がわからない、ということ。
で、これからが大事。
あすは「現代詩講座」で、いまは、もっぱら受講生の作品を読んで相互に感想を語り合うということをしているのだけれど、架空の教室で質問してみよう。
そうだねえ。
理由はわからないけれど、森川は1行1行で読点「、」を打っている。1行ずつ一気に読ませようとしている。
そうだね。長く感じるのは、たぶん、1行に二つのことがらが書かれているから。それは「一目」で把握するにはかなり長い1行。
でも、それだけかな?
そうだね。完結していない。つづきがある、と思ってしまう。
けれども2行目へゆくと、それが1行目とどうつづいているのかわからない。1行のなかの二つのこと、たとえば
には「なる者はなる」ということと「身につまされるほどに走り」ということが「と」ということばでつなげられているけれど、それをつなぐ「理由」のようなものがわからない。なぜ、つながるのかわからない。
それが行がかわると、さらに変なことばがつづくので、いっそう、わからなくなる。
1行目と2行目を強引につなげれば「走って」「越境した」ということかもしれない。さらに続けて読んでいくと、強引に動詞と感情をつないでゆけば、「越境して」「悲しみ」を感じたけれど、その悲しみを「禁制(禁止? 封印?)」してみれは、あることに「気づく」(気づいた)という具合になるのかもしれない。
論理というのは、あるいはストーリーというのは、ことばをつなげれば、どうしたって生まれてきてしまういいかんげんなものだからね。
で、そういうストーリー(意味)を強引にでっちあげて、この詩のことを語ってもいいかもしれないけれど、私は、最初の「わからない」にむしろ帰りたい。
わからなくていい。わかるのは、森川が、1行に複数のことがらをもりこみ、それを完結させないまま、1行のおわりでしっかりと呼吸し(読点「、」で息継ぎをし)、次の行にかけだしていく。そこでもひとつのことではなく、ふたつのことをいっきに吐き出し、また次の行へゆく。--このリズムはわかる。
森川は「意味」ではなく、「リズム」を書いている。ことばを動かすときの「呼吸の癖」を書いている。
まだ走りはじめたばかりなのだと思う。この「リズム」で走るのにふさわしいのは何行なのか、そしてそのテーマはなんなのか、まだ把握しきれていない。けれど、このリズムで呼吸すること、ことばを発することが、いまの森川には「快感」なのだ。
こういう「快感」を、私は、わりと信じてしまう。なかなかいいじゃないか、と思う。「森川節」だね。
でもね、ほんとうに、これは一瞬のこと。
森川が自分の「リズム」に快感を感じていること、酔っていることは「わかる」。(想像できる。)でも、私は、その「リズム」をまねしたくない。
これでは、だめ。
詩は(肉体は、思想は)、まねしたいと思わせないかぎり、詩ではない。あ、くやしい、このことば、自分で書きたかったのに。これを盗んでしまいたい、というような感じで迫ってこないことには詩ではない。
森川のことばの場合、そういう気持ちになるまえに、なんだこれは、わからないじゃないかという印象が動いてしまう。
すぐれた詩の場合逆でしょう?
「意味」はわからなくても、あ、かっこいい。まねしてみたい。つかってみたい、と思うでしょ? 「ことばなんて覚えるんじゃなかった」とかね。
でも、こうして私が書いているのは……。
この1行のなかの「音」のゆらぎ、濁音の美しさにひかれたからだ。とくに「おとがいに追われことごとく」がすばらしく美しい。次の「までに」が異質で、かなり汚い。私だったら「までに」は書かない。省略する。削る。
音が響きあえば、きっとこの詩はおもしろくなる。音の動きは「意味」を超えて、それだけで暴走する(疾走する)力をもっている。音が自律して動くと詩になると思う。(谷川俊太郎のことば遊びの詩のように。)森川は音を書いているという意識がないのかもしれない。
森川雅美「天井譚」は何を書いているかというと、何も書いていない。
なる者はなりますからねと身につまされるほど走り、
ウラニュウムに包まれたりらんらんと越境するから、
終わりまでが近づくままに混迷する悲しみを禁制、
だってねいという笑いに苦しんだりすれば気づく、
おとがいに追われことごとくまでにぶら下がる、
弱まりはついつい崩れても変わらない政権交代の、
オンデマンドされ発射するぶらぶらする小走りが、
ほら師走が埋められて感覚爆弾の交錯されるよ、
「主語」と「述語」の関係がわからない。1行目(前の行)と2行目(次の行)のつながりがわからない。
で、このわからないというときの「わからない」は「意味」がわからない、ということ。
で、これからが大事。
あすは「現代詩講座」で、いまは、もっぱら受講生の作品を読んで相互に感想を語り合うということをしているのだけれど、架空の教室で質問してみよう。
<質問> 「意味」がわからないのだけれど、何かわかることない?
<受講生>「意味」がわからないのに、わかることなんかない。
<質問> でも、何か気づくことがない? それぞれの行に共通することは?
<受講生>行の最後に必ず読点「、」があること。
そうだねえ。
理由はわからないけれど、森川は1行1行で読点「、」を打っている。1行ずつ一気に読ませようとしている。
<質問> 1行をすっと読める?
<受講生>私は読めない。長い。途中で、わからなくなる。
<質問> なぜ?
<受講生>え?
<質問> なぜ、長いと感じる?
<受講生>ややこしいから。
<質問> なぜ、ややこしい?
<受講生>ふたつのことがらが書かれているから。
そうだね。長く感じるのは、たぶん、1行に二つのことがらが書かれているから。それは「一目」で把握するにはかなり長い1行。
でも、それだけかな?
<質問> たとえば、朝起きてご飯を食べて、学校へ行きました。--これはどう?
起きる、ご飯を食べる、学校へ行く。三つのことがかいてある。
ややこしい?
<受講生>ややこしくない。
<質問> なぜ?
<受講生>知っていることだから。
<質問> それだけ? 森川の書いている1行と、ほかに違うところはない?
<受講生>森川の書いていることは1行で完結していない。
そうだね。完結していない。つづきがある、と思ってしまう。
けれども2行目へゆくと、それが1行目とどうつづいているのかわからない。1行のなかの二つのこと、たとえば
なる者はなりますからねと身につまされるほど走り、
には「なる者はなる」ということと「身につまされるほどに走り」ということが「と」ということばでつなげられているけれど、それをつなぐ「理由」のようなものがわからない。なぜ、つながるのかわからない。
それが行がかわると、さらに変なことばがつづくので、いっそう、わからなくなる。
1行目と2行目を強引につなげれば「走って」「越境した」ということかもしれない。さらに続けて読んでいくと、強引に動詞と感情をつないでゆけば、「越境して」「悲しみ」を感じたけれど、その悲しみを「禁制(禁止? 封印?)」してみれは、あることに「気づく」(気づいた)という具合になるのかもしれない。
論理というのは、あるいはストーリーというのは、ことばをつなげれば、どうしたって生まれてきてしまういいかんげんなものだからね。
で、そういうストーリー(意味)を強引にでっちあげて、この詩のことを語ってもいいかもしれないけれど、私は、最初の「わからない」にむしろ帰りたい。
わからなくていい。わかるのは、森川が、1行に複数のことがらをもりこみ、それを完結させないまま、1行のおわりでしっかりと呼吸し(読点「、」で息継ぎをし)、次の行にかけだしていく。そこでもひとつのことではなく、ふたつのことをいっきに吐き出し、また次の行へゆく。--このリズムはわかる。
森川は「意味」ではなく、「リズム」を書いている。ことばを動かすときの「呼吸の癖」を書いている。
まだ走りはじめたばかりなのだと思う。この「リズム」で走るのにふさわしいのは何行なのか、そしてそのテーマはなんなのか、まだ把握しきれていない。けれど、このリズムで呼吸すること、ことばを発することが、いまの森川には「快感」なのだ。
こういう「快感」を、私は、わりと信じてしまう。なかなかいいじゃないか、と思う。「森川節」だね。
でもね、ほんとうに、これは一瞬のこと。
森川が自分の「リズム」に快感を感じていること、酔っていることは「わかる」。(想像できる。)でも、私は、その「リズム」をまねしたくない。
これでは、だめ。
詩は(肉体は、思想は)、まねしたいと思わせないかぎり、詩ではない。あ、くやしい、このことば、自分で書きたかったのに。これを盗んでしまいたい、というような感じで迫ってこないことには詩ではない。
森川のことばの場合、そういう気持ちになるまえに、なんだこれは、わからないじゃないかという印象が動いてしまう。
すぐれた詩の場合逆でしょう?
「意味」はわからなくても、あ、かっこいい。まねしてみたい。つかってみたい、と思うでしょ? 「ことばなんて覚えるんじゃなかった」とかね。
でも、こうして私が書いているのは……。
おとがいに追われことごとくまでにぶら下がる、
この1行のなかの「音」のゆらぎ、濁音の美しさにひかれたからだ。とくに「おとがいに追われことごとく」がすばらしく美しい。次の「までに」が異質で、かなり汚い。私だったら「までに」は書かない。省略する。削る。
音が響きあえば、きっとこの詩はおもしろくなる。音の動きは「意味」を超えて、それだけで暴走する(疾走する)力をもっている。音が自律して動くと詩になると思う。(谷川俊太郎のことば遊びの詩のように。)森川は音を書いているという意識がないのかもしれない。
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