詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川邉由紀恵「腐葉土」

2013-07-25 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
川邉由紀恵「腐葉土」(「詩誌酒乱」6、2013年05月31日発行)

 川邉由紀恵「腐葉土」は河邉由紀恵のことばの動かし方にかなり似ている。ことばが「意味」である前に、「音」として動く。「音」が「肉体」の奥から「無意味=意味以前」を引っ張りだしてくる。その「音」に文字という視覚も混じってくる。

そレそレ
ふかい深い
腐葉土の上を
赤ぐろい木づたが
よこに下にはうように
襲うようにからんでくる
節からびろびろびろと根をのばして

 この「うようよ」という感じの「う」の動きまわる助走のあと、

ひろがるからまるこの指がいまつかまるからみとられるきうきうきう

 あ、これはいいなあ。「きうきうきう」に「う」がうようよと出てくるのだが、その直前の「からまる」を基本とした「か」「ま」「る」の反乱。とくに「いま/つかまる」と「いま」を差し挟むことで「ま」がひとつ、動詞以外の部分をからめとってうごくところがいいなあ。「まつかまる」って、何? あ、「いま/つかまる」か……。でも「まつかまる」という動詞ってないのかなあ。「まつかまりたい」なあ--というようなことを思うのは私だけかな? 何かよくわからないが「からまる」というのは、それこそいろんな動詞がからまって動いているのだろう。そうし、それが「きうきうきう」と「音」をたてている。
 この反対が、たぶん、その直前の「びろびろびろ」という広がりなんだろうなあ。一方で広がる。他方でからんで、つかまって、「きうきうきう」と窮屈な感じ。でも「うきうきうき」と何かしらうれしい感じ。セックスのような感じ。何か苦しいような、でもそれがうれしいような、「からみあい」。
 腐葉土の土の中で、それが起きている。それを「指」で感じている。

指をいれればなかはあたたかい女のなかのようなふかい腐葉土

 とつづく部分は、そのままセックスになるのだろうけれど、そういう「外形」としてのセックスは省略して、ふたつ先の、ひとかたまりのことば。

ふかい腐葉土のなかで球根はねむるけれども夢もみないおもいねむり
この世の音をしゃ音してゆぶゆぶゆぶとあの世の音だけきゅう音する
この腐葉土にながあめが降るああ夜のなかばに球根という鱗けいの鱗
ぺんの鱗けいの腐しふ死こう雨による水分により発芽は可のうとなる

 「鱗けい」「鱗ぺん」って、何?
 わからないことは、ほっておいて。
 わからないといえば「ゆぶゆぶゆぶ」だってわからないが、指が何かにさわって、ぶよぶよぶよとしたものを感じている、その「感じ」だって、実は、わからないからね。省略した部分に「ぶよぶよぶよ」がでてきたなあと思い出して、私がかってに想像しているだけだからね。
 「この世」「あの世」「ああ夜の」--「ああ世の」かもしれないね。「この世」と「あの世」の中間にある「世/夜」。その「夜」の行為のなかで、「あの世の音」を「きゅう音」する。
 「きゅう音」するって吸音、それとも求音--同じか。探し求めて、それを吸収する。そして、腐っていく。「腐蝕」する。でも、それは死んでしまうことではなくて、腐蝕は途中でとまって、「腐し」。死ぬのではなく「ふ死=不死」。
 セックスというのは「死ぬ」といいながら、死なずに、新しく生きることだね。

 こういうことを川邉が書いているかどうかわからないが、河邉由紀恵なら書くかもしれないなあ--と私は「誤読」している。

きうきうきういまつかまるからみとられるひろがるからまるその舌が

 は

きうきうきう今捕まる絡み取られる広がる絡まるその舌が

 かもしれないが、

きうきうきう今掴まるから看取られる広がる絡まるその舌が

 かもしれない。何かに掴まり、それを頼りに生きようとすると、それは死ぬことであり、その死を看取られ、そこから広がる新しい世界(あの世)が、その肉体に絡んでくることかもしれない。
 「音」のなかで「意味」が崩れ、意味の崩れが、そのまま新しい意味の生成をうながす、ということが起きているのかもしれない。





桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社
コメント (1)
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