三井葉子「断絶」(「something 」17、2013年06月28日発行)
三井葉子「断絶」には、わかることばとわからないことばがある。そして、どれがわかり、どれがわらかないかを考えると、そのわかる、わからないが微妙に食い違ってくる。
詩人・石原吉郎が「いまから死ぬ」と言って電話をかけてきた。そのとき、三井はどう答えていいかわからず「どうぞ」と言った。これは「わかる」。そして、そのとき三井が、石原にはつらいシベリア抑留の経験があり、その記憶がふいによみがえって苦悩することがあるのだ、自分の内部に整理していたものをふっと解きほぐし、他人にもらしてしまうことがあるのだ、と受け止める。「いまから死ぬ」と、だれかに言って、それを聞いてもらいたいのだと理解する。これも「わかる」。
石原はそのときは死なない。そのことをあとで、三井と石原は話し合ったのだろう。シベリア抑留の体験を語る吉原。そのことばに頷く三井という関係が見える。シベリア抑留で吉原は個人がそれぞれ断絶していることを実感した。同時にこの断絶が人間の共生の基本なのだと言った。この石原の気持ちも「わかる」。断絶とは「不可侵」のものを内部にかかえていることである。その「不可侵」を互いに尊重するということが断絶を守ることであり、「不可侵」を破ってしまうと共生はできない。とてもよく「わかる」。
そして、「いまから死ぬ」「どうぞ」という会話には、その「不可侵」を守る人間がいる。「死にたい」という気持ちの奥にある「不可侵」のもの。それに三井は手を出さない。「どうぞ」に「死になさい」ではなく、どうぞ「自分自身の不可侵のものをしっかりと守り通してください」ということであり、その「不可侵」の尊重こそが共生できる唯一の方法なのである。
そういうことが「わかる」相手だからこそ、石原は三井に「ヒトとヒトの断絶こそが共生の基本である」という哲学を語るのだ。三井はそれを聞き出すことができたのだ。これも、とてもよく「わかる」。
けれど、夕焼けを描写したあとの、
これは、「わからない」。ここには、人間の孤立(断絶)と共生を突きつめたような「論理」がない。「論理」が飛躍している。
--と書いて気づくのは、「わかる」とはことばで「論理」をつくりだしたときに感じる「満足感」のようなもの、自己満足そのものであるということだ。私の「解釈」が正しいかどうかではなく、そういうふうにことばを動かしていくと「論理」になって見える。これを私は「わかる」と呼んだのであり、その「わかった」がそのまま石原や三井の主張であるかどうかは、実は、わからない。
で、そういう「論理」をいったん棄ててしまうと。
これが「わかる」のである。この「わかる」も私の「誤読」だろうけれど、それまでのように、ことばをひとつひとつ追いながら「意味」を紡ぎだすという感じではなく、
突然、
石原は死んでもういないし、三井ももうかなり高齢で、ひととの断絶だとか共生とかは関係ないということが「わかる」。
関係があるのは死だけなんだ、という「声」に聞こえる。
私は実際に三井にあったことはないので、三井が高齢というのは推測にすぎないし、もう死ぬだけなんだ、というのも失礼な感想なのだけれど、死んで行く人間にとって断絶だとか共生だとか、そんなこむずかしいことばで作り上げる世界なんて関係がない(用がない)、という主張は「わかる」のだ。
で、「関係がない」を「用がない」と言っている三井に私はどきりとする。「用はない」と言い切ることばのなかに三井が「いる」ことが「わかる」のだ。三井の「肉体」を直接的に感じるのだ。ことばを超えて、三井がめき前にあらわれたさように感じるのだ。じかに迫ってくるのだ。
私はさっき、「用がない」を「関係がない」と言い換える形で三井のことばを動かしてきたが、この「関係」ということばは「断絶」とか「共生」とかに通じる「世界を描写するときの流通言語」である。「断絶」とか「共生」とか、もう、そんなめんどうくさいことばで世界をだれかのためにつくりだして見せるなんてことは、三井には「用がない」。これは「関係」の放棄である。否定である。めんどうくさいことばを「肉体」の存在で押し切ってしまう。
ちょっと(かなり?)矛盾した言い方になるのだが、この「用がない」という拒絶のことば--それは石原の言っていた「断絶」ともつながっている。「不可侵」ということばで私が書いたことにもつながっている。「用がない」ということばで他人と断絶し、他人のプライバシー(不可侵)に踏み込まない。他人のプライバシーなんか、自分にとって「用」があるはずがない。だから、私の「不可侵」にもあなたは用はないでしょ? たがいに用がないことには口をはさまず、いっしょに暮らしましょう(共生しましょう)。
うーん。
同じことを言っている?
いや、そうではないのだ。三井は「断絶」とか「共生」ということばではなく、「用がある/用がない」とあくまで「用」にこだわる。それは三井がつかいつづけたことばであり、三井の肉体である。石原のことばを振り払って、いま、三井は三井のことばで思想(肉体)を語っている。単に、残された時間は少ないから「断絶」「共生」というようなことと関係がないというのではなく、そういうことばそのものに用はないのだ。三井はもっと違うことば、そしてそのことばが引き寄せるものに「用がある」のだ。だって、まだまだ生きているのだから。
そのことが「わかる」。「用がある/用がない」ということばでつかみとる世界があるということが「わかる」。
そして、そのことが「わかる」と……。
最初に「わかる」と私が書いた、「断絶」「共生」とその「世界」はどこへ行くのだろうか。「錯覚」になってしまわない? 私は実は「わかっていなかった」のではないか、という気持ちになる。
私が「わかる」(わかっている)と思っているのは、どっちなのだろう。「断絶/共生」の世界だろうか。「用がある/用がない」の世界だろうか。
「用がある」という表現は何気ないが、そのことばが突きつけてくるものは、とても重い。
三井葉子「断絶」には、わかることばとわからないことばがある。そして、どれがわかり、どれがわらかないかを考えると、そのわかる、わからないが微妙に食い違ってくる。
夜中にデンワのベルが鳴って
いまから死ぬ
と
石原さんが言った
わたしはちょっと考えたが
仕方がないので
どうぞ と言った
彼はそのとき死ななかったがさくらのような雪のふる抑留地シ
ベリアで凍っていたので、ときに解けたくなるのだ
でも
凍っているからこそヒトとヒトとの間は断絶することができる。
それこそがわたしたちが共生できる基なのだと彼は言ったのだ
夕焼け雲が解けながら棚引いている
断絶も
共生も
もう わたしたちには用がないわね。
詩人・石原吉郎が「いまから死ぬ」と言って電話をかけてきた。そのとき、三井はどう答えていいかわからず「どうぞ」と言った。これは「わかる」。そして、そのとき三井が、石原にはつらいシベリア抑留の経験があり、その記憶がふいによみがえって苦悩することがあるのだ、自分の内部に整理していたものをふっと解きほぐし、他人にもらしてしまうことがあるのだ、と受け止める。「いまから死ぬ」と、だれかに言って、それを聞いてもらいたいのだと理解する。これも「わかる」。
石原はそのときは死なない。そのことをあとで、三井と石原は話し合ったのだろう。シベリア抑留の体験を語る吉原。そのことばに頷く三井という関係が見える。シベリア抑留で吉原は個人がそれぞれ断絶していることを実感した。同時にこの断絶が人間の共生の基本なのだと言った。この石原の気持ちも「わかる」。断絶とは「不可侵」のものを内部にかかえていることである。その「不可侵」を互いに尊重するということが断絶を守ることであり、「不可侵」を破ってしまうと共生はできない。とてもよく「わかる」。
そして、「いまから死ぬ」「どうぞ」という会話には、その「不可侵」を守る人間がいる。「死にたい」という気持ちの奥にある「不可侵」のもの。それに三井は手を出さない。「どうぞ」に「死になさい」ではなく、どうぞ「自分自身の不可侵のものをしっかりと守り通してください」ということであり、その「不可侵」の尊重こそが共生できる唯一の方法なのである。
そういうことが「わかる」相手だからこそ、石原は三井に「ヒトとヒトの断絶こそが共生の基本である」という哲学を語るのだ。三井はそれを聞き出すことができたのだ。これも、とてもよく「わかる」。
けれど、夕焼けを描写したあとの、
断絶も
共生も
もう わたしたちには用がないわね。
これは、「わからない」。ここには、人間の孤立(断絶)と共生を突きつめたような「論理」がない。「論理」が飛躍している。
--と書いて気づくのは、「わかる」とはことばで「論理」をつくりだしたときに感じる「満足感」のようなもの、自己満足そのものであるということだ。私の「解釈」が正しいかどうかではなく、そういうふうにことばを動かしていくと「論理」になって見える。これを私は「わかる」と呼んだのであり、その「わかった」がそのまま石原や三井の主張であるかどうかは、実は、わからない。
で、そういう「論理」をいったん棄ててしまうと。
断絶も
共生も
もう わたしたちには用がないわね。
これが「わかる」のである。この「わかる」も私の「誤読」だろうけれど、それまでのように、ことばをひとつひとつ追いながら「意味」を紡ぎだすという感じではなく、
突然、
石原は死んでもういないし、三井ももうかなり高齢で、ひととの断絶だとか共生とかは関係ないということが「わかる」。
関係があるのは死だけなんだ、という「声」に聞こえる。
私は実際に三井にあったことはないので、三井が高齢というのは推測にすぎないし、もう死ぬだけなんだ、というのも失礼な感想なのだけれど、死んで行く人間にとって断絶だとか共生だとか、そんなこむずかしいことばで作り上げる世界なんて関係がない(用がない)、という主張は「わかる」のだ。
で、「関係がない」を「用がない」と言っている三井に私はどきりとする。「用はない」と言い切ることばのなかに三井が「いる」ことが「わかる」のだ。三井の「肉体」を直接的に感じるのだ。ことばを超えて、三井がめき前にあらわれたさように感じるのだ。じかに迫ってくるのだ。
私はさっき、「用がない」を「関係がない」と言い換える形で三井のことばを動かしてきたが、この「関係」ということばは「断絶」とか「共生」とかに通じる「世界を描写するときの流通言語」である。「断絶」とか「共生」とか、もう、そんなめんどうくさいことばで世界をだれかのためにつくりだして見せるなんてことは、三井には「用がない」。これは「関係」の放棄である。否定である。めんどうくさいことばを「肉体」の存在で押し切ってしまう。
ちょっと(かなり?)矛盾した言い方になるのだが、この「用がない」という拒絶のことば--それは石原の言っていた「断絶」ともつながっている。「不可侵」ということばで私が書いたことにもつながっている。「用がない」ということばで他人と断絶し、他人のプライバシー(不可侵)に踏み込まない。他人のプライバシーなんか、自分にとって「用」があるはずがない。だから、私の「不可侵」にもあなたは用はないでしょ? たがいに用がないことには口をはさまず、いっしょに暮らしましょう(共生しましょう)。
うーん。
同じことを言っている?
いや、そうではないのだ。三井は「断絶」とか「共生」ということばではなく、「用がある/用がない」とあくまで「用」にこだわる。それは三井がつかいつづけたことばであり、三井の肉体である。石原のことばを振り払って、いま、三井は三井のことばで思想(肉体)を語っている。単に、残された時間は少ないから「断絶」「共生」というようなことと関係がないというのではなく、そういうことばそのものに用はないのだ。三井はもっと違うことば、そしてそのことばが引き寄せるものに「用がある」のだ。だって、まだまだ生きているのだから。
そのことが「わかる」。「用がある/用がない」ということばでつかみとる世界があるということが「わかる」。
そして、そのことが「わかる」と……。
最初に「わかる」と私が書いた、「断絶」「共生」とその「世界」はどこへ行くのだろうか。「錯覚」になってしまわない? 私は実は「わかっていなかった」のではないか、という気持ちになる。
私が「わかる」(わかっている)と思っているのは、どっちなのだろう。「断絶/共生」の世界だろうか。「用がある/用がない」の世界だろうか。
「用がある」という表現は何気ないが、そのことばが突きつけてくるものは、とても重い。
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