岡田哲也『茜ときどき自転車』(書肆山田、2013年06月30日発行)
詩集全体に父母への追慕があふれている。
ということばがある。わからなかったことがわかるまでには、長い間、生きなければならないということなのかもしれない。そうした追慕の正直なことばの、正直な力がこの詩集をささえている。それはそれで美しいが、次の短い作品「母星」がいい。
「額にひっつきそうに」というのは「比喩」である。そして、その比喩は岡田独自のものではないかもしれない。ときどき、だれかが、同じような比喩をつかう。「額にくっつきそうに」の方がなじみがあるかもしれない。意味は同じだけれど。
でも、そのありふれた比喩が、この詩ではなぜかとても「なまなましく」感じられる。岡田の額と星になった母親の額が「ひっついている」と感じるのである。
「くっつく」ではなく「ひっつく」という音のせいかな? 私の印象では「ひっつく」は単に接触するのではなく、接触によってなにか「私の側」から「ひっぱがされる」感じがある。凍りすぎた氷、ドライアイスに手が触れた時、手の皮膚が氷にひっぱられるような感じ。そういうとき「くっつく」よりも「ひっつく」の方がぴったりくる。これは単なる私の「語感」の問題かもしれないけれど。
そういう音の問題を別にして、詩を読み返すと。
「額」が、実は、3連目以前にも出ている。そのために「額」ということばが「岡田」の額であると同時に母の額を呼び覚ますのだ。
2連目の、
「頷く」とき動くのは「頭」である。「頭」なのだけれど、そこには「額」がある。「額」も動いている。それが自然に岡田のことばに反映しているのだと思う。
また、母親が子どもの額に額をひっつけるときの、状況とか、肉体の動きも、そこには反映している。額と額をひっつけるのは、たとえば子どもの熱を自分の肉体で確かめるとき。母親は自分の額を子どもの額にひっつける。そして、そのときたいていは母親が子どもの方に頷くように、上から下へと額を動かす。上から下へ額を近づけ、子どもの顔をのぞきこむようにして「大丈夫かな……」。その目を見ると、子どもは安心する
こういうことは、ここには書いてはないのだけれど、私の「肉体」のなかに、そういう動きが思い出される。そして、その肉体がおぼえていることが働いて、
が、とてもなまなましく感じられるのである。星の輝きというよりも、星になった母親がそのまま見える、そこに母を見ている岡田を感じてしまうと言いなおした方がいいかもしれない。そのとき、そして、私は岡田を感じると書いたのだけれど--それは、うそ。岡田を感じるを通り越して、自分が星を見ていて、その星が私の母親で、その母親が自分をのぞきこむように近づいてくる感じをおぼえるのである。
母親というものは、子どもがどんなことをしても、それをそのまま受け入れる。悪いことをしても、それを受け入れる。まず、受け止める、といえばいいのか。受け止めて、それから問いかけてくる。「大丈夫?」それは、これからどうする?ということかもしれない。何をしたっていいよ、味方をするよ、といいながらのぞきこむのである。
こういうとき、たしかに「ひっつく」なのだ。
ただ触れるだけではなく、触れることで、何か「悪いこと」を引っぱがしていく。そういう力が母親の額にはある。精神的なことだけではなく、先に書いた熱のことでも同じだ。額をひっつけることで、母親の肉体の力が子どものなかの熱を引っぱがしていく。そういうことが母親にはできる。そんなことも思った。
には母親が生きている。
詩集全体に父母への追慕があふれている。
お母さんの愛にも お父さんの期待にも
応えることができませんでした 「返事」
ということばがある。わからなかったことがわかるまでには、長い間、生きなければならないということなのかもしれない。そうした追慕の正直なことばの、正直な力がこの詩集をささえている。それはそれで美しいが、次の短い作品「母星」がいい。
ふだん見えない星が すぐそこに見える時がある
ふだん見えない星に 手を伸ばしたい時がある
暗い時
輝きを増す
星がある
どんな賛辞もほしくない
どんな敵意もこわくない
ただ 亡き母に
頷いてもらえさえすれば……
そんな夜
その星が
額にひっつきそうに
近くに見える
「額にひっつきそうに」というのは「比喩」である。そして、その比喩は岡田独自のものではないかもしれない。ときどき、だれかが、同じような比喩をつかう。「額にくっつきそうに」の方がなじみがあるかもしれない。意味は同じだけれど。
でも、そのありふれた比喩が、この詩ではなぜかとても「なまなましく」感じられる。岡田の額と星になった母親の額が「ひっついている」と感じるのである。
「くっつく」ではなく「ひっつく」という音のせいかな? 私の印象では「ひっつく」は単に接触するのではなく、接触によってなにか「私の側」から「ひっぱがされる」感じがある。凍りすぎた氷、ドライアイスに手が触れた時、手の皮膚が氷にひっぱられるような感じ。そういうとき「くっつく」よりも「ひっつく」の方がぴったりくる。これは単なる私の「語感」の問題かもしれないけれど。
そういう音の問題を別にして、詩を読み返すと。
「額」が、実は、3連目以前にも出ている。そのために「額」ということばが「岡田」の額であると同時に母の額を呼び覚ますのだ。
2連目の、
頷いてもらえさえすれば……
「頷く」とき動くのは「頭」である。「頭」なのだけれど、そこには「額」がある。「額」も動いている。それが自然に岡田のことばに反映しているのだと思う。
また、母親が子どもの額に額をひっつけるときの、状況とか、肉体の動きも、そこには反映している。額と額をひっつけるのは、たとえば子どもの熱を自分の肉体で確かめるとき。母親は自分の額を子どもの額にひっつける。そして、そのときたいていは母親が子どもの方に頷くように、上から下へと額を動かす。上から下へ額を近づけ、子どもの顔をのぞきこむようにして「大丈夫かな……」。その目を見ると、子どもは安心する
こういうことは、ここには書いてはないのだけれど、私の「肉体」のなかに、そういう動きが思い出される。そして、その肉体がおぼえていることが働いて、
額にひっつきそうに
が、とてもなまなましく感じられるのである。星の輝きというよりも、星になった母親がそのまま見える、そこに母を見ている岡田を感じてしまうと言いなおした方がいいかもしれない。そのとき、そして、私は岡田を感じると書いたのだけれど--それは、うそ。岡田を感じるを通り越して、自分が星を見ていて、その星が私の母親で、その母親が自分をのぞきこむように近づいてくる感じをおぼえるのである。
母親というものは、子どもがどんなことをしても、それをそのまま受け入れる。悪いことをしても、それを受け入れる。まず、受け止める、といえばいいのか。受け止めて、それから問いかけてくる。「大丈夫?」それは、これからどうする?ということかもしれない。何をしたっていいよ、味方をするよ、といいながらのぞきこむのである。
こういうとき、たしかに「ひっつく」なのだ。
ただ触れるだけではなく、触れることで、何か「悪いこと」を引っぱがしていく。そういう力が母親の額にはある。精神的なことだけではなく、先に書いた熱のことでも同じだ。額をひっつけることで、母親の肉体の力が子どものなかの熱を引っぱがしていく。そういうことが母親にはできる。そんなことも思った。
額にひっつきそうに
には母親が生きている。
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