詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡田哲也『茜ときどき自転車』

2013-07-01 23:59:59 | 詩集
岡田哲也『茜ときどき自転車』(書肆山田、2013年06月30日発行)

 詩集全体に父母への追慕があふれている。

お母さんの愛にも お父さんの期待にも
応えることができませんでした                     「返事」

 ということばがある。わからなかったことがわかるまでには、長い間、生きなければならないということなのかもしれない。そうした追慕の正直なことばの、正直な力がこの詩集をささえている。それはそれで美しいが、次の短い作品「母星」がいい。

     ふだん見えない星が すぐそこに見える時がある
     ふだん見えない星に 手を伸ばしたい時がある

暗い時
輝きを増す
星がある

どんな賛辞もほしくない
どんな敵意もこわくない
ただ 亡き母に
頷いてもらえさえすれば……

そんな夜
その星が
額にひっつきそうに
近くに見える

 「額にひっつきそうに」というのは「比喩」である。そして、その比喩は岡田独自のものではないかもしれない。ときどき、だれかが、同じような比喩をつかう。「額にくっつきそうに」の方がなじみがあるかもしれない。意味は同じだけれど。
 でも、そのありふれた比喩が、この詩ではなぜかとても「なまなましく」感じられる。岡田の額と星になった母親の額が「ひっついている」と感じるのである。
 「くっつく」ではなく「ひっつく」という音のせいかな? 私の印象では「ひっつく」は単に接触するのではなく、接触によってなにか「私の側」から「ひっぱがされる」感じがある。凍りすぎた氷、ドライアイスに手が触れた時、手の皮膚が氷にひっぱられるような感じ。そういうとき「くっつく」よりも「ひっつく」の方がぴったりくる。これは単なる私の「語感」の問題かもしれないけれど。
 そういう音の問題を別にして、詩を読み返すと。
 「額」が、実は、3連目以前にも出ている。そのために「額」ということばが「岡田」の額であると同時に母の額を呼び覚ますのだ。
 2連目の、

頷いてもらえさえすれば……

 「頷く」とき動くのは「頭」である。「頭」なのだけれど、そこには「額」がある。「額」も動いている。それが自然に岡田のことばに反映しているのだと思う。
 また、母親が子どもの額に額をひっつけるときの、状況とか、肉体の動きも、そこには反映している。額と額をひっつけるのは、たとえば子どもの熱を自分の肉体で確かめるとき。母親は自分の額を子どもの額にひっつける。そして、そのときたいていは母親が子どもの方に頷くように、上から下へと額を動かす。上から下へ額を近づけ、子どもの顔をのぞきこむようにして「大丈夫かな……」。その目を見ると、子どもは安心する
 こういうことは、ここには書いてはないのだけれど、私の「肉体」のなかに、そういう動きが思い出される。そして、その肉体がおぼえていることが働いて、

額にひっつきそうに

 が、とてもなまなましく感じられるのである。星の輝きというよりも、星になった母親がそのまま見える、そこに母を見ている岡田を感じてしまうと言いなおした方がいいかもしれない。そのとき、そして、私は岡田を感じると書いたのだけれど--それは、うそ。岡田を感じるを通り越して、自分が星を見ていて、その星が私の母親で、その母親が自分をのぞきこむように近づいてくる感じをおぼえるのである。
 母親というものは、子どもがどんなことをしても、それをそのまま受け入れる。悪いことをしても、それを受け入れる。まず、受け止める、といえばいいのか。受け止めて、それから問いかけてくる。「大丈夫?」それは、これからどうする?ということかもしれない。何をしたっていいよ、味方をするよ、といいながらのぞきこむのである。
 こういうとき、たしかに「ひっつく」なのだ。
 ただ触れるだけではなく、触れることで、何か「悪いこと」を引っぱがしていく。そういう力が母親の額にはある。精神的なことだけではなく、先に書いた熱のことでも同じだ。額をひっつけることで、母親の肉体の力が子どものなかの熱を引っぱがしていく。そういうことが母親にはできる。そんなことも思った。
 
額にひっつきそうに

 には母親が生きている。







茜ときどき自転車
岡田哲也
書肆山田
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ヒュー・ハドソン監督「炎のランナー」(★★★★★)

2013-07-01 09:43:03 | 詩集
監督 ヒュー・ハドソン 出演 ベン・クロス、イアン・チャールソン

 「午前十時の映画祭」デジタル版の1本。
 イギリス映画の黒はきれいだなあ。最初に見たときも感じたがデジタル版も美しい。フィルム版シリーズの「ゴッドファザー」を見たときは、黒のあまりの変質にぎょっとしたが、デジタル版では黒を取り戻しているかなあ--という期待をしてしまった。
 と、最初から脱線したが。
 パリオリンピックに出場したイギリス選手の実話。この映画の魅力は、なんといってもイギリス人の「個人主義」をきちんと描いているところ。イギリスの「個人主義」は、さすがにシェークスピアの国だけあって、やっぱり「ことば」にこだわる。ことばで言わないかぎり「個人主義」は成立しない。
 敬虔なクリスチャンであり、宣教にも情熱をそそぐイアン・チャールソンは百メートルの選手なのだが、予選が日曜日にあるために棄権する。その話を聞いて、大学が説得する。
 「国家、国王、大学などの名誉を無視するのは、傲慢じゃないだろうか」
 「宗教の問題にまで口を挟む方が傲慢だ」
 すごいですねえ。日本だったら(日本だけじゃないかもしれないけれど)、権力が個人に対して「傲慢」という批判をしてきた場合、ちょとたじろぐ。でも、イアン・チャールソンは違うんでねすねえ。ことばで反論し、ことばで自分の立場を守る。ことばとして成立するものは、もう、絶対的な存在。完結した存在。それ自身として存在する。そういう感じの「個人主義」。ことばの完結が個人の完結、という感じの「個人主義」。
 完結したことば(完結した論理)は、もう、不可侵。変更のしようがない。絶対的な存在なのである。
 この例はいちばん厳格な例かもしれないが、随所に、そういうことを感じる。冒頭の寮の受け付け(?)でベン・クロスが「坊や」呼ばわりされる。それに対して、彼は「坊やは戦争で捨ててきた」というような反論をする。「坊や」と呼ぶな、という。これもね、ただ「坊やと呼ぶな」ではきっとだめなんだろうなあ。自分はこういうふうに生きているということを「ことば」で語る。「ことば」にしたことがらが、そのひとの「プライバシー(完結した内部)」。完結した内部には、だれも侵入できない。そういう感じだなあ。
 こういう「完結したことば」を英語では、たぶん、ボイス(声)という。その人独自の声。声をもっている、というのは文体をもっているということ。個性、プライバシー、個人主義というものが、その周辺で形成されている感じ。
 そして、これが人間だけではなく、なんといえばいいのだろう、「調度」にも言えるような気がする。「調度」というのは私の「方便」であって、ほんとうはそんなくくりかたをしないのだろうけれど、たとえば大学の内部の食堂のあり方(食事の取り方、晩餐のあり方、そこには「正装」というものも含まれるのだけれど)、あるいは室内にそなえつけられてある書籍--それらは全部、一個一個、「内部不可侵」という感じで存在している。「内部不可侵」を主張し、尊重し、さまざまなものが集まっている。だから、映像の情報量が多くても、それがうるさくならない。とても落ち着いている。「内部不可侵」を秘めて、一部しか見せていないから(自己主張しないから)なんだね。それがイギリスなんだなあ、と思う。
 古い映画なので、ちょっと「脇道」ふうの感想を書いてみた。
                        (2013年06月29日、天神東宝5)






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