詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木志郎康『ペチャブル詩人』(3)

2013-07-15 23:59:59 | 詩集
鈴木志郎康『ペチャブル詩人』(3)(書肆山田、2013年07月05日発行)


 鈴木志郎康『ペチャブル詩人』には、とても変な詩がある。「ウォー、で詩を書け」からつづく数篇。それは「その日、飲みこまれたキャー」へと結晶していくのだけれど。

ウォー、
ウォー、
叫んで詩を書け、
ウォー、
大声で怒鳴れば、
頭は空っぽになる。
ウォー、
そこで詩を書け
思うな、
考えるな、
ウォー、
ほら、跳んだ。

さてと、叫んだら、
言葉が引っ込んじまった。
言葉って、
浮かんでくるのを待つのかい。
引っ張り出すのかい。
詩の言葉は用向きじゃないから、
身辺を遮断する。
ついでに、記憶も遮断する。
向かう気持ち。
向かう気持ち。
いいなあ。

 きのう私が「分断」と呼んできたものを、鈴木は「遮断」と呼んでいることがわかる。そっくりそのままではないのだけれど「遮断」ということばで、「連続」とは違うことを書こうとしている。
 「ウォー、」は何か。鈴木は「叫んだ」という「動詞」でくくっている。名詞にすれば「叫び」。何と比べているのだろうか。「言葉」である。「言葉」を「遮断する」ものとして「叫び」がある。
 「遮断」するのは「身辺」であり、「記憶」である。それまでの「連続」である。「遮断」して、どうなるのか。

向かう気持ち。

 「遮断」して、いままでとはまったく違ったもの、「向こう」にあるものに「向かう」。これを鈴木は「連続」とは呼ばずに「跳ぶ(跳んだ)」と呼んでいる。そして、それが、

いいなあ。

 なのである。
 いままでの「言葉(意味/形成された記憶)」を「遮断」して、「跳ぶ」。向こうへ跳んでしまう。自分から出てしまう。エクスタシー。そのとき「向こう」は自分以外の全方位であって、限定されていない。
 「ウォー」という叫び、「肉体」を潜り抜けていく「音」。そこに、鈴木は何かを感じている。「意味」からの解放を感じている。そういうふうに私には感じられる。

 怒りが「ウォー」なら、恐れ(恐ろしさ)はなんだろうか。「キャー」だね。「他人事のキャーで済ます」。

今まで生涯に
現実で、
キャー、
と叫んだことはなかったですね。
家の中ででっかいゴキブリに叫びそうになったことはあるが。
新明解国語辞典には、
「きゃあ(感)恐れや驚きのために、思わず発する叫び声」
とあります。
恐れや驚きって、自分の現実の現場ってことだね。

 「自分の現実の現場」というのは「いま」であり、それは「過去(意味)」とは連続していない「瞬間」ということだろう。「遮断/分断」された「いま」。
 そして、「生涯」で「キャー」と叫んだことのない鈴木は、それでは、そういうときにどうしてきたのか。
 ニュースカメラマンで電車と車の衝突現場に駆けつけたとき。車体を焼き切って、男を搬出する現場に立ち会ったとき。

ああ、その悲惨な男の身体を直に目にして撮影したが、
わたしは、
キャーとは言わなかった。
内心、ひどいな、とは思ったけど、
内心にキャーを納めたってこと。
ニュースとしては常識だったんですね。
つまり他人事だったんです。
そこ、他人事にするメカニズム。
内心ってこと、
わたしは思わずキャーと叫ぶことはないだろう。
思わずってところで自分を外す。
内心が問題なんだ。

 「キャー」を外にださない。「内心」に納める。そうすると、それは「他人事」になる。言い換えると「キャー」と叫ぶと、恐ろしさは「自分」のものになり、その「自分のもの」が不思議なことに、「肉体の外」へ声として出て行く。
 --ここにも、不思議な矛盾があるねえ。
 「内心」に納めるとき、それは「自分の内」にある。あたりまえだけれど。しかし、そのとき、肝腎の「対象(?)」は自分の外にある。関係がない。「他人事」。けれど、恐ろしいを「キャー」という声にすると、それは自分の外に出てしまった何かなのに、自分のもの。
 SMAPのクサナギなんとかが泣く芝居について「こらえても零れてしまうのが涙というものなのに、役者はこらえずに流すのだからとても変」というようなことを言っていたが、何か、そういう矛盾--真実がそこにあるなあ。谷川俊太郎も、そういう詩を書いていたなあ。矛盾--だから、真実。

 さて。そこで「その日、飲みこまれたキャー」。東日本大震災のことを書いた詩。そのなかに、いまふれたのと同じことばが出てくる。

大量の海水が押し寄せるのを撮り続けている、
叫ぶ人の声が入っている。
水が自動車も家も押し流して行く。
凄い力だ。
現場でキャーと叫ぶところ。
わたしは自分のキャーの叫びを飲み込む。

何度も、
キャー、
わたしは自分の叫びを飲み込んだ。
脳内で、キャー、
生まれて初めて見る大津波の映像だ。

飲み込んだキャーは心に固まっている。

そんなことで、それから、書いておこうと思って、
黙ってキャーをもう一度飲み込む。
重たい固まり。
数ヶ月あまり経って、
わたしは自分の書斎で、
この詩を書いた。

 鈴木はキャーと叫ぶ代わりに、書く。書いたことばが、そこに「キャー」が書かれていなくても「キャー」なのだ。そうであるなら、それは、やはり鈴木にとっては「遮断」なのだ。「過去/記憶」を遮断して、自分を「全方位」に解放する方法なのだ。
 鈴木はことばによって「自己拡張」をめざしつづけた詩人である。その「自己拡張」が「連続」という形から、音の力を改めて見つめなおすことによって「自己解放」へと変わってきているのかもしれない。
 「解放」(開放)されている鈴木のことばの扉をとおって、鈴木の「内心(脳内)」へと、私たちが近づいていかなければならない。

 「音の独立」(分断/遮断した状態での存在)ということについて書こうと思っていたのだが、また、違ったことを書いてしまった。書こうとしていることとは違ったことを書いてしまうのが、ことばの運動なのかなあ、と鈴木の詩と関係があるのかないのか、わからないことを、また思ってしまうのだった。

 三日間、なんだか支離滅裂な日記を書いてしまったが、鈴木のことばには、わたしのことばを支離滅裂にしてしまう強烈な力がある。そういうエネルギーにあふれている。私の考えはまとまらないが、私の考えの支離滅裂とは無関係に、鈴木のことばは独立して存在している。この屹立感--それが詩というものなんだなあ、と思う。



胡桃ポインタ―鈴木志郎康詩集
鈴木 志郎康
書肆山田
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