詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

植村孝『詩人の事件簿』『未達の夢』

2013-07-19 23:59:59 | 詩集
植村孝『詩人の事件簿』『未達の夢』(BookWay、2013年07月30日発行)

 植村孝『詩人の事件簿』のなかに、秋亜綺羅の私信が収録されている。

日記のように詩を書いたり、手紙のように詩を書くって、
ものすごくむずかしいことだと思います。
植村さんの実験的な方法論に
わたしもいつか挑戦してみたいなと、思いました。

 私も、そんなふうに思った。
 と、書いたら---うーん、書くことがなくなってしまった。
 そうか、植村孝はいろんな詩人と会っているのか、新川和江はたばこを吸うのか。高橋順子には二度会ったことがあるなあ(顔を見たことがあるなあ)。秋亜綺羅には、ついこのまえ(4月? 5月? 忘れた)に会ったなあ。
 あとは忘れた。
 で、なぜ、忘れたかというと、私は植村に会ったことがない。植村の詩も、読んでいるかもしれないけれど、記憶にない。だから、「日記」「手紙」の、省略された部分(奥行き)が私にはつかまえにくくて、ことばが逃げ去ってしまう。
 つまずかない。
 これは、しかし、よくよく考えると変である。
 「日記」や「手紙」には知らないことが書いてあるのがふつうで、その知らないことというのは、たいてい私をつまずかせる。でも、意外と、つまずくものがない。
 なぜかなあ……。
 変わっていかないからだ。植村が新川に会う。そのあと植村がどう変わったのか。変わっていないように感じられる。いろんな詩人に会って(手紙をやりとりして)、それでも植村は変わらない。変わらないから、それが植村であると言えるのかもしれないけれど、どんどん変わっていって、変わったけれど植村だという方が「個性」というものじゃないかな、と思った。そういう感じがないのである。
 
 『未達の夢』のなかに、気がかりな詩がある。「歴史にしたい」。

嫌いなんです
太平洋戦争で負けたこと
最近では東日本大震災のことなど
つらくて悲しい出来事は
みんな歴史にしたいです
応仁の乱とか
本能寺の変とか歴史になってしまえば
当時の悲しみや悲惨な事が消去されて感情がなくなるから
ちょっとは楽なんですが

 これは「反語」だろうか。よくわからない。

嫌いなのです
世間の人は
「忘れないで」とか
「風化させないで」と言いますが
はやく事故や事件は歴史になって欲しいのです
でも歴史になれば痛いとか苦しかったとか悲しかったことなど
感じなくなります
それがちょっと残念ですが
歴史にしてしまえば学校でも教えてくれるし
教科書に載ってしまえば風化ってことなく
応仁の乱のようにずーっと生きながらえるから

 そうなのかな? 「応仁の乱」って生きている? 私は歴史は苦手で、私の感覚が間違っているのかもしれないが、私は「応仁の乱」というのは、そのことばしか知らない。だれとだれが何をしたのか、いつあったのか、まったくわからない。何一つ、思い出すことができない。中学校で習ったのか、高校で習ったのかもわからない。試験に出てきたかどうかも覚えていない。私にとって「応仁の乱」は何の関係もない。「生きていない」。
 植村は、応仁の乱とどうかかわっている? どういうときに、それを思い出す? そこから、何を動かす? そういうことがなくても、それは「生きている」?
 違うんじゃないかなあ……。

 ちょっと前にもどると。
 『詩人の事件簿』は、「歴史」ではない「生きている」ものが「日記」(手紙)として書かれている。書こうとしている。
 そうなれば、とてもおもしろい。
 でも、詩人といっしょに生きて、相手の詩人も植村も動いていくというのは、これはとてもむずかしい。たいてい、こういうことがありました--という一瞬の報告に終わってしまって(秘密の暴露?)、人間が動かない。
 繰り返しになってしまうが、日記でも手紙でもいいけれど、書くことで植村自身が匿えとは違った人間になってしまわないと、ほんとうは書いたことにならないのではないのか。
 言いかえると、植村は「日記(手紙)」を書いたのではなく、もしかすると「歴史」を書いてしまっているのではないか。「いま」ではなく、「過去」をならべているのではないか、という印象がするのである。

 2冊、詩集を読んで、いちばん印象に残ったのは「ヒヨコがご飯の上に」である。

想定内のようで
想定外の詩を書きてぇな
茶碗いっぱいのご飯の上に
卵を割って落としてみると
黄味じゃなくて
ヒヨコがご飯の上に乗っていた
ってな詩が書きてぇな

 これはいいねえ。ヒヨコを発見している。植村が卵の黄味からヒヨコに変わってしまっている。それはけっして「歴史」にならない「無意味」である。
 「無意味」がないと詩ではない。
 「意味」ではな「歴史」になってしまう。植村がいなくても存在する「流通事実」になってしまう。




水色の音楽―詩集
植村孝
BookWay
コメント (1)
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