岬多可子「春の鍋」、ジェフリー・アングルス「そして突然」(「ミて」123 、2013年06月28日発行)
岬多可子「春の鍋」せ「香りの小片」のうちの一篇。
アクの強い山菜を煮る。そのときの、におい。においをことばにするのはむずかしい。たぶん嗅覚は原始的なのだと思う。私が知らないだけなのかもしれないが、たとえば聴覚ならアルキメデスが定義(?)していらい、音階がある。数学的法則がある。視覚にしても、三原色の混ぜる割合(数学)で色が決まる。つまり、「頭」で再現できる。けれど、においには、そういうものはない。
においを、どう書くか。
この行がおもしろい。「におい」は空中を漂う。空中を漂うということは、そのとき「空気」のなかに何かがまじり込む。何かがまじりこむと、そのとき「濃度」は高くなる--というのが数学というか、物理というか、まあ、科学の世界だと思うが、岬は逆に書いている。「空気」が「濃くなる」ではなく「薄まる」。
私はいっしゅん、つまずくのだが、たしかにそうかもしれないと思う。
においにひきつけられるとき、においを感じるときは、「におい」が「肉体」のなかに入ってくるととらえるのが一般的だろうけれど、逆に感じるときもある。「肉体」のなからか、何かが誘い出されていく、という感じ。「肉体」が覚えているものが誘い出され、一瞬、自分が希薄になる感じ。
「肉体」から何かが誘い出されるのは、「肉体」のまわりにある空気の濃度が薄く、「肉体」のなかにあるものが濃度が濃いからだ。真空に、空気が吸い出されていく。たとえば、宇宙で、飛行船が壊れたら、内部の空気が真空に噴出する感じ。(宇宙に行ったことはないのだけれど、まあ、そんな感じ。)
煮ている山菜が吹きこぼれる(山菜を煮ている湯が吹きこぼれる)のだけれど、それはまるで「肉体」のなかから何かがこぼれていくようにも見える。
セックスの記憶とかね。
セックスを支配しているのは音(声)とにおいだ。(というようなことを書くと、北川透から、聴覚とセックスを結びつけるのは女性的だ。男性は視覚でセックスをする、と言われそうだが……。でも、たとえばポルノ映画を音なしで見て、興奮する? あるいは、隣の部屋から聴こえてくるせつない声を聞くと、見えなくても興奮しない? と、いつか私は北川に問いかけてみたい--という形でいま問いかけているのだけれど。)
で、ほら。
においが「肉の色」になる。「肉の色」なんて、それだけではどんな「色」かぜんぜんわからないのだが、そこに「肉」があるということ、これがセックス。「肉(体)」ぬきのセックスというのはない。
岬の「肉体」が覚えている「肉」が「色」となって吹きこぼれていく。吹きこぼれて、「空気の薄ま」った部分を埋めていく。
*
ジェフリー・アングルス「そして突然」は、田舎(?)から出てきて同居することになった父親のことを書いているのだろうか。
テレビに映し出されている何かの試合(アメリカンフットボール? 野球?)に興奮して父が叫び、踊りだす。それは父の「肉体」が覚えているものが、噴出してきているのだ。刺戟と反応というのは、かならず起きることではなく、覚えているものがないと反応も起きないのだと思う。
で、「肉体」が覚えているものというのは、「個人的」な記憶ではない。「個人」という概念は、「頭」が便宜上つくりだした方便にすぎない。資本主義、合理主義を生き抜くための方便にすぎない。「肉体」は「ひとつ」である。ジェフリー・アングルスはさらりと「遠い原始人」と書いているが、「肉体」は「原始人」の時代をおぼえている。それが「快楽の踊り」となって、いま、噴出している。
「ここ」とはジェフリー・アングルスの住んでいる街、父をつれて帰ってきたジェフリー・アングルスのすみかであろう。「中心的なもの」は「原始人」につながるものということになる。都会には、それはなかなか見あたらない。
それは、しかし、「肉体」のなかにある。それを、ジェフリー・アングルスは父の「快楽の踊り」を見て、思い出している。だから、次のように書く。
この「補う」は「肉体」を耕す、「肉体」を耕しながら、そこに眠っているものを掘り起こし、それをことばにする、詩にするという行為のことだろう。
岬多可子「春の鍋」せ「香りの小片」のうちの一篇。
ひろがる 土と 火の におい。
強(こわ)い精をもつ 山の菜を
よわくよわく ながくながく 煮る。
うとうと とろとろと
火の番をする、
もうろう ぼうばくと
空気の薄まる、
わたくしの この夜の 居場所。
苦い泡立ち、吹きこぼれ。
濡れて、月は やや 肉の色。
アクの強い山菜を煮る。そのときの、におい。においをことばにするのはむずかしい。たぶん嗅覚は原始的なのだと思う。私が知らないだけなのかもしれないが、たとえば聴覚ならアルキメデスが定義(?)していらい、音階がある。数学的法則がある。視覚にしても、三原色の混ぜる割合(数学)で色が決まる。つまり、「頭」で再現できる。けれど、においには、そういうものはない。
においを、どう書くか。
空気の薄まる、
この行がおもしろい。「におい」は空中を漂う。空中を漂うということは、そのとき「空気」のなかに何かがまじり込む。何かがまじりこむと、そのとき「濃度」は高くなる--というのが数学というか、物理というか、まあ、科学の世界だと思うが、岬は逆に書いている。「空気」が「濃くなる」ではなく「薄まる」。
私はいっしゅん、つまずくのだが、たしかにそうかもしれないと思う。
においにひきつけられるとき、においを感じるときは、「におい」が「肉体」のなかに入ってくるととらえるのが一般的だろうけれど、逆に感じるときもある。「肉体」のなからか、何かが誘い出されていく、という感じ。「肉体」が覚えているものが誘い出され、一瞬、自分が希薄になる感じ。
「肉体」から何かが誘い出されるのは、「肉体」のまわりにある空気の濃度が薄く、「肉体」のなかにあるものが濃度が濃いからだ。真空に、空気が吸い出されていく。たとえば、宇宙で、飛行船が壊れたら、内部の空気が真空に噴出する感じ。(宇宙に行ったことはないのだけれど、まあ、そんな感じ。)
煮ている山菜が吹きこぼれる(山菜を煮ている湯が吹きこぼれる)のだけれど、それはまるで「肉体」のなかから何かがこぼれていくようにも見える。
セックスの記憶とかね。
セックスを支配しているのは音(声)とにおいだ。(というようなことを書くと、北川透から、聴覚とセックスを結びつけるのは女性的だ。男性は視覚でセックスをする、と言われそうだが……。でも、たとえばポルノ映画を音なしで見て、興奮する? あるいは、隣の部屋から聴こえてくるせつない声を聞くと、見えなくても興奮しない? と、いつか私は北川に問いかけてみたい--という形でいま問いかけているのだけれど。)
で、ほら。
濡れて、月は やや 肉の色。
においが「肉の色」になる。「肉の色」なんて、それだけではどんな「色」かぜんぜんわからないのだが、そこに「肉」があるということ、これがセックス。「肉(体)」ぬきのセックスというのはない。
岬の「肉体」が覚えている「肉」が「色」となって吹きこぼれていく。吹きこぼれて、「空気の薄ま」った部分を埋めていく。
*
ジェフリー・アングルス「そして突然」は、田舎(?)から出てきて同居することになった父親のことを書いているのだろうか。
父は立ち止まり
テレビの試合に向かって叫んでいる
初めて生まれてきたように
力強く手を振り回し
私とも 誰とも関係のない
快楽の踊りをする
遠い時代の原始人
きっとこうだった
テレビに映し出されている何かの試合(アメリカンフットボール? 野球?)に興奮して父が叫び、踊りだす。それは父の「肉体」が覚えているものが、噴出してきているのだ。刺戟と反応というのは、かならず起きることではなく、覚えているものがないと反応も起きないのだと思う。
で、「肉体」が覚えているものというのは、「個人的」な記憶ではない。「個人」という概念は、「頭」が便宜上つくりだした方便にすぎない。資本主義、合理主義を生き抜くための方便にすぎない。「肉体」は「ひとつ」である。ジェフリー・アングルスはさらりと「遠い原始人」と書いているが、「肉体」は「原始人」の時代をおぼえている。それが「快楽の踊り」となって、いま、噴出している。
ここには
危険に脅える空も
野生に溢れる野原も
反乱する子供の声もない
何か中心的なものは
ここから失われている
「ここ」とはジェフリー・アングルスの住んでいる街、父をつれて帰ってきたジェフリー・アングルスのすみかであろう。「中心的なもの」は「原始人」につながるものということになる。都会には、それはなかなか見あたらない。
それは、しかし、「肉体」のなかにある。それを、ジェフリー・アングルスは父の「快楽の踊り」を見て、思い出している。だから、次のように書く。
私は 一生
それを補おうとする
この「補う」は「肉体」を耕す、「肉体」を耕しながら、そこに眠っているものを掘り起こし、それをことばにする、詩にするという行為のことだろう。
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