詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河江伊久「藁のなかの水」

2013-07-05 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
河江伊久「藁のなかの水」(「ヒーメロス」24、2013年06月30日発行)

 河江伊久「藁のなかの水」はタイトルがかわっている。何のことかタイトルだけでは想像がつかない。そのうえ、

 水はwater
 ワラーと発音する

 突然、奇妙なはじまり方をする。
 あ、「奇跡のひと」のヘレン・ケラーみたい。でも、私は藁は「wala」ではなく「wara」と発音するなあ……という余分なことを考えていると。

 どこまで叩けば強い藁になるのか。叩いて叩いて叩く。
 自分の打つ木槌の音を聞いているうちに、木槌を打っているわたしがいつの間
にか木槌に打たれている。わたしのなかの何かがいたい。叩くことに集中すれば
いたみも忘れられるだろうか。
 藁を揉む。揉むという行為には、なぜか疚しい思いがよぎるものだ。
 藁を引っ張る。宇宙の果てまで引っ張るように引っ張る。
 藁を捩る。よじるのは幼年のわたしにはむずかしいことだった。濡れたハンカ
チを捩るのは、水という液体をよじることだったから。
 藁を編む。長さの足りない分を補いながら一本の縄を編む。どれほどの長さの
縄がわたしに必要なのか。無心に打たなければこの藁で縄は綯えない。思いをこ
めなければ重力に耐えられる縄にならない。

 いつの間にか、縄をなう話になっている。この奇妙な展開は奇妙としか言いようがないのだけれど、きのう読んだ稲川方人の作品に比べると、はるかに楽しい。書かれている「動詞」のねじれ方が、とても肉体的である。というか、私の肉体がおぼえていることと重なり、動くからである。
 私は実は縄がうまくなえない。手でなうよりも先に機械でなうことをおぼえたせいである。らっぱのような両方の口に藁を差し込み、ペダルを踏むと藁がよじれあって縄になって出てくるという便利な機械がこどものころにあったので、それで縄をなうのが私の仕事だった。手ではなわない。
 でも、手順は知っている。藁を叩くのは藁をやわらかくするためである。その方が縄がないやすい。それから縄を揉んで、引き延ばして、ようやく捩じって縄をないはじめる。この手順のなかに、河江は不思議な体験(肉体の記憶)を挟み込む。

      よじるのは幼年のわたしにはむずかしいことだった。濡れたハンカ
チを捩るのは、水という液体をよじることだったから。

 縄をよる(縄をなう)という動きは「捩じる」とは少し違うのだけれど、たしかになった縄の形はハンカチを捩じった形に似ていないことはない。こぶが捩れながら引き延ばされる。水を搾る(雑巾を絞る)ときは、たしかに布を捩じる。ふーん、河江は縄をなうことをハンカチを捩じる肉体の動きと重ねているのか。濡れたハンカチを捩じるとたしかに水が絞り出される。--もしかすると、縄のない方をならうとき「雑巾を絞るような気持ちで(要領で、あんばいで)」と習ったのかもしれない。水を含んだ布を絞るときは、拳を上下に積み重ねるようにして、そこで左手と右手を逆回転させる。縄をなうときは手のひらをあわせて、その手のひらをやや斜めの方向に逆向きにすり合わせる形をとるが、そうか、この動きと雑巾を絞るときの動きはどこかでつながっているのか……。
 はっきりと、こういう力のあんばいが(動かし方が)共通していると私は指摘できないのだけれど、なぜか、河江が縄をないながら、濡れたハンカチを絞ることを思い出している姿が、私の「肉体」のなかにくっきりと刻み込まれる。そして、そのハンカチから絞り出される水が、ねじれたハンカチのまわりでうっすらと浮かび上がる感じが、水の気持ちで思い出されてしまう。
 縄をなうことと、濡れたハンカチを絞ることは、私にとってはなんの共通点もなかったことがらだけれど、河江のことばをとおして、その瞬間につながってしまう。「捩じる/よじる」という動詞が、それを結びつけてしまう。「捩じる/よじる」は、私にとっては「区別」がない。どこかで「ひとつ」になっている。
 さらに「捩じれる/よじれる」という具合に受け身(?)にしてみると、それはなわれる藁と絞られるハンカチの形となって重なる。ハンカチは1枚、縄の藁は最低2本(複数)と出発点が違うのだけれど、捩じれあった形が似ているために重なる。
 かけ離れたものの突然の出会いが「現代芸術」の「詩」の形だとすれば、縄とハンカチの出会いも、また、そのかけ離れたものの出会いということになるのかもしれない。で、そのとき、おもしろいなあ、と思わずにいられないのが、河江の場合の「出会い」には「概念」の衝突はない。概念の衝突が火花を散らして、それが頭を錯乱させ、一瞬の美の誕生を告げるというのではないということだ。ほんとうは違うのに、肉体のなかには何か似通った動きがあって、それが違うふたつを近づけてしまう。衝突というよりにじりよって、なじんでしまう、ねんごろになる--という出会いなのだ。
 その出会いのなかで、河江は河江の肉体を確かめている。肉体がおぼえていることをじっくりとみつめている。
 その感じが、しぼったハンカチの表面に浮いてくる水のように、何かをしっとりと輝かせる。ことばをしっとりと落ち着いたものにさせる。
 思えば、藁を叩くというのは硬い繊維を破壊してよじりやすくするための準備なのだが、硬い繊維が破壊されるとき、そのなかに残っている水分がじわりと滲み出てくるということがあるのかもしれない。叩かれ、揉まれた藁というのはしんなりしていて、そのしんなりのなかにはたしかに水が感じられる。--そういうことも、私は思い出した。


小春日和の庭で―河江伊久短説集 (短説双書)
河江伊久
短説の会
コメント (1)
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