藤維夫「SEED あとがき」(「SEED」32、2013年07月01日)
藤維夫の個人誌「SEED」を読んで、不思議な気持ちになった。詩は完結していて、とても完成度が高い。ことばを読んだという感じはしっかり残るのだが、そのことばの中へもう一度入って行ってみたいかと問われると悩んでしまう。読むというより、見ているだけでいいかな、と思ってしまう。一定の距離をおいて、絵画をながめるようにながめて、ああ、美しいなあ、と言ってしまうと、それ以後なかなか感想がつづかないのである。
「あとがき」は、詩なのかどうかわからないが、行分けのスタイルで書かれている。このことばは、ながめる、というよりも踏みわけて入っていかないと動かない感じがあって、それがおもしろい。
藤の肉体(意識?)のなかには、きちんとした「論理」があるのかもしれないけれど、その「きちんとした」が私にはよくわからない。
チェロを聞きながら「耳という肉体を感じている」と藤は書いているが、まず、この書き出しから私は実はわからないのである。私は音楽を聞くとき、ふつうは「耳」を感じない。以前、ゴンサロ・ルバルカバのピアノ(ジャズ)を聞いたとき「あまりにはやくて耳がついていかない」と書いたことがあるが、このときだって、耳を感じていない。音はたしかに耳から入ってくるのだけれど、「入ってくる」は「方便」だね。耳と音はいっしょにある。音が耳であり、耳が音なのだ。だから、ルバルカバの音に耳がついていかなかったというのは、耳ではない肉体が耳についていけなかったということである。私はピアノを弾くわけではないが、ルバルカバの扇風機のようにまわる指を見ながら音を聞いていると、目と耳がちぐはぐになる。指と音がちぐはぐになる。一致しない。そして、体の奥のどこかが駆り立てられるような感じになる。それを「耳が追いついていかない」と「方便」でいうだけである。
もちろん、肉体のあり方というのは個人個人違うのだから、私と藤が「耳と肉体」の関係に対して同じことを考える必要はない。でも、それが違うと感じたとき、そこに「裸の肉体」を見たような、ちょっと悩ましい気持ちになるのである。藤の肉体はどう動いているのかな? 見る必要はないのだけれど、それを見てみたい。外から見るのではなく、内部から見てみたい、という欲望にとらわれる。言い換えると、セックスしてみたい、ということになる。
で、
このことばは、「学校文法」的には正しい? 「流通言語」として「合理的」(資本主義的)に動いている?
「没入する」と「一体感」は「ひとつ」のことがらであると思う。藤は、それを「一体感に近い距離」とちょっと引き離すようにしてみつめながら、同時に「すばらしい」とも定義しているのだが、その「(音楽への)没入=一体感」を「時間の重さ」の「一体感」と言いなおすことで、「音楽=時間の重さ」という「数学」的な解答(?)を出し、それにつづけて、「一体感」を「微妙な陶酔感」とも結びつける。
正確にはわからないのだが(他人の思っていることだから、いつだって「正確に」わかるということはないのだけれど)、藤の「肉体」のなかで、「論理」になりきれないものが動いていると感じる。この「感じる」が、セックス用語でいうと「わかる」なのであるけれど。--言いなおすと、藤の書いていることは、「頭=論理」では、なにか飛躍と断絶を含んでいて「わかる」とは言えないのだけれど、音楽に没入する、音楽と一体感を感じる、時間の重さと一体感を感じる、陶酔感にひたる--ということがらは藤にとっては重なり合うものなのだということを「感じる」。「わからない」けれど「感じる」ので、その「感じる」方向に向かって、動いて行ってみたいなあ、という気持ちにさせられる。ここを分け入っていけば、もっと何かを「感じる」はず--この、「感じる」ために「分け入る」というのが、私の用語では「セックス」ということなのだけれど。
で、分け入ってゆきながら、何かがじゃましているなあ。ここのところをうまくつつけば、反応がかわるかなあ、という「感じ」を抱くのが、「時間の重さ」。「時間」って「重さ」がある? 「頭=論理」では、ちょっとわからない。「肉体」でもよくわからないけれど、そうか、藤は「時間=重さ」と感じているのか--という「意識」が実は、私の「肉体」をじゃましている。藤には、それがじゃまになっていない。だから、藤は、そのことばを平気で動かしている。「時間=重さ」というのは、私の肉体と藤の肉体のあいだにあってセックスをじゃまする「貞操帯」のようなものだね。「時間=重さ」ととらえることで、藤は「音楽」に対する何かを「守っている」。「音楽」を藤の個別のものにしようとしている。
そんなことを思っていると、
という「攻撃」「防禦」ということばも出てくる。
詩のなかで、藤はことばと「一体」になりながら、攻撃したり防禦したりしている。世界と「セックス」している。そうし気がついたら「朝」だったり「深夜」だったりする。「陶酔感」のなかで「時間」はすぎていくのかな? そのとき、「時間=重さ」。うーん、わからない。わからないのだけれど、
「輪廻」か……。別なことばで言いなおせば、「生まれ変わり」? そこには「時間」があるね。「時間」がなければ「生まれ変わる」ということは、ない。「輪廻」はない。けれど、もし、「生まれ変わり」、そこから新しいいのちがはじまるとき「経験=時間」はどうなるのかな? 過去の時間といまの時間は何を中心にしてつながるのかな? 「一体」になっているのかな? 「一体」になっているとしたら、それでも「過去」と「いま」は別の時間?
ここにも分け入っていかないとつかみきれないものがたくさんある。
さらに、
「輪廻」「一体感」から「快楽」への移行。飛躍。これを藤は「転調」という「音楽用語」で語っている。メロディーラインは同じ。けれども、「調」が違う。
「転調」は「耳」の「場」で起きる。けれど、それは「耳」という「肉体」だけで起きるのかどうかは、私にはわからない。
書いていて、だんだんめんどうになってきたので端折ってしまうが……。
この「あとがき」のなかでは、いくつかのことばが「転調」して、それが転調するたびに「見かけ」がまったく別のことばになっている。「比喩」になっている。しかしそれは「比喩」なのだから、ほんとうはどこかで「ひとつ」につながっている。「ひとつ」につなぐものがある。「没入」「一体感」「陶酔感」「快楽」、「一体化」「一体化」、「(近い)距離」「時間の重さ」、「攻撃」「防禦」--このことばは、「頭=論理」でつかもうとすると、ぜんぜんわからないなる。わからないまま「感じる」力で一気におさえ、それこそ「感じる」しかないのだ。あるいは、「わからない」から、「感じる」のかもしれない。「わかる」と「感じない」かもしれない。「あ、これはいつものパターンか」という「セックス」の感想と比較すると、つたわりやすいかもしれない。
「わかる」ことではなく、「わからない」ことをしたい。「わからない」のなかへ分け入って、「新しい感じ」のなかで自分でなくなってしまいたい。そういう「感じ」へと、藤のことばは、誘っている。それが、私にはおもしろい。欲望をそそられる。そして、私はその欲望にしたがって書いてきたのだが、このままつづけて行っても藤は絶頂に達しないなあ、私が疲れるだけだなあ、と思って、端折って感想を切り上げるのである。
藤維夫の個人誌「SEED」を読んで、不思議な気持ちになった。詩は完結していて、とても完成度が高い。ことばを読んだという感じはしっかり残るのだが、そのことばの中へもう一度入って行ってみたいかと問われると悩んでしまう。読むというより、見ているだけでいいかな、と思ってしまう。一定の距離をおいて、絵画をながめるようにながめて、ああ、美しいなあ、と言ってしまうと、それ以後なかなか感想がつづかないのである。
「あとがき」は、詩なのかどうかわからないが、行分けのスタイルで書かれている。このことばは、ながめる、というよりも踏みわけて入っていかないと動かない感じがあって、それがおもしろい。
この頃はチェロやピアノのCDにはまってじっと耳という自身の肉体を感じている。
やはりチェロといえばバッハであったりヴェートーベンである。
いま没入するという一体感に近い距離のすばらしさを思ったりしてみると、
時間の重さの一体化にも目覚めてきたのかとある微妙な陶酔感にひたっているのかもしれない。
一方、詩は攻撃なのか防禦なのかはわからないが、気がつくと朝であったり深夜であったり、
輪廻の翼が見えてきて音も光ももちろんことばのすばらしさを実感している。
快楽という転調のなかに溺れる技を裂けて通りすぎることは出来ない。
そんななかふとショパンではなくフォーレの感傷と緊張もいいのではないか。
どのあたりのリズムの坂を登るのか、印象的な変奏の高まりにかえしてまう途絶の恥じらいに会うこともいい。
藤の肉体(意識?)のなかには、きちんとした「論理」があるのかもしれないけれど、その「きちんとした」が私にはよくわからない。
チェロを聞きながら「耳という肉体を感じている」と藤は書いているが、まず、この書き出しから私は実はわからないのである。私は音楽を聞くとき、ふつうは「耳」を感じない。以前、ゴンサロ・ルバルカバのピアノ(ジャズ)を聞いたとき「あまりにはやくて耳がついていかない」と書いたことがあるが、このときだって、耳を感じていない。音はたしかに耳から入ってくるのだけれど、「入ってくる」は「方便」だね。耳と音はいっしょにある。音が耳であり、耳が音なのだ。だから、ルバルカバの音に耳がついていかなかったというのは、耳ではない肉体が耳についていけなかったということである。私はピアノを弾くわけではないが、ルバルカバの扇風機のようにまわる指を見ながら音を聞いていると、目と耳がちぐはぐになる。指と音がちぐはぐになる。一致しない。そして、体の奥のどこかが駆り立てられるような感じになる。それを「耳が追いついていかない」と「方便」でいうだけである。
もちろん、肉体のあり方というのは個人個人違うのだから、私と藤が「耳と肉体」の関係に対して同じことを考える必要はない。でも、それが違うと感じたとき、そこに「裸の肉体」を見たような、ちょっと悩ましい気持ちになるのである。藤の肉体はどう動いているのかな? 見る必要はないのだけれど、それを見てみたい。外から見るのではなく、内部から見てみたい、という欲望にとらわれる。言い換えると、セックスしてみたい、ということになる。
で、
いま没入するという一体感に近い距離のすばらしさを思ったりしてみると、
時間の重さの一体化にも目覚めてきたのかとある微妙な陶酔感にひたっているのかもしれない。
このことばは、「学校文法」的には正しい? 「流通言語」として「合理的」(資本主義的)に動いている?
「没入する」と「一体感」は「ひとつ」のことがらであると思う。藤は、それを「一体感に近い距離」とちょっと引き離すようにしてみつめながら、同時に「すばらしい」とも定義しているのだが、その「(音楽への)没入=一体感」を「時間の重さ」の「一体感」と言いなおすことで、「音楽=時間の重さ」という「数学」的な解答(?)を出し、それにつづけて、「一体感」を「微妙な陶酔感」とも結びつける。
正確にはわからないのだが(他人の思っていることだから、いつだって「正確に」わかるということはないのだけれど)、藤の「肉体」のなかで、「論理」になりきれないものが動いていると感じる。この「感じる」が、セックス用語でいうと「わかる」なのであるけれど。--言いなおすと、藤の書いていることは、「頭=論理」では、なにか飛躍と断絶を含んでいて「わかる」とは言えないのだけれど、音楽に没入する、音楽と一体感を感じる、時間の重さと一体感を感じる、陶酔感にひたる--ということがらは藤にとっては重なり合うものなのだということを「感じる」。「わからない」けれど「感じる」ので、その「感じる」方向に向かって、動いて行ってみたいなあ、という気持ちにさせられる。ここを分け入っていけば、もっと何かを「感じる」はず--この、「感じる」ために「分け入る」というのが、私の用語では「セックス」ということなのだけれど。
で、分け入ってゆきながら、何かがじゃましているなあ。ここのところをうまくつつけば、反応がかわるかなあ、という「感じ」を抱くのが、「時間の重さ」。「時間」って「重さ」がある? 「頭=論理」では、ちょっとわからない。「肉体」でもよくわからないけれど、そうか、藤は「時間=重さ」と感じているのか--という「意識」が実は、私の「肉体」をじゃましている。藤には、それがじゃまになっていない。だから、藤は、そのことばを平気で動かしている。「時間=重さ」というのは、私の肉体と藤の肉体のあいだにあってセックスをじゃまする「貞操帯」のようなものだね。「時間=重さ」ととらえることで、藤は「音楽」に対する何かを「守っている」。「音楽」を藤の個別のものにしようとしている。
そんなことを思っていると、
詩は攻撃なのか防禦なのかはわからないが
という「攻撃」「防禦」ということばも出てくる。
詩のなかで、藤はことばと「一体」になりながら、攻撃したり防禦したりしている。世界と「セックス」している。そうし気がついたら「朝」だったり「深夜」だったりする。「陶酔感」のなかで「時間」はすぎていくのかな? そのとき、「時間=重さ」。うーん、わからない。わからないのだけれど、
輪廻の翼が見えてきて
「輪廻」か……。別なことばで言いなおせば、「生まれ変わり」? そこには「時間」があるね。「時間」がなければ「生まれ変わる」ということは、ない。「輪廻」はない。けれど、もし、「生まれ変わり」、そこから新しいいのちがはじまるとき「経験=時間」はどうなるのかな? 過去の時間といまの時間は何を中心にしてつながるのかな? 「一体」になっているのかな? 「一体」になっているとしたら、それでも「過去」と「いま」は別の時間?
ここにも分け入っていかないとつかみきれないものがたくさんある。
さらに、
快楽という転調のなかに溺れる技を裂けて通りすぎることは出来ない。
「輪廻」「一体感」から「快楽」への移行。飛躍。これを藤は「転調」という「音楽用語」で語っている。メロディーラインは同じ。けれども、「調」が違う。
「転調」は「耳」の「場」で起きる。けれど、それは「耳」という「肉体」だけで起きるのかどうかは、私にはわからない。
書いていて、だんだんめんどうになってきたので端折ってしまうが……。
この「あとがき」のなかでは、いくつかのことばが「転調」して、それが転調するたびに「見かけ」がまったく別のことばになっている。「比喩」になっている。しかしそれは「比喩」なのだから、ほんとうはどこかで「ひとつ」につながっている。「ひとつ」につなぐものがある。「没入」「一体感」「陶酔感」「快楽」、「一体化」「一体化」、「(近い)距離」「時間の重さ」、「攻撃」「防禦」--このことばは、「頭=論理」でつかもうとすると、ぜんぜんわからないなる。わからないまま「感じる」力で一気におさえ、それこそ「感じる」しかないのだ。あるいは、「わからない」から、「感じる」のかもしれない。「わかる」と「感じない」かもしれない。「あ、これはいつものパターンか」という「セックス」の感想と比較すると、つたわりやすいかもしれない。
「わかる」ことではなく、「わからない」ことをしたい。「わからない」のなかへ分け入って、「新しい感じ」のなかで自分でなくなってしまいたい。そういう「感じ」へと、藤のことばは、誘っている。それが、私にはおもしろい。欲望をそそられる。そして、私はその欲望にしたがって書いてきたのだが、このままつづけて行っても藤は絶頂に達しないなあ、私が疲れるだけだなあ、と思って、端折って感想を切り上げるのである。
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