吉田広行『Chaos/遺作』(思潮社、2013年07月15日発行)
吉田広行『Chaos/遺作』は具体的なことばと抽象的なことばが拮抗する。
巻頭の「長く折りたたまれた一枚の詩、のように」の書き出し。
何が書いてあるか、私にはさっぱりわからないが、ことばが何らかの「意思」によって制御されているのを感じる。その制御のなかに、吉田の感じる詩があるということは予想できるが、何が書いてあるかわからないことにかわりはない。。
わかる(感じる/予想できる)のはことばが「現実」とかみあっているというよりは「文学」とかみあっている、ことばの「出所」は「文学」であるということだ。吉田がことばを制御しているというより、「文学」が吉田のことばを制御していると言い換えても言い。
逸脱していく感じがしない。
それは書き出しの「破船」の登場に強く感じる。どこで見たの? その「見た」肉眼の感覚がどうもつたわってこないのである。肉眼の感覚はつたわってこないが、「破船」ということばがもっているイメージから「分散」はまっすぐにつながる。破船がもしもういちどそのまま航海に出ることがあったとしたら、それは海の直中でいくつもの破片に砕かれ、「分散」して漂うだろう。そういうイメージ。「文学」で読んで知ったイメージ。私は肉眼で、海の上にちらばる破船の断片を見たことがない。
このイメージから「一行の圧縮」(破船ではない、船の完成した姿)ではなく「無数(の分散)」「カオス」の「枝葉(分散)」もつながっていく。これは「文学」であるどうじに、「論理」、ものごとの必然であり、その展開は「容易」である。
問題があるとすれば、それが「容易」であること。「容易」ということは、それが「流通言語の運動」(定型化された運動)ということである。繰り返しになるが、いま私が書いたことは私の体験(肉体)を基本にしていない。本のなかで読んで知っていることがらを簡便につないだものである。それは「流通」する「論理」の運動であり、私はそういう運動を「流通」するものとして知っていて、それをここで「流通」させているだけである。
吉田が論理思考が強いことばの運動を本気で書くのなら、「破船」ではなく「破線(点線)」と、いっそうのこと「抽象的」にしてしまえばよかったのにとも思う。「実線」が「破線」になり、それが分散し、いっそうばらばらになり、線以前の「点」になってしまうという運動のなかでことばを動かせばいいのに。
吉田はことばをどの領域で動かしていいのか、まだ決めかねているのかもしれない。抽象的な領域で、抽象的な存在だけを利用してことばを動かすと、それは詩ではなくて、哲学(概念)になってしまうのではないかと恐れているのかもしれない。
しかし、そういうことはないだろう、と思う。
ことばはどんな領域でも動く。動けば、そこに詩が生まれることもあれば、哲学が生まれることもある。
そして、その詩と哲学を比べたら、実は哲学の方が簡単である。なぜかというと、哲学は一種の「論理」でできており、「論理」というものは、ことばをつないでゆけば、そこに必然的にあらわれてしまうものだからである。論理という共有できるものをめざして、ことばは動いてしまう。ことばは共有を前提として流通しているから、どうしてもその「流通しているものに、どこかで押し切られてしまうのである。
大胆に言い換えると、だから、「論理」というものなど、信頼に値しない。人はだれかをだまそうと思ったら、かならず「論理」を利用する。 100万円投資すれば1年ごとに10万円の配当があり、10年後に 100万円の利益がでます、という具合にはじまり、「憲法が時代にあわないと感じているひとが過半数を超えているのに、国会では三分の二の賛成がないと変えられない、というのは国民の意思を無視している。変えなければならない」とか。(安倍の主張は、憲法論議がどういう形で行なわれているか、国民の「過半数」というときの「過半数」はどういう状態の反映であるかを無視している。簡単に言うと、国民はたとえば 100人ずつのグループにわかれ、憲法改正について何か月も討議し、反対意見にも耳を傾け、グループの構成要員を入れ換えてさらに何か月も討議し、そのあとで「改正」という意識をもったのか、そうではなく自民党のばらまいている主張だけを読んでそう思ったのか--そういうことが検討されていない。ひとは面倒くさがり屋だから、大声で言われていることばになびいてしまう。)
私はほとんど毎日、このブログで「日記」を書いている。そしてそれは散文の形をとっている。そして書けば書くほど、「論理」というものはいいかげんだと思う。どうにでも書ける--というと大げさだが、原稿用紙に換算して8枚から12枚程度書けば、どうしたって「論理」めいたものは生まれてくる。
それは私の「意図」とは関係がない。
私はもともと「結論」を想定して書くのではないので、だからこんなふうに逸脱するのだが、こういう逸脱すら、最後には「結論」に収斂する形で読みとられてしまう。そういう「罠」がことばにはある。
詩にもどろう。詩のつづきを読もう。
カオスだからこそ、予感があり、予感には祈りもある。
それを「素粒子の乱れ」あるいは「神経接合」という現実離れしたもの(現実には認識できないもの--肉眼では確認されないが、論理的に証明されているもの)とむすびつけるところに吉田の個性(詐欺のテクニック、レトリックの基本)があるのだけれど、ここでも「冬の灯火」「透きとおってゆく」が、どうも「破船」とおなじようにロマンチックで、じゃまくさい。
「素粒子の乱れ」「神経接合」というような、非日常の「論理」をもっと活用して、そのことばだけで嘘のなかに逸脱していけば、そこにまったくあたらしい詩が生まれてくると思うのだが、--そんなことをすると、実際に「素粒子の乱れ」とか「神経接合」ということばをつかっている領域から批判されそう(否定されそう--そういう意味ではないと反論がきそう)と思っているのかもしれない。そういう点では「論理」を利用しながらも、「論理」を信じていないのかもしれない。
途中を省略するが、
というようなロマンチックの頂点のような行と、
というようなことばは、私には、嘘を語るには、無理があると思う。もし、そういうロマンチック、センチメンタルなことばと非日常の論理的なことばを融合し、そこで誰も書かなかった詩を展開するのなら、異質なものを出合わせればそこに詩があるという「現代詩」の基本哲学を棄てて、別なところからことばを動かさないといけないのではないかと思う。
「手術台の上のミシンとこうもり傘」さえ、「異質」とはいえ、誰ものか「日常の目」で見たもの(見るもの)にすぎない。「日常の論理」から見て「異質なもの」が出合う--つまり「日常の論理」という基本があって、それは「演出」されている。「わざと」つくりだされている。
吉田広行『Chaos/遺作』は具体的なことばと抽象的なことばが拮抗する。
巻頭の「長く折りたたまれた一枚の詩、のように」の書き出し。
時間はひとつの破船である
これからのぼくらはもうゆるやかな分散にむかって進んでゆくだけだ
ろう一行の圧縮ではなく無数の
カオスの枝葉となって終わるだろう
何が書いてあるか、私にはさっぱりわからないが、ことばが何らかの「意思」によって制御されているのを感じる。その制御のなかに、吉田の感じる詩があるということは予想できるが、何が書いてあるかわからないことにかわりはない。。
わかる(感じる/予想できる)のはことばが「現実」とかみあっているというよりは「文学」とかみあっている、ことばの「出所」は「文学」であるということだ。吉田がことばを制御しているというより、「文学」が吉田のことばを制御していると言い換えても言い。
逸脱していく感じがしない。
それは書き出しの「破船」の登場に強く感じる。どこで見たの? その「見た」肉眼の感覚がどうもつたわってこないのである。肉眼の感覚はつたわってこないが、「破船」ということばがもっているイメージから「分散」はまっすぐにつながる。破船がもしもういちどそのまま航海に出ることがあったとしたら、それは海の直中でいくつもの破片に砕かれ、「分散」して漂うだろう。そういうイメージ。「文学」で読んで知ったイメージ。私は肉眼で、海の上にちらばる破船の断片を見たことがない。
このイメージから「一行の圧縮」(破船ではない、船の完成した姿)ではなく「無数(の分散)」「カオス」の「枝葉(分散)」もつながっていく。これは「文学」であるどうじに、「論理」、ものごとの必然であり、その展開は「容易」である。
問題があるとすれば、それが「容易」であること。「容易」ということは、それが「流通言語の運動」(定型化された運動)ということである。繰り返しになるが、いま私が書いたことは私の体験(肉体)を基本にしていない。本のなかで読んで知っていることがらを簡便につないだものである。それは「流通」する「論理」の運動であり、私はそういう運動を「流通」するものとして知っていて、それをここで「流通」させているだけである。
吉田が論理思考が強いことばの運動を本気で書くのなら、「破船」ではなく「破線(点線)」と、いっそうのこと「抽象的」にしてしまえばよかったのにとも思う。「実線」が「破線」になり、それが分散し、いっそうばらばらになり、線以前の「点」になってしまうという運動のなかでことばを動かせばいいのに。
吉田はことばをどの領域で動かしていいのか、まだ決めかねているのかもしれない。抽象的な領域で、抽象的な存在だけを利用してことばを動かすと、それは詩ではなくて、哲学(概念)になってしまうのではないかと恐れているのかもしれない。
しかし、そういうことはないだろう、と思う。
ことばはどんな領域でも動く。動けば、そこに詩が生まれることもあれば、哲学が生まれることもある。
そして、その詩と哲学を比べたら、実は哲学の方が簡単である。なぜかというと、哲学は一種の「論理」でできており、「論理」というものは、ことばをつないでゆけば、そこに必然的にあらわれてしまうものだからである。論理という共有できるものをめざして、ことばは動いてしまう。ことばは共有を前提として流通しているから、どうしてもその「流通しているものに、どこかで押し切られてしまうのである。
大胆に言い換えると、だから、「論理」というものなど、信頼に値しない。人はだれかをだまそうと思ったら、かならず「論理」を利用する。 100万円投資すれば1年ごとに10万円の配当があり、10年後に 100万円の利益がでます、という具合にはじまり、「憲法が時代にあわないと感じているひとが過半数を超えているのに、国会では三分の二の賛成がないと変えられない、というのは国民の意思を無視している。変えなければならない」とか。(安倍の主張は、憲法論議がどういう形で行なわれているか、国民の「過半数」というときの「過半数」はどういう状態の反映であるかを無視している。簡単に言うと、国民はたとえば 100人ずつのグループにわかれ、憲法改正について何か月も討議し、反対意見にも耳を傾け、グループの構成要員を入れ換えてさらに何か月も討議し、そのあとで「改正」という意識をもったのか、そうではなく自民党のばらまいている主張だけを読んでそう思ったのか--そういうことが検討されていない。ひとは面倒くさがり屋だから、大声で言われていることばになびいてしまう。)
私はほとんど毎日、このブログで「日記」を書いている。そしてそれは散文の形をとっている。そして書けば書くほど、「論理」というものはいいかげんだと思う。どうにでも書ける--というと大げさだが、原稿用紙に換算して8枚から12枚程度書けば、どうしたって「論理」めいたものは生まれてくる。
それは私の「意図」とは関係がない。
私はもともと「結論」を想定して書くのではないので、だからこんなふうに逸脱するのだが、こういう逸脱すら、最後には「結論」に収斂する形で読みとられてしまう。そういう「罠」がことばにはある。
詩にもどろう。詩のつづきを読もう。
これははげしく予感されたひとつの
祈念
あるいはなにか春の
素粒子のみだれのようなものを冬の灯火にうながされて
透きとおってゆく裸眼の
神経接合につながってゆくかもしれない
世界よ!
カオスだからこそ、予感があり、予感には祈りもある。
それを「素粒子の乱れ」あるいは「神経接合」という現実離れしたもの(現実には認識できないもの--肉眼では確認されないが、論理的に証明されているもの)とむすびつけるところに吉田の個性(詐欺のテクニック、レトリックの基本)があるのだけれど、ここでも「冬の灯火」「透きとおってゆく」が、どうも「破船」とおなじようにロマンチックで、じゃまくさい。
「素粒子の乱れ」「神経接合」というような、非日常の「論理」をもっと活用して、そのことばだけで嘘のなかに逸脱していけば、そこにまったくあたらしい詩が生まれてくると思うのだが、--そんなことをすると、実際に「素粒子の乱れ」とか「神経接合」ということばをつかっている領域から批判されそう(否定されそう--そういう意味ではないと反論がきそう)と思っているのかもしれない。そういう点では「論理」を利用しながらも、「論理」を信じていないのかもしれない。
途中を省略するが、
どこにも目当てのない海のさけ目よ
というようなロマンチックの頂点のような行と、
時がいくつもの
重なる層になって駆けてゆくのだった
「亜時間」「準時間」「次時間」そして
純時間順時間
逆時間
というようなことばは、私には、嘘を語るには、無理があると思う。もし、そういうロマンチック、センチメンタルなことばと非日常の論理的なことばを融合し、そこで誰も書かなかった詩を展開するのなら、異質なものを出合わせればそこに詩があるという「現代詩」の基本哲学を棄てて、別なところからことばを動かさないといけないのではないかと思う。
「手術台の上のミシンとこうもり傘」さえ、「異質」とはいえ、誰ものか「日常の目」で見たもの(見るもの)にすぎない。「日常の論理」から見て「異質なもの」が出合う--つまり「日常の論理」という基本があって、それは「演出」されている。「わざと」つくりだされている。
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