詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

陶山エリ「漂流関係」、田島安江「アオウミガメの産卵」

2013-07-24 23:59:59 | 現代詩講座
陶山エリ「漂流関係」、田島安江「アオウミガメの産卵」(「現代詩講座」@ブックカフェ、2013年07月24日)

 陶山エリ「漂流関係」は、ことばが途中で思いがけない展開をする。いつも相互批評では好評である。

ピュレとは、果物や野菜などを擦り潰して裏ごししたものです
一度も作ったことがないけれど
ピュレって何?と尋ねられたら説明できる

例えばイチゴやキウイの果肉が裏ごし器の網目を通過して
固体とも液体とも呼べない表情になって垂れてゆく
残された粒々は過去なのか思い出なのか低く重く
知り尽くしたような余裕を漂わせる

タクシーの運転手はさっきから花の話ばかりさるすべり ききょう すいれん はなみずき
「そこここで見かけましたよ」
昔恋人に出しそびれた手紙の下書きでもしているのだろうか
月の角膜が濁り始める夜は運転手の袖口が汚れやすい

少しずつ、ずれていく花の匂いを
湿度に似合った速度でずれながら
シートベルトをじゅるんとすり抜け
もっと
車を降りたら冷蔵庫を開けたら夜の海だったらもっと
繊細な網目を

ピュレとは果物や野菜や一般人をすり潰したものです
裏ごししたものです
説明したくてわたしは垂れ続けます

<受講生1>すごい。エロチックに読もうとすればエロチックに読める。
      ことばが生き生きしている。
<受講生2>すごいとしか言いようがない。
      出てくるものの関係がミスマッチなのに、融合している。
      「残された粒々」の行、ことばがどこから出てくるのかわからない。
      観念が固まる前のことば詰めている。
<陶山>  なんとなく出てくる。ピュレを説明してみたかった。
      タイトルに迷った。
<受講生1>4連目が「漂流」感覚をあらわしていて、とてもいい。
      「もっと」がとてもいい感じ。
<受講生3>3連目が異質。ことばが新鮮。
<受講生4>3連目に全体が収斂していく。起承転結の「転」みたい。
      「月の角膜」の一行がとくにいい。
<陶山>  入れていいかどうか、迷った。
<受講生2>最終連の「一般人」というのもいいなあ。
<受講生1>「人間」だったら違ってくる。生々しくなってしまう。
<受講生2>3連目の「花の話ばかりさるすべり」は音楽的でとてもいい。
      4連目の「ずれていく」もおもしろい。
      「湿度に似合った速度でずれながら」はおもしろい。
<受講生1>「わたしは垂れ続けます」の「垂れる」もいい。

 「ピュレ」の説明と、人間に対する思いが融合して、そこがおもしろい作品。相互批評のなかでも出てきたが、3連目が起承転結の「転」のような役割を果たしている。
 実際のピュレは果物、野菜を磨り潰してつくるが、それとは関係のない「人間」が出てきて、その「果肉」のようなものが語られている。タクシー運転手の「中身」(意味?)は運転することではなく、花の話をすること。花の話をすることについては運転手自身の「内面」のこだわりがあるのだろうけれど、それは陶山にはわからない。わからないまま、運転手は恋人のことでも考えているのではないか、と想像する。それから運転手のシャツの袖口が汚れているのに気がつく。人には人の生活があり、それが滲み出る。
 それは4連目のことばを借りて言えば「ずれ」かもしれない。人間は同じようにできているようで、同じではない。「ずれ」がある。それは陶山にもあるだろう。果物、野菜の違いは、もしかすると「人間のずれ」のようなものかもしれない。
 その「ずれ」はみんなかき集めて、ピュレをつくるときのように、磨り潰し、裏ごししたらどうなるだろう。ピュレには「一般人」の「ずれ」も含まれている。--これは、たとえば、つくる人の野菜・果物の選択の違いというものになってあらわれるかもしれない。ピュレと一口に言っても、そこには「ずれ(人間の暮らしの反映)」が含まれている。
 そんなふうに説明してみたい--ということになるのかもしれない。

 詩を書くというのは、書く前と書いたあとで、書いた人が変わっているというのがいちばんおもしろいところ。書いたあと変わってしまうのがほんとうの詩人だと思う。
 この詩では、「わたし」は1連目で「ピュレについて尋ねられたら説明できる」という状態だった。けれど、書いている内に「ピュレについて説明したい」と思うようになっている。自発的に何か語りたいと思うようになっている。そこに変化がある。
 それは1連目でピュレを「擦り潰して裏ごしにしたもの」と言っていたのが、最終連で「すり潰したものです/裏ごししたものです」という同じといえば同じだけれど、微妙に違うことばの形になっているところにもあらわれている。
 この変化は3連目のタクシーの運転手との会話からはじまっている。そして、この「人」を最終連で取り込んでピュレそのものをも変質させている。ピュレとは果物、野菜だけでできているのではなく、そこには「一般人」(この言い方は、私にはよくわからないが)も混じっている。人間がまじっていてこそ、ピュレなのだ。その発見がおもしろい。発見があるから、語りたくてしようがないのだ。
 ただ、タイトルは、私にはよくわからない。「余裕を漂わせる」「夜の海だったら」ということばのなかに「漂流」が含まれるかもしれないけれど、陶山が書いていることは「漂流」というよりは、人間をしっかり見ることによって生まれた意識の変化だと思う。
 私だったらタイトルを「ピュレ」にする。



 田島安江「アオウミガメの産卵」は、アオウミガメの産卵を見たときのことを書いている。産卵を見ながら、それに田島のなかの女を(それをみつめる男を)重ね合わせて書いている。その部分もいいのだが、

月のない夜
南島の海岸を
アオウミガメが産卵にのぼっていく
カメは自分の体より大きい穴を掘って地中深く産卵する
産卵を終えると重いからだをひきずって
迎えの波を待って海に帰っていく

 書き出しの、この「迎えの波」が私にはとてもすばらしい発見に感じられた。波は単なる自然現象である。干満は引力による物理の運動である。そこには「意思/感情」というものはない--はずなのだけれど、そこに田島は「迎えの」という人間的な動詞をつけくわえている。このとき田島は波になって、産卵を終えたウミガメを海へとまねいている。仕事を終えたよ、帰っておいで、と呼んでいる。さらにウミガメは、それを「待って」帰っていく。もし「迎えの波」がこなかったら、ウミガメは帰っていかないかもしれない。そこには「迎えに来てほしい」という「欲望」もあるかもしれない。
 こういう感覚をもったことばは女性にしか思い浮かばないかもしれない。
 今回は、他の受講生の詩も、すべておもしろかったが、私は、この「迎えの波」ということばに出合えたことがいちばんの収穫だった。
 どんな動詞も「肉体」に関係してくる。動詞を「肉体」で反復しながら、たぶん私たちは「肉体」をととのえる。思想をととのえる。どんな動詞をつかうかを見ることによって、私たちは、その人の「肉体(本能/思想)」に出合うことができる。


トカゲの人―詩集
田島 安江
書肆侃侃房
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする