詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫『宇津の山辺』

2013-07-07 23:59:59 | 詩集
秋山基夫『宇津の山辺』(和光出版、2013年06月01日発行)

 秋山基夫『宇津の山辺』は、「後注」によれば「宗長手記」を脚色したものだそうである。私は不勉強で「宗長手記」を知らない。知らないことは--私は調べない主義である。調べたらわかることがあるけれど、それは単にそういうことが書いてあったとわかるだけで、実際に「宗長手記」を読んだときにわかることとは違うだろうから、あまり意味はない。それよりもただ『宇津の山辺』を読むことにする。
 「序」から宗長は連歌師であることがわかる。芭蕉のように旅をして連歌を読んだことがわかる。その旅のはじまり。

辰の刻より雨しきりと降り、
雲津川大水にてからくも渡る。

 この「文体」は美しい。
 こんな比較は間違っていると思うのだが、間違いを経由しないとたどりつけないところもあるので(というより間違いを経由するしかないことばというものもあるので)書くのだが、この「文体」は、きのう読んだ小林稔の「文体」と違って非常にスピードがある。具体的に比較すると、たとえば小林は、

岩が砕け砂になり打ち上げられ浜辺に白い輪郭線を引く。

 と書く。最後の「引く」は簡潔なことばで、ぐいっと迫ってくるが、その前がだらだらと長い。小林に言わせれば、「正確に、克明に」書いているのであって引き延ばしているのではないということかもしれないが。
 もし小林の「文体」で秋山の書いていることを書くとどうなるだろうか。

辰の刻から雨が降りはじめたのだが、それは止むことなく降り続き、
雲津川の水は上流に降った雨も集めて流れてくるので大水になり、
水かさの増えた川を歩いて渡るのはなかなか厳しかったがなんとか渡った。

 くらいになるだろうか。小林本人ではないので、うまく「翻訳」できなかったが、私のいいたいのは、「大水になり」の「なる」。この「なる」はいわば「必然」。雨が降ればお水に「なる」。これは川が暮らしのなかに組み込まれているときはわかりきったこと。だから「無意識」のうちに原因-結果という因果関係は省略され、わざわざ書かない。
 ところが小林は「岩が砕け砂になり」と「なる」という動詞を挟む。それは小林にとっては「必然」ではないのだ。岩が砕け砂になるというのは「自然」そのものにおいては必然であっても小林には必然ではない。だから「なる」を書く。そして、その「なる」をひきずって、その砂が「打ち上げられ浜辺に白い輪郭線を引く」と書くのだが、最後の「引く」は「なる」と言い換えることができる。つまり、

打ち上げられ浜辺に白い輪郭線と「なる」
(打ち上げられて浜辺の輪郭をかたどる白い砂と「なる」)

 「なる」という動詞で時間のはじまりと終わりの枠を完成させるのである。「時間」のなかに「論理」を「結論」にまで突き進めるのである。
 一方、秋山は(やっと、秋山の詩にもどることができたが……)、「なる」をつかわない。雨がしきりと降ると書いた後は、突然「雲津川大水にて」と書く。これは、「雲津川は大水である」という意味になる。
 「なる」ではなく、秋山にとっては、「必然」は「ある」なのだ。変化は「なる」という動詞であらわすけれど、その「なる」は秋山にとっては「ある」と言い換えられるものである。これは次の部分を読むとわかる。

阿野の津は十余年以来荒野となり、
四・五千軒の家・堂塔は跡のみとなり、
浅茅・蓬に埋もれて細屋わずかにあるのみ。

 戦争のためか、大雨(洪水)のためか、私は歴史というものを知らないので、「原因」は省略するが、阿野の津(港?)周辺は十余年以来、荒野と「なっている」。この「なる」はたしかに豊かな街が荒野になったという変化をあらわしているが、荒野になって、それがどうするということではない。それから変化がない。(小林の岩のように、岩が砂になり、砂が浜辺になる、というような連続した変化へと結びついていかない。)
 言い換えると、「荒野となる」は荒野で「ある」なのだ。あれから十四年、阿野の津は荒野で「ある」。同じように、建物は消えはて「跡」のみが「ある」。いまは、かろうじて小屋のようなものがわずかに「ある」。--そして、この最後の「ある」こそが、実は、「なる」でもある。
 戦争のために(と仮定しておく)、街は荒らされ、小屋のようなものが数軒残るだけに「なった」。--この「なった」を「なる」ではなく、「ある」と秋山は書く。
 ほんとうに「なる」と書かなければならないことは、「ある」と書く。
 ここに「無常観」のようなものがある。何かが起きたとしても(何かが何かになったとしても)、それは人間の力ではどうすることもできないものである。それは何かが「なる」ということではなく、生成するということではなく、それが「ある」ということなのだ。無常というのは無常に「なる」のではなく、無常が「ある」のだ。
 雨が降って、川が大水になる。(水かさが増す)。それはそうかもしれないが、そういうことは必然なので「なる」という因果-原因の構図でとらえてもしようがない。「大水がある」と受け入れるしかない。「ある」を受け入れて、できることは「からくも」渡るということ。「からくも」は自分でできることである。

 少しずつ書こうとしていたこととずれていく感じがするのだが、ちょっとひきもどすと。(引き返すと……)
 秋山の、この「なる」と「ある」の区別というか、区別のなさというか--それは日本人の「無常観」とどこかで結びついている。無常によって、すべてを「なる」ではなく、「ある」でとらえる。無常の「ある」に近づいていくために、ことばは動く。「なる」は結局形をかえ、「ある」しか残らない。そういう意識できない「肉体」のようなもの(善哉意識?)と秋山のことばは結びついている。
 無常観というと、「行く川の流れはたえずして、しかももとの水にあらず」を思い出すが、このことばは「意味」としてよりも、何度となく耳でおぼえて「肉体」になっている。そのことばを口にするとき、私たちは(日本人は)、たぶんこれは無常観をあらわしているなどとはいちいち意識しない。無常観をほんとうに意識したのなら、それは他人のことばではなく自分のことばで語るしかないだろうから。ことばにはほんとうに意識してつかうものと、まあ、だいたいこんな感じという部分で通用させるものがあるが、「行く川の」の無常観は、その「だいたい」にあてはまるだろう。
 で。
 こういう「だいたい」の感じが、秋山のことばの奥にある。秋山のことばは、知らず知らずに、古典からいまに通じる「肉体」になっている。そうして、そのような日本語の肉体として「ある」。「なる」を感じさせず、そこに「ある」。
 「なる」ではなく「ある」だから、スピードがあると感じるのだ。そのことばのなかで何かが起きる(何かが、なる)のではなく、それが「ある」。それは絶対手あって変化はしない。


 書きたいことに近づいたのか、遠ざかったのか、またわからなくなるが……。
 突然要約してしまうと、小林の日本語は、何か日本語になろうとしている「論理」のようなもので動いている。日本人の「文体」ではなく、外国の「文体」が日本語になろうとしている感じがする。
 これに対して、秋山の「文体」は日本語で「ある」。私たちが無意識に抱え込んでいるものを、秋山はそのままつかっている。日本語の「文体」がもともと「ある」。それが古典の「文体」と出合う。そして、新しい「ある」がそこに生まれる。それは「なる」というよりも、出合った瞬間に、そうで「ある」ものなのだ。「なる」は起きない。「ある」だけが「ある」。
 今回の詩集は、秋山が秋山の「肉体」のなかに「ある」日本語を訪ね歩いている感じがする。進むにしたがって、その「ある」が見えてくるのだが、その「ある」は同時に私の「肉体」にも「ある」。「ある」と「ある」が合致するので、そのことばは必然的にスムーズに動く、スピードがある、と感じるのかもしれない。


引用詩論
秋山 基夫
思潮社
コメント
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