詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小林稔「タペストリー 2」

2013-07-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
小林稔「タペストリー 2」(「ヒーメロス」24、2013年06月30日発行)

 小林稔のなかで動いているのは「少年(過去)」であろうか、それとも「ことば」であろうか。「過去のことば(読んできたことば)」が「少年」となって「過去」を組み立て直すのだろうか。どのようにも読むことはできるが、「世界」は小林にとっては「ことば」そのものである。「ことば」にすることかできたものが「世界」であって、それ以外に「世界」はない。

神経の枝を伸ばした樹木が横倒れて車窓の額縁から飛び取り、野原は遠方に聳
える尖塔を中心に手前に大きく弧を描いて樹木の跡を追い駆けている。傾きは
じめた太陽が尖塔の縁に架かると一瞬ダイヤモンドの光を放射した。

 これは実際に小林が見た「世界」ではなく、「過去とのことば」をよみがえらせることで、「過去のことば」によって整えた「世界」である。「世界」に触れることで「過去のことば」を整理し直し、「いま/ここ」に近づくというより、「いま/ここ」を手がかりに「過去」へと引き返し、「過去」のなかに「過去の世界」を整え直すという感じ。小林は現在を書いているつもりかもしれないが、私には過去に見える。
 私のことばではうまく説明できないが、そこにあるのは「いまの世界」でも「過去の世界」でもなく、「過去のことばによって整えられた、過去の世界」、二重化された「過去」ともいうべき世界である。
 「いまの世界」を「いまのことば」によって二重化し、その二重化によって「いまの世界」そのものを揺さぶる、同時に「いまのことば」の射程も揺さぶるというのが「現代詩」のことばの冒険だとすれば、小林の書いているのは「現代詩」ではない。
 だが、「二重化」ということばと世界の関係を維持することで、「詩」になろうとしている。
 私のいまの書き方は抽象的なので、まあ、何でも言うことができるのだが(つまり、私は何事かをごまかしながら書いていることになるのだが--論理を装って自分の考えが動きだすのを待っていることになるのだが)、こんなことは書いても仕方がない。
 いま引用した部分に引き返して、「傾きはじめた太陽が尖塔の縁に架かると一瞬ダイヤモンドの光を放射した。」というのは古くさい。だからいくら書いても「過去」になってしまう。いまどき太陽の光とそれに拮抗する影の運動を、太陽の光を主語にして「ダイヤモンド」と比喩化するのは、せいぜいが「流通言語」をねじくりまわすことを詩と考えている新聞ジャーナリズム(資本主義ジャーナリズム)くらいである。そういう「比喩」は死んでしまっている。「比喩」を生み出した瞬間の逸脱(エクスタシー)がそこには残っていない。こういうエクスタシーがあったなあ、という記憶も、もはや消えかけている。
 と、ここまで書いてきて、やっと私は小林のことばに触れたような気持ちになる。
 消えかけたことばのエクスタシーの記憶を小林は取り戻そうとしている。そして、そのために、そのことばが「生まれた瞬間」にまで戻り、エクスタシーへの運動を取り戻したいのだ。ことばではなく、エクスタシーにいたる運動を、自分のなかに取り戻したいと感じてことばを動かしているのだ。

岩が砕け砂になり打ちあげられた浜辺に白い輪郭線を引く。洞窟に逃げ込んだ砂
は海底に沈み、太陽の光を内側の岩壁に反射させ、いちめんに青の粒子を撒き散
らす。

 わかります?
 洞窟のある海岸が描写されているのだが、岩が砕けて、その砕けた岩(砂)が岩のまわりに集まるようにして白い輪郭線を描き、それが砂浜となっている--のか、ちょっと書き間違えて(?)、打ち寄せる波の最後の白い泡が砂浜に輪郭線を残しているのかよくわからないが、「岩が砕け砂になり」という「時間」を含んだ運動が小林にとってはとても重要なのである。岩が砕け砂になるというのは大変な時間を必要とする。そこには目には見えない運動がある。時間が長すぎて肉眼ではその運動は見えない。同じように、洞窟のなかにまで逃げ込んだはずの砂も、潮の満ち引きによって海にひきもどされ、海底に沈んで行くというのにも長い長い時間がかかるので、そんなものは肉眼では見えない。そういう長い時間の運動とをこそ、小林は取り戻したいと願っている。それは想像力のなかで、ことばのなかでだけあらわれる世界手ある。休むことなく、たゆむことなくつづいた運動--そういう持続する運動の力を取り戻したいのである。想像力のなかであらわれる運動の持続する力を、取り戻したい、と感じていると言い換えてもいい。(小林は基本的に「散文」の人間である。小林は詩以外にエッセイを書いているが、過去の著述家のことばのなかにある「運動」そのものを追いかけて、「時間」を、「歴史」を把握する--自分の「肉体」の内部に取り入れるというのが、小林のエッセイ、批評の姿勢として読みとることができる。)
 おもしろいのは。
 その「長い時間」の運動を追いかける運動(運動ばかりが繰り返されてしまうが……)は、それではその力を「いま/このとき」にむけたとき、瞬間をとらえきれなくなるかというとそうではなく、逆に働くことである。長い時間をかけて実現する現実というのは、言い換えれば瞬間瞬間の運動が非常に少ない(小さい)ということである。岩を砕く波、岩が砕けて砂になるというのは小さすぎて見えないが、それを長い時間のなかでとらえ直すと「見える」。その「見える」を基本にして、(見えるから逆算して?)、小林は「岩が砕け砂になる」と言っているのだが、それは、「いま/ここ」をこじ開け、スローモーションのようにして見ることになる。長い時間を微速度カメラでとらえ、再現すると時間の変化を瞬時に見ることができる。それを逆に応用して、高速度カメラで「いま」を撮影しふつうのスピードで再現するとスローモーションになる。「時間の操作」という点では微速度カメラと高速度カメラの「原理」は数学的には同じである。
 で、「太陽の光を内側の岩壁に反射させ、いちめんに青の粒子を撒き散らす。」というような表現も生まれる。太陽が波に反射して洞窟の内部を照らす--というようなことは、ことばでは長い時間がかかるが、実際は、そういうことばの運動を無視して、世界は瞬間的にそういうものを実現している。ことばのような面倒な動きはしない。でも、長い時間をかけて動くものをとらえることばを運動から「方法」のヒントを得て、「いま」をとらえ直すとき、そういうことができる。
 微速度と高速度とは「矛盾」するが、それを「矛盾」と表現するのは合理主義的なことばの運動であって、「肉体」にひきもどせば「速度の変化」というひとつの運動であり、「矛盾」は「符合」にすぎない。「頭」の「整理」の問題(方便)にすぎない。違った速度で現実をみつめ、その違った速度をいまの速度に転換し直すということにかわりはない。「速度の変化」を実行する「主体」にとっては、それは「ひとつ」のことである。(この「主体」を私は「肉体」と呼んでいるのだが、長くなるので省略。)
 で、そういうことが「ひとつ」であるからこそ、小林のことばは次のように動いて行く。

    私があなたと生涯に一度だけ心身を重ねることがあるとすればここだ。
ドルフィンになって泳ぐ二つの身体は青く染められていく。少年時から魅せら
れてきた青。時の残留物を押しのけ生き永らえた私自身の記憶は、水底から流
出する青の光線のなかで紐解かれ、<私>と<あなた>の交換は成就する。

 小林は「過去」と「いま」の「交換」を目指しているのである。「過去のことば」で「過去」を整え直せば、それは「いまのことば」で「いま」を整え直すことと、整え直すという「運動」のなかで「ひとつ」になる。
 --それはほんとうかどうかはわからないが、私には小林の書いていることは「過去形」でしかあらわれてこないが、そうであっても、あるいはそうであるからこそ(?)小林のなかでは「ほんとう」である。小林の「肉体」にとっては「ほんとう」である。小林の関心はこれからうまれることばというよりも「過去」にあることばなのだ。「過去」が「いま」を整えると信じているのだ。

砂の襞
小林 稔
思潮社
コメント
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