詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「こころ」再読(1)

2013-07-28 22:15:55 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(1)

 谷川俊太郎「こころ」(朝日新聞出版、2013年06月30日)は、朝日新聞に連載中に何回か感想を書いた。詩集にまとまってからも感想を書いたのだが、全部の作品についてもう一度少しずつ書いてみる。書いたことの重複になるかもしれないけれど。
 なるべく「意味」にならないように、最初に読んだ気持ちに帰るように。

こころ1

ココロ
こころ

kokoro ほら
文字の形の違いだけでも
あなたのこころは
微妙にゆれる

ゆれるプディング
宇宙へとひらく大空
底なしの泥沼
ダイヤモンドの原石
どんなたとえも
ぴったりの…

心は化けもの?

 あ、私のこころはは文字の違いだけではゆれません。むしろ、文字の違いだけでゆれると書いている谷川の「こころ」に対してゆれる。えっ、谷川って文字の違いだけで何かを感じる? という具合に。
 2連目が「ゆれるプディング」からはじまることがおもしろい。1連目の「ゆれる」を受けているのだが、もし、プディングがゆれなかったら、それでも谷川はプディングが好きだろうか。
 谷川は、きっとゆれるものが好きなんだろう。それから、辛いものよりも甘いものが。つるりとした、やわらかいものが。
 次の宇宙はどうして出てきたのだろうか。プリンと宇宙って似ている? あるいは、対極にある? よくわからない。きっと、「宇宙」が好きだから、宇宙ということばが出てきたのだろう。谷川は昔から「宇宙」をことばにしている。
 底なしの泥沼は、宇宙との対極にある。宇宙も限りがないけれど、宇宙は底なしではなく、透明。
 この対極のぶつかりあいのなかから、谷川はダイヤモンド(透明)を選んで、そっちの方向へことばを結晶させる。
 でも、どうしてこんなに「こころ」はどんなたとえをもってきても「ぴったり」なんだろう。なぜ、なにもかもを受け入れてしまうのだろう。
 そういう「意味」を考えはじめると、
 その瞬間、

心は化けもの?

 この1行は、「底なしの泥沼」とちょっと似ている。意味=抽象的なものではなくて、抽象的=比喩として「文学」に定着しているものではなくて、もっと「なま」な感じの「もの」をぶつけてくる。
 「化けもの」は「幽霊」よりも形がありそうで、「もの」に近いようで、不気味で、こわい。抽象的=嘘、からは遠い「ほんとう」があるような感じがする。
 谷川は、「意味」を結晶させずに、ぱっと突き放す。そして、そこに私たちが知っているけれど、知らないものをぶつける。
 「知っているけれど、知らない」というのは矛盾だけれど、「化けもの」って定義ができないよね。ずっとむかし、いちばん最初にこわいもののの代名詞として、それでもなんとなく知っている。そういうもの、ことばとしてつかっているけれど、あいまいな、そのくせ「わかる」ものをぶっつける。

 こころは、そういう「わかる」ものと向き合っている。



こころ2

心はどこにいるのだろう
鼻の頭にニキビができると
心はそこから離れない
けれどメールの着信音に
心はいそいそすっ飛んで行く

心はどこへ行くのだろう
テレビドラマを見ていると
心は主役といっしょに旅を続ける
でも体はいつもここにいるだけ
やんちゃな心を静かに守る

体は元気いっぱいなのに
心は病気がこわくて心配ばかり
そんな心に追いつけなくて
そんな心にあきれてしまって
体はときどき座りこむ

 心は矛盾している。心とも矛盾しているけれども、体とも矛盾している。
 でも、そういう「意味」以前に、私は「鼻の頭のニキビ」が気になる。私はニキビに悩んだことがない。これまで生きてきて(?)、数個くらいできたかもしれないが、それは瞬間的なことで次の日には消えている。谷川って、ニキビに苦しんだ?
 どうも、そんなふうには見えないんだけれど。
 で、私は、こういう行に出合うと、あ、谷川は「体験」を書いているわけではないのだな、と思う。なんとなくなんだけれどね。確信があっていうわけではないのだけれど。
 メールの着信音にすっ飛んで行くというのも、そうなのかな? と疑問に思う。だいたい、この詩の「主人公」は誰? 私には谷川ではなく、少女が思い浮かぶ。
 で、
 ここには具体的な体験体験以上に、「まわりから聞いた体験」が入っているような感じがする。「耳年増」という感じ。「少女」の体験を聞きかじって知っていることについて「耳年増」というのは、何か変かもしれないけれど。
 いろんなことばを聞き、そこに「こころ」があることを、谷川は学んでいる。自分の「肉体」からことばを紡ぎだすだけではなく、聞いたことばから「肉体」をつくりだすということもできる詩人なのだと思う。谷川は、そのとき、自分の時間を遡って「過去(若い年代)」をも先取りできる。「耳年増」というより「逆耳年増」かな。「耳年若(?)」かも。

 いろいろな矛盾を書いて、その最後。

体はときどき座りこむ

 この行は不思議だね。たしかにどうすることもできなくなって体は座りこむことがある。でも、そのとき、こころは? 
 こころも座り込んでいるのだと、私は思う。
 「体はときどき座りこむ」という行を読みながら、私は「こころ」こそが座り込んでしまって、そのために体が動けずに座り込んだ形になっているのを想像してしまった。
 谷川は体がこころをとじこめている、という具合に書いているように見えるけれど、そのことばを読んで私が感じるのは、こころが体をとじこめている、という感じ。それはしかし、支配している、というのではなく、こころが体を整えているという感じ。
 そういう感じが、詩の主人公は少女なのに、少女を超えて詩人になっているという印象を引き起こす。詩人が(谷川が)この詩を書いたのだという感じを強める。

 そこからちょっと飛躍して。
 私は、詩が、谷川の体を整えているというか、暮らしを整えていると、なんとなく感じる。谷川の暮らしを私は一度も見たこともないのだけれど。

こころ
谷川俊太郎
朝日新聞出版
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宮崎駿監督「風立ちぬ」(★★★)

2013-07-28 20:54:37 | 映画
監督 宮崎駿



 この作品は数日前に見たのだが、なかなか感想を書く気になれなかった。いまでも気乗りがしない。予想通り、韓国や中国から零戦をつくった技術者(設計者)を主役にしていることに対する批判が起き、それに対して宮崎駿が「ものづくりの現場」から反論するということが起きたのだが……。
 嫌いな部分から先に書こうか、先に好きな部分を書いておこうか。
 書くのをためらったのだから、嫌いな部分から先に書こう。書いたあと、まで好きな部分について書く気持ちが残っていたら、そのことを書こう。
 何が嫌いかというと、「ものづくりの現場」にこだわるのなら、なぜ、堀辰雄の「風立ちぬ」を合体させたのだろう。堀辰雄の「小説家としてのものづくりの現場」に共感したというのなら、もっと具体的に小説家のこだわりに踏み込まないといけない。「ものづくり」をヒロインの死と組み合わせることで、「ものづくりの現場」をセンチメンタルなものにすりかえてしまっている。「ものづくり」に共感しないひとも、ヒロインの死んでゆくときの姿に共感するだろう、という思いがなかったかどうか。言い換えると、宮崎駿に、そういう「計算」がなかったかどうか。
 私は、うさんくさく感じている。
 うさんくさいもの、一筋縄ではゆかないもの--そういうものに私は体外の場合は共感するし、とても好きなのだが、今回の場合は違う。
 「ものづくり」というものは、実は、それだけでうさいくさい。美しい零戦をつくるということは、それだけでうさんくさい。ひとが旅するためのものではなく、戦争のものだからね。映画のなかでも「笑い話」として出てくるが、「あと少し機体を軽くしなければならない。搭載する機関銃の重さの分を」というようなことを主人公は言う。きわどい話でしょ? うさんくさいでしょ? それこそ中国、韓国から「なぜ機関銃をのせなければならない?」という質問を誘い込む部分である。
 その部分の苦悩をていねいに描かないと、いくら飛行機としての美しさを追求したといっても、うさんくささを乗り越えられない。組み立てのとき必要な留め鋲を軽くする話が出てくるが、それは設計者だけでできることがらではなく、たの技術者をまきこんで可能なことである。描かなければならないのは、設計とそれを可能にする技術--つまり、技術者との正確な交流、おなじ「ものづくりの現場」にいるひとたちとの共同作業のはずである。そういうものが濃密に描かれれば、あ、これは「ものづくりの現場」というものじたいがすばらしいファンタジーだとわかるはずである。
 そこを省略して、ファンタジーを主人公の「個人」に収斂させ、そこにもうひとりのヒロイン(悲劇)を重ねることで、主人公の「ものづくり」とは別の場所手悲劇の主役にする。
 これは工夫というより、手抜きだね。
 こういうものをみると、私は、ちょっと感想を書きたくなくなるのである。
 絵そのものとしても、「ものづくり」があまりつたわってこない。鯖の骨のカーブを美しいという部分にいちばん濃密にでているけれど、同じようなことがらが「留め鋲」でも技術者の側から描かれると、とてもおもしろいものになるのになあ。誰かがきっと同じようなことをしているはずなのになあ、それを探り当てない(嘘でもいいから、それを描いて見せない)といのうは手抜き以外のなにものでもない。
 手抜き--なのかどうか、私はアニメ作家ではないのでわからないが、遠景のときの人物の線も手抜きだなあ。原画の大きさに限りがあるからどうしてもそうなるのかもしれないけれど、スクリーンのなかに人間の全身が登場するとき、それがあまりにもつたない。下書きの線のように見えてしまう。スクリーンに拡大されたときに、全身にみなぎる充実感がない。細部が細部になっていない。「ものづくり」のこだわりが、そこには欠けている。

 好きなところは。
 主人公の夢と、主人公が私淑しているイタリアの飛行機設計家の夢がまじりあうところ。同じ夢をもっているので、互いの夢に「侵入」しあう。それはほんとうに夢見るように美しい。この夢の侵入を、繰り返しになるけれど「技術者」との間でも描いてほしかったなあ。
                        (2013年07月24日、天神東宝1)
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