詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

稲川方人「はなぎれのうた」

2013-07-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
稲川方人「はなぎれのうた」(「イリプスⅡ」11、2013年05月20日発行)

 私は稲川方人の詩がまったくわからない。まったくわからないものに対して感想を書いてもしようがない気がするが、なぜわからないかということは書いておいてもいいかもしれないと思う。
 「はなぎれのうた」は行のはじまりが不規則である。そこに何かしらの「詩」があるのかもしれないが、引用がややこしいので行の頭をそろえた形で引用する。(私は朗読派ではないが、書かれた詩というのはあくまで書かれているだけであって、それが詩になるときはそのことばが人間の肉体をとおらないといけない。声に出せないような「空白」の配列は私には把握できない。)

こころない国を棄てるために柿の実をついばむ尾長の二羽がざわめき
流星の名残りが光の果てる時を告げる
私は若い爪の記憶する雷鳴に似た遠い日の夏を想う
北風の物干し台に泣きながら座る子の幸いに多くよみがえり
われらの逝く日はいつかあろうかと指に巻く風車が廻る
音沙汰の手を握り合い語尾に届かぬ別れを文字に変えて 西陽の廃路へ
こんなところにも生き物が優しく足を曳いているから
石と石とを渡り 燃え尽きた水の精にこの世の言葉を一握り 返しに行く
折られ重なり はぐれた尾長が水辺の枝に叛いている
戸板に乗った老犬にどうかわれらの生の幾ばくかを与えるようにと
明日もまたここに散歩に来る

 私がこの詩でわからないのは「動詞」の働きである。
 どんな動詞も肉体に響いてくるものである。たとえば1行目には「棄てる」「ついばむ」「ざわめく」という「動詞」がある。何を棄て、何をついばみ、何をざわめくのか、その対象が違っても、「主語」がひとつなら、その運動のなかには繋がりがある。「主語」が複数なら、その「動詞」に何か通いあうものがある--はずである。
 これは、もちろん私の「肉体」が感じることであって、ほかのひとは違うかもしれない。稲川の場合、あきらかに私とは違っていて、そこに、とうていたどりつけないものを感じるのである。つまり、稲川とは「セックス」はできない。どこにも「肉体」の共通点がないと感じてしまう。
 1行目にもどっていうと、「こころない国を棄てるために」の「棄てる」の主語は「私」あるいは「われら」であろう。「二羽の尾長(にわとり?)」ではないと思う。ところが、それにつづく「柿の実をついばむ尾長の二羽がざわめき」の「ついばむ」「ざわめき」の主語は「尾長」である。1行のなかで主語が変わっている。しかも、主語がかわっているのに、その1行の前後をつなぐことばとして「……ために」ということばがつかわれている。何かしらの「連絡」が「私(われら)」と「尾長」のあいだにあるから「……のために」ということばが動くのだと思う。つまり、このとき「尾長」は「私(われら)」の一種の比喩(暗喩)である。「二羽の尾長」の「二羽」が「私」だけではなく「われら」という複数を呼びよせる。ここまでは「現代詩の文法」で読むことができる。
 強引に「誤読」すれば、「私(われら)」は国を棄てるこのとき、柿の実をついばんでいた尾長が何かに気がついてざわめくような「感情(想い)」を肉体のうちに抱え込んでいる。その肉体のうちにある「想い(感情)」が尾長の「ざわめき」とどこか似通っているということになる。「……ために」は、自分の感情を「比喩」にするための強引な言い回しである。(方便である。)平穏な気持ちで国を棄てるということはできず、どうしても「ざわめく」ものがある、ということだろう。国を棄てるセンチメンタルを、稲川は、こんなふうにややこしく、きざったらしく、誰にもわからないだろうけれど、実はこうなんだよと書くのである。
 で、そういう「想い」をひきずりながら「動詞」は2行目では、「果てる」「告げる」という形にかわる。「名残り」のなかに「残る」も見るべきかもしれない。「時を告げる」はにわとり(尾長)の主語をひきずっている。「光の果てる」は国の没落と通いあい、だから棄てるのだという動詞と呼びあっているかもしれない。
 ただし。
 「流星の名残りが光の果てる時を告げる」という1行は、私のことばで読み直すと、名流星のかすかな光が、空の光の果てる時を告げる、太陽が去って(国が没落して)暗くなる、その暗さのはじまりを告げるということ。そうすると、にわとりが「時を告げる」という「動詞」とかみ合わなくなる。にわとりが「時を告げる」のは朝であって、夕暮れではない。「動詞」が齟齬を来している。矛盾している。もし、その矛盾を解消しようとするならば(?)、「光の果てる」を朝をつげるはずの太陽の光そのものがもう果てようとしている、国は没落しはじめているということの象徴、日暮れが新しい時代の幕開けであるという具合に読み直さないと(誤読し直さないと)いけない。それを察知して、にわとりはざわめき、さらにその「光の果てる時」を告げる……。
 何か、厳しいものがある。もしそうなら、つまり没落が夜明けなら、たとえばロシアの貴族階級の没落が労働者階級の夜明けなら、その国の夜明けを感じる人間がその国を棄てることは矛盾になる。貴族階級の没落が労働者の夜明けなら、労働者はその国に残る。没落(日暮れ)を感じる人間と夜明けを感じる人間では「主語」が違う。主語を超越して「両方」を感じることはできない。
 さらに3行目。前に書いてきた「没落」、その予兆のようなものは、実は遠い日の夏にあったのだ、と「私」は思い返しているのだろうか。「私は若い爪の記憶する雷鳴に似た遠い日の夏を想う」。「記憶する」「想う」という「動詞」が、「遠い日(過去)」ぴったり重なる。「過去」には「この国を棄てる」理由がない。ただし、「遠い夏」には予兆のような「雷鳴」があったということだろう。それがどんなものか、稲川は書いていないが、「若い(ときの)爪」が「記憶」している。
 これじゃあ、何のことかわからないが、さらにそれをわからなくさせるのが4行目。
 「北風の物干し台に泣きながら座る子の幸いに多くよみがえり」という行のなかにある「泣く」「座る」「よみがえる」という「動詞」。「よみがえる」は「記憶する」「想う」の言い換えであり、「泣く」は「雷鳴」と呼びあっているかもしれない。「泣きながら」「想う(思い出す)」のは遠い日の楽しい「記憶」である。そう考えると、「動詞」は呼びあっている。「動詞」ではないが「子」と「若い」も呼びあっているだろう。
 遠い日の幸いの記憶があるからこそ、いまのこの国を「こころない」と想い、そうしてその国を棄てようと「想う」のだけれど、その「想い」のなかには「幸い記憶」がよみがえってきて、「想い」を「ざわめかせる」ということかもしれないけれど。
 けれど、「遠い日の夏」と「北風」は? 雷鳴のあった夏に北風が吹いた? 北風って冬じゃない? というのは「流通言語」の反応であって、詩の言語に対する反応ではないのかもしれないけれど……。にわとりが「時を告げる」朝と、流れ星が見えるようになる夕暮れの齟齬のように、「時間」がおかしい。「時間」がおかしいと「動詞」も信用できなくなる。「動詞」がつくりだしていくのが「時間」だからである。
 たぶん稲川の「動詞」は「肉体」を欠いているのである。すべての「動詞」は「想う」のなかに含まれている。肉体は動かず、頭で「想う」だけ。「想い」のなかで時間を無視して肉体以外のもの動かしている。この点で稲川の望郷とナボコフの望郷は決定的に違う。「亡命」したことのない人間にナボコフの望郷をなぞってみても、なぞりようがない。動詞が追いつかない。(だから「名詞」でごまかすのだろう。--あとで指摘する。)
 「想う」は稲川のキーワードなのかもしれない。この詩では具体的に「想う」という動詞が書かれているのは3行目だけだが、

われらの逝く日はいつかあろうかと(想い)指に巻く風車が廻る

戸板に乗った老犬にどうかわれらの生の幾ばくかを与えるようにと(想い)
明日もまたここに散歩に来る(ことを想う)

 という具合に「想い」は書かれない形で書かれている。稲川にはわかっていることなので、無意識に書き落としている。(キーワードはたいていの場合、書き落とすものである。)
 肉体を動かさない「想い」のなかの動詞というのは、まあ、空想である。無責任なファンタジーである。それはそれでいいのかもしれないけれど、私は、そのファンタジーにあらわれる稲川の「ことばの好み」が「現代」とかけ離れていて、そこにも「肉体」の欠如を感じてしまう。
 「柿の実」「尾長」「物干し台」「風車」「水の精」「板戸」。引用はしなかったが、「乳母車」「歌曲」「ロバ」「望楼」「故郷の駅」「柱時計」「薄暮のガラス」ということばもある。ナボコフの望郷のように、「もの」が動詞となって動くまで書き込んでいるのではなく、ただ「流通言語」の「文法」を逸脱させて、ことばをばらまいているだけのように思えるのである。




詩と、人間の同意
稲川 方人
思潮社
コメント (2)
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