詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

宮内憲夫「ひざ小僧の視線へ」

2013-07-10 23:59:59 | 詩集
宮内憲夫「ひざ小僧の視線へ」(「現代詩手帖」2013年07月号)

 宮内憲夫「ひざ小僧の視線へ」の書き出しにびっくりしてしまった。

すらりと晴れ上がった、午前八時の農道には
近くの幼稚園児たちが、ぶ、の字に広がり

 「ぶ、の字に広がり」。あ、これは書けないねえ。だれも書かないねえ。車が来ることなんか気にしていないから勝手気ままに散らばっている。その散らばり方が「ぶ」。で、それを「ぶ」ととらえることができるのはなぜ?

農耕車も、朗(ほが)らかに蝸牛の歩幅にされて
ハミングの後押しを手伝わされている
この、輝く風景画に額縁なんかは要らない

 ふつうの車ではなく、農耕車。きっと運転席(座席)が高い。そこから園児の散らばっている姿が俯瞰できる。宮内はの農耕車で畑へ向かっているのだろう。農耕車だから、きっとフロントガラスもない。ドアもない。運転席が、そのまま田園のなかに開放されている。その開放(解放)のなかで園児たちの解放(開放)が共鳴する。
 それにしても「ぶ」はいいなあ。
 そこには「形」だけではなく、「音」がある。楽しい音だ。だから、それを引き継ぐようにして「ハミング」も出てくる。
 園児たちは「ぶ」の字にちらばって(散らばりながら、やっぱりひとつの塊になって--ぶ、の字を意識させるのは塊だからだね)、歌を歌っている。気楽に、音を楽しんでいる。その後ろを農耕車はゆっくりゆっくり動いていく。追い抜いたりはしない--ぶの字に散らばっているから追い抜けない。あとをついていくしかないのだけれど。
 たしかに、こんな風景を「額縁」に入れても楽しくはない。この楽しさは、農耕車にのって、ただゆっくりと園児の遠足(ピクニック?)についていくものにだけ許された楽しさだ。農耕車だから、スピードだってそんなに出ないのだから、こういう楽しさもあるのだけれど、うーん、農耕車にのって農道を走ってみたい--そういう気持ちになるなあ。

いま、大人の着る不安の衣を知らないまま
解き放された、一糸まとわない魂たちが
清らかな、片言ことばの手をつなぎ
目的地なんて何処吹く風で爽やかだ
一人じめ、飛び切りの会話を道連れにして

 2連目からは、だんだん「意味」が強くなってくるのだけれど、(魂、などということばまで出てきて、なんだか精神的になってしまってもいるのだけれど)、それでも「目的地なんて何処吹く風で」がいいねえ。園児にとって「目的地」はどうでもいいのだ。「ぶ」の字にちらばって歌を歌って、だれかと勝手気ままな話をして--という「いま」があるだけだ。「いま」しかないから、「未来」と結びついている「不安」というものもない。
 「ぶ」の字と「目的地なんて何処吹く風」という園児の「形」と「こころ」をひとつにして、「農耕車」という開放的な座席へ招き入れたところが、ほんとうに楽しい。

 タイトルの「ひざ小僧の視線へ」というのは、農道をちらばって歩く園児たちの「ひざ小僧」のことを書いているだろうと思う。私は「ひざ小僧」というよりも、後ろから園児たちを見ている宮内から見える「ひざ小僧の裏側」と思って読んだ。
 「ひざ小僧の裏側」には不思議な「白さ」がある。見られることを意識しない、(園児はもともと見られることを意識などしていないが)、無防備な美しさ。それが「ぶ」の字の、やはり無防備な形、目的地を無視した無防備な姿とも重なる。
 園児の無防備に触れて、宮内も、突然、無防備になった。無防備のなかにある不思議な力の美しさが一連目に凝縮している。





おとなの童詩
宮内 憲夫
白地社
コメント (1)
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