詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木志郎康『ペチャブル詩人』

2013-07-13 23:59:59 | 詩集
鈴木志郎康『ペチャブル詩人』(書肆山田、2013年07月05日発行)

 長い作品の方が鈴木志郎康の色が濃厚だし、私は好きなのだが、あえて短い詩を取り上げて鈴木のことばの運動の特徴を浮き彫りにしてみたい。
 「三つの短い詩」のなかの「ニンジンを食べる時」。

サラダにニンジンを入れようと、
ニンジンをまな板に横に置いて、
包丁で丁寧に人差し指の指の先で目安をつけて、
薄く輪切りにしたのを半分に切った。
食卓で半円のニンジンを食べる。
その時は包丁のことは、
もう、すーっかり、
忘れている。
ニンジンの甘みが美味しい。

 最初の4行の、克明なというか、馬鹿丁寧なことばの動きは、いわゆる「自己拡張」の報告である。ふつうは、ニンジンを半月形に切った、でおしまい。手順は省略する。それがことばの経済学というものである。その経済学を無視して、全部、書いてしまう。書いた「細部」へと鈴木は「自己拡張」していく。「自己拡張」は、ある意味では、「他者拡張」でもある。「他者」の領域に入り込み、「他者」になりかわってしまう。
 こうした例を「位置として、やわらかな風」に見ることができるが、「ニンジン」にもどる。(自己拡張については、私はすでに何回か書いたような気がするので。)
 私がこの詩で、はっとしたのは、実はそのあとの展開である。

食卓で半円のニンジンを食べる。
その時は包丁のことは、
もう、すーっかり、
忘れている。

 何かをする。そのあと、また別のことをする。そうすると、前のことを忘れている。これはだれでも体験することでとりたてて珍しいことではないのだけれど、鈴木は、それについて書いている。
 で、そのとき。
 「その時」と鈴木は書いているが、そう書いたとき「前の時」と「いまの時」がつながる。つながって「時間」になる。その結果、それは「これから先の時」とも必然的につながることになるかもしれない。ただし、「これらか先の時」を鈴木は「将来」(未来)としてではなく、「いま」としてつづけていくのだが。
 この「時」をつなげるの「つなげる」に私は鈴木の「肉体(思想)」を感じるのである。
 「忘れている」ものを「思い出し」、「いま」とつなげる。そうするとそこには「時間」が生まれるだけではなく、「時間」といっしょに「連続した自分」が生まれる。「自分」が「過去-いま」という「連続形」になって瞬間的に存在する。
 「自己拡張」というのも、「連続形」の別の呼び方であるのは、まあ、めんどうくさいので説明しないが……。

 「もう、すーっかり、/忘れている。」と言いながら、それをしっかりと「連続させる」、「忘れたまま」にしないで「思い出して/つなげる」。「連続」への果てしない欲望が鈴木志郎康なのである。
 しかし、この「連続」は、あくまで「意識」の問題である。「肉体」は「連続」しかないので、こういうことは意識しない。つまり「無意識」の領域にほうりこんで知らん顔をするのだが、鈴木は「意識」する。
 「連続」を「意識」して「欲望」する、ところに鈴木の特徴がある。これはことばを「書く」ということのなかで実現されるものである。

 で、この「連続」の対極にあるのが、声。書きことばではなく、話しことば。声は次々に消えていく。それは意識から「切断」されて、存在しなくなる。
 でも、その「切断」された「音」を繰り返し繰り返し、連続させるとどうなる?
 たとえば、

ゲ、ゲ、ゲ、ゲン、ゲン、
ダイ、ダイ、ダイ、シ、シ、
シネン
ネン、ネン、カン、カン、
ニィー、ニィー、ニィー、セン、セン、
ニセン、セン、ジュー、サン、
ジューサン、サン、サン。
「現代詩年鑑2013」ですね。
                (「現代詩手帖現代詩年鑑2013」を手にして)
 
 「無意味」だった「音」が意識のなかに残り、それが徐々に「意味」になる。音でことばを破りながら(音を独立させることで意味を破壊しながら)、意識は繰り返すことで切断を連続にかえる。
 繰り返すと、なんでも「意味」になるのだ。
 これは、どんなことば連続させれば論理になり、意味になるのにとても似ている。
 というより、どうしても「意味」にしてしまいたい欲望が鈴木にはあるということかもしれない。
 「意味」こそが、「意味」の獲得こそが、「自己拡張」なのである。

 「無意味」の音を書いていたようにみえる「プアプア」の詩も、激しい「意味」の欲望にとらわれた姿なのである。かけ離れたものへの自己拡張、なんとしてもつながりたいという本能、欲望が「プアプア」を繰り返させている。「意味」にしようとしている。その「意味」はまだだれも書いていないからこそ「プアプア」ということばで「意味」になる。「声(音)」が肉体を通り抜けていくとき、その快感が「意味」になる。
 鈴木のことばには激しい「意識」の欲望と、肉体の「快感」への欲望が堅く結びついて、個性として存在しているということになるのかもしれない。

 反復(繰り返す)というのは、「いま」をいったん「切断」し、「過去」を「接続」しなおすことである。反復することによって、その反復の内部(?)に、「連続」がうまれる。「切断/接続」の繰り返しが「連続」である。
 --と書くと、なんのことか、ややこしくなるが、鈴木は、「切断」を繰り返し「接続」させることで、「連続」という「自己拡張」を「いま」という「時」に出現させるのである。
 「その日、飲みこまれたキャー」の最後は刺激的である。東日本大震災(津波)の数か月後に、

わたしは自分の書斎で、
この詩を書いた。
二〇一一年八月十六日のこと。
もう一度書き直したのが、
一年以上経って、
二〇一二年十二月五日のこと。
二〇一二年十二月三十日にさらにまた書き直した。
そして更に二〇一三年一月と二月十七日にまた書き直した。

 こんなことは、「あとがき」であって、詩の本体(?)とか関係がない。詩人は完成された「作品」だけを提出するもの--という考えからみると奇妙な行になる。
 けれど、私に言わせれば、その前の部分よりも、この「あとがき」の部分こそ鈴木の詩である。繰り返す。繰り返して、その繰り返しを意識する。そのとき「切断」されていたものが「接続」するを超越して「連続」にかわる。
 「接続」と「連続」は、どう違うか。
 「接続」は瞬間的なものであるが、「連続」は時間を超越した「永遠(真実)」である。「連続」することで、鈴木は「真実」に「なる」のである。

                      (あした、つづきを書くかも……)






ペチャブル詩人
鈴木 志郎康
書肆山田
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