詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉田広行『Chaos/遺作』(2)

2013-07-22 23:59:59 | 詩集
吉田広行『Chaos/遺作』(2)(思潮社、2013年07月15日発行)

 吉田広行『Chaos/遺作』は、行分けの詩と散文詩風の詩とあるが、散文詩風のものの方が私には納得できる。反芻(反復)しながら、反芻することをことばの推進力にしていることばの運動が納得できる。反芻とは、いったん帰ることであると同時に、帰ることで生じる違和感を手がかりに最初の運動(ベクトルの方向)を修正することである。そのとき、「差異」というか「ずれ」のようなものが生まれるのだが、その「差異」「ずれ」が詩人の肉体(思想)そのものである--その瞬間に肉体(思想)が見えるからである。(私の「差異」「ずれ」は、いわゆるフランス現代哲学でいう「差異」や「ずれ」と違っている。私は、そういうことばを聞いたことはあるが、実際にフランス現代哲学書を読んだことはないので、まったく自己流に、私の体験した「日本語」の文脈でそのことばをつかっている。)
 「川が、ながれていた」を読んでみる。

川が、ながれていた。そのときわたしのなかの小さな震えが、川のほうへいっ
しょにながれていったのか。それともなにか曲がりくねり屈折したものが、わ
たしのほうへ、この土手のほうへ、押し寄せてきて、いたのか。波、波、波。
息のたわむれのよう。小刻みな浮遊たち。光が独楽のようにまわり、水面を跳
ねていた、跳ねていた。わたしは、いまもしずかに燃える現象--減少の、こ
だま? 無数の、水脈のなかの、振動に添って翳ってゆく、小さなちからの余
韻? まだかすかに残っている? 降りしきる、なにかやわらかいものの、薄
片に満たされて。もう、ここがどんな岸辺であってもかまわない、かまわない
だろう。

 川は流れている。それは私から何かが流れていくという「心象」を呼び覚ます。一方、それはほんとうだろうかと確認しようとすると、川から岸辺に押し寄せている波に出合う。私から流れていくのか、私に押し寄せてくるのか。--これは矛盾したことがらだが、矛盾しているからこそ、そこにいままでことばにならなかった「こと」が起きている。
 この矛盾をみつめる視点(視線)は信じていいものだと思う。
 波と光、その「現象」を「減少」と言いなおすところに、吉田の独特の「肉体」がある。「現象」「減少」は「音」がおなじであり、そこから「差異」「ずれ」がはじまるのだが、波と光の「現象」を「音」が同じだからといって「減少」と言い換える必要はない。音を無視して「増大」のほうへことばを動かしていってもいいはずである。けれども、吉田は「減少」を選ぶ。それは「音」が同じだからではなく、「減少」するものの方がセンチメンタルで文学的だからである。「減少」は「喪失」に通じる。「喪失」は「悲しみ」に通じる。--というのは「流通言語」の「流通文学」の「流通概念」かもしれないが、まあ、「減少」の方が、詩としてなじみやすい。
 だから「減少」は「翳る」「余韻」「残る」「薄(片)」という具合に、青春のセンチメンタルを刺戟するように動くのである。ここに新しさはないかもしれないけれど、一種の「文学的安定」がある。その安定感としての「肉体」、そして「思想」。それを、私は、信じるのである。信じることができる。--これは、私の、ことばへの信頼ということかもしれない。文学がつみあげてきたことばの運動というのは、どこか気持ちのいいものがある。それにそって動いていけば、「肉体」が整えられるような錯覚のなかで安心してしまうのである。
 安心してしまうという意味では、これは、もしかしたら危険なことであるかもしれないけれど。警戒しなければならないのかもしれないけれど。
 「川のほうへいっしょにながれていったのか」「押し寄せてきて、いたのか」の「いったのか」と「いたのか」の不思議な動き、「どんな岸辺であってもかまわない、かまわないだろう」の「かまわない」と「かまわないだろう」のゆらぎも、とてもおもしろい。
 ただ、この詩はまだつづいていて、その部分はあまりにもセンチメンタルすぎて、おもしろくない。センチメンタルが「知性」によって「減少」するのではなく、「抒情」によって増幅する。「千切れてゆけ、言葉たち」という「本音」はそれはそれでいいけれど、

                    いま、無数の風がむすうの色に雪
崩ながら川の上をわたってゆく……そのように。
世界は、あらゆることの限界の、さざ波であり続けるだろう。

 うーん、「いったのか」「いたのか」「かまわない」「かまわないだろう」の、反芻(反復)がどこかに置き去りにされてしまっている。「無数の風」「むすうの色」には「現象/減少」のような客観的(?)な「差異/ずれ」がない。表記の断絶があるだけで、そこでは何も反芻(反復)されていない。そこになるかあるとしたら「断絶」だろう。「無視す/むすう」という「連続」を偽装した「断絶」。「連続」が偽装されているなら、そのけっか生じた「断絶」は、やはり偽りのもの、口先だけのものだろう。
 反芻(反復)はファッションだったのかな、「肉体」ではなかったのかな、という疑念が湧いてくるのである。どこかで、持続力がなくなっている。それが残念。
 きのう私は、論理なんて、ことばをつづければどうしたって論理になってしまうのだから信じるに値しないというようなことを書いたが、そうであってもやはり「持続」は必要なのだ。持続しないことには、「肉体」も消えてしまう。「肉体の思想」は、特に消えやすい。






素描、その果てしなさとともに
吉田 広行
思潮社
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ジョン・ヒルコート「欲望のバージニア」(★★★)

2013-07-22 12:35:24 | 映画
監督 ジョン・ヒルコート 出演 シャイア・ラブーフ、トム・ハーディ、ガイ・ピアース、ゲイリー・オールドマン



 アメリカの禁酒法時代の映画。酒を密造する3兄弟と、それを取り締まる保安官(?)。古い時代の映画なので、映像が全体的にセピア色--って、変だよねえ。フィルムが変質して、映像が自然にセピア色になるということはあるかもしれないけれど、いま撮った映画なのにセピア色。
 まあ、これは、そういう変を承知でとった映画。ディカプリオの出た「華麗なるギャツビー」と比較するとわかる。「ギャツビー」はわざわざ3Dという「最新技術」をつかって「過去」を撮っている。「過去」を「いま」ふうに処理している。それが、いわゆる「商業主義」。でも、「バージニア」は「いま」をまじえない。「いま」ではないことを強調する。
 それが端的に出ているのが(具現化しているのが)、ガイ・ピアースの保安官。ポマードをべったりつけて、髪を真ん中で分け、ただ分けるだけではなく、分け目を強調するために剃り込みまで入れている。(たぶん)。見ただけで、ぎょっとする。これで、この映画は「きまり」。はやくガイ・ピアースが出てこないかなあ、と映画を見ながら待ち焦がれてしまう。ゲイじゃないかと、みんなから毛嫌いされる気持ち悪い役どころなのだが、その気持ち悪さがいいなあ。「あいつは気持ち悪い」なんて、日常では言えないからね。映画の「役者」に対してなら言えるからね。ときには人間には、「あいつは気持ち悪い」と平気で言えることが必要なんだろうなあ。差別とか、侮蔑とか--そういうことはいけないことなのだけれど、そういう気持ちを完全に消すことはむずかしい。だから、ときどき言ってみたくなる。そういう言ってはいけないことを言う「絶好のチャンス」だね。
 これだけ気持ち悪がられているのだから、足に障害のある少年をいたぶるところなんか、そこで男色行為でもしてみせれば、気持ち悪さに拍車がかかるのだけれど、そうしない。これが、この映画のセピア色のつつしみ。そこまでやってしまうと、「現代映画」。そして、悪趣味保安官の映画になってしまう。
 映画はあくまで、そういう悪趣味な保安官と闘った3兄弟の「男」の話。兄弟のなかに流れる「不死」の運命を信じて、自分の肉体だけを武器に時代と渡り合った「男」の話。こういう「男の話」は、いまは、もうセピア色の記憶。だから、きっとセピア色にしたのだ。
 男、酒、といえば、もうひとつ女。--この女も、古風だよねえ。セピア色だよね。瀕死の男を病院へ運んでも、それを運んだのは自分だとは自慢しない。強姦されても「何もされなかった」と涙で嘘をつく。感情の抑制の仕方が、いまとは違うねえ。
 「キネマ旬報」のベスト10に入りそうな、古くさい男が「ロマン」を感じたといいそうな映画です。



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