詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ヤーロン・ジルバーマン監督「25年目の弦楽四重奏」(★★★)

2013-07-09 23:59:59 | 映画
監督 ヤーロン・ジルバーマン
出演 フィリップ・シーモア・ホフマン、キャサリン・キーナー、クリストファー・ウォーケン

 私はフィリップ・シーモア・ホフマンが好きである。どこか甘い味がする。だいたい、あの肥満体のだらしなさは自己管理のだらしなさであり、それはいいかえると自分を甘やかしているからそうなるのだが、自分を甘やかすことを知っている人間には何かしら特有の甘さがある。面倒くさいけれど、とげとげしさがない。
 で、この映画。フィリップ・シーモア・ホフマンの役どころは第二バイオリン。私は音楽にはうとくてわからないのだが、第二バイオリンの役どころは第一バイオリンの音を彩ること、とこの映画では語られているが、うーん、それってまさに甘い感じのするフィリップ・シーモア・ホフマンそのもの。何かをリードして動かしていくのではなく、リードされながら自分の色を出していく。そうすると、全体が豊かになってくる。
 あの「カポーティ」すら、実は、そういう雰囲気がある。殺人犯を取材する。小説を書く。そのうちにだんだん殺人犯の意識に引っ張られてゆき、カポーティーがゆらぎはじめる。書かなければならないのだが、書くためには殺人犯が死刑にならないといけない。ストーリーが進まない。そのことに苦悩するところが映画の白眉なのだけれど、これって「良心の呵責」というよりも、何か甘えん坊の困惑、甘えん坊ならではの苦悩という感じがする。それがとても似合った。
 はじめて見たのは「ブギーナイツ」だが、ポルノスターのマーク・ウォールバーグに恋を打ち明けて、振られて泣くシーン(たしかTシャツの下から腹がぽっこり見えていたから、あのころから甘えん坊だったのだ)も甘えん坊さ加減がでていてよかったなあ。
 目の、上瞼の感じが、ディカプリオやチャールズ・ダーニングに似ていて、そうか、ディカプリオも甘い感じの役の方があうなあ、などと思いながら見ていた、などと書いていると、映画の感想になかなか入っていけないのだが。
 まあ、なんといえばいいのだろう。この映画、フィリップ・シーモア・ホフマンにかぎらず、その楽器と役者がそのまま一体になっている感じがとてもいい。クリストファー・ウォーケンはチェロを担当しているが、チェロは音楽を底の方で支えている。底が揺らぐと全体が揺らいでしまう。それがそのままストーリーとなっているのだが、これがいいなあ。とても自然。体調を崩すのがチェロではなく第一バイオリン、あるいはビオラでは違ったストーリーになってしまう。
 キャサリン・キーナー(ビオラ)もバイオリンによりそう(バイオリンを愛する)ふりをして、ほんとうはチェロの音に一身に耳を傾けている。チェロについていっている。バイオリンとチェロの間にあって、不思議な「接着剤」のような役を演じている。
 役者がそのまま音楽になっている。
 最後のクライマックスは一種の予定調和的なものだが、ひとつ工夫があって、それがおもしろい。
 クリストファー・ウォーケンが退場し、かわりにニナ(ほんとうのチェリストらしい)が登場する。かわりにチェロを担当する形で曲のつづきが演奏される。そのとき四人は楽譜を閉じる。暗譜で弾くことにする。これはフィリップ・シーモア・ホフマンのかねてからの願いだったのだが、第一バイオリンがそれを許さなかった。楽譜に忠実であることを強いていた。それが、最後の最後にかわる。
 これを単にフィリップ・シーモア・ホフマンの願いがかなったと受け止めると、おもしろくない。それでは過去からのつづきになってしまう。
 四人はと音楽を演奏するのだけれど、その音楽は作曲者だけのものであってはならない。ベートーベンのものであってはならない。ベートーベンのものなら四人が集まる必然はない。四人にしかできない「音」がある。それは楽譜に頼るのではなく、自分の「肉体」がおぼえているものを引き出さないことには形にならない。甘えん坊なら甘えん坊でいいし、献身(キャサリン・キーナーのクリストファー・ウォーケンに対する態度)なら献身でもいい。それがそのままでてきて、はじめて互いを知り合って、そこから感じたものをさらにあらわしていくには「暗譜」という「頭」から「肉体」の解放が必要なのだ。そこには新しいチェリストもいる。「楽譜」に頼らずに、一期一会を生きる、そのとき音が動きはじめる。新しい音になる。
 この再生の感じが、音楽にうとい私にもつたわってくる。CDか何かで音だけを聞いて、演奏がどんなぐあいに違うかというようなことを私は指摘できないけれど、映画を見ていると、あ、ここから音がかわる、かわった、ということが瞬間的に実感できる。映像と役者の力だなあ、と思った。そう思うまでが、ちょっと長いかもしれない。ほんとうは一時間くらいのドラマの方がよかったかもしれないが(たぶん、第一バイオリンとフィリップ・シーモア・ホフマンの娘の恋が作為的、わざとらしいのだ。ほかの女との恋ならかなり違ってきた。「家庭」の問題が入り込まないから)、映画でないと表現できな美しさが、そこにはあった。

 冬のニューヨークの風景も非常に美しかった。寒い、厳しいだけではなく、静かな悲しみと忍耐のようなものが滲んでいた。春を安易に予感させない感じが特によかった。孤独をかかえて冬のマンハッタンを歩きたくなった。
                      (2013年07月07日、KBCシネマ2)







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