池田瑛子「岸辺に」(「something 」17、2013年06月28日発行)
池田瑛子「岸辺に」は東日本大震災をテーマに書かれたものだと思う。ただ、私がこれまで読んできた大震災の詩とはずいぶん違う。
どこが違うかといえば、「事実」というか、そのとき起きたことを語り継ぐという感じがないことである。東日本大震災は、それが何であるか、私にはまだよくわからないが、そのよくわからないものを、多くの詩人は懸命にことばでつかみとろうとしている。池田の詩は、そこで起きた「事実」をつかみとるのではなく、それ以後のこころを描いている。被災者の側からではなく、被災者しなかった人間として、寄り添うというところから出発してことばを動かしている。
繰り返しが多いのだが、それは、少しずつことばを被災者に近づけようとする姿勢のように思える。
いきなり「祈りの花びら」になるのではなく、まず「桜の花びら」になる。それから、その「桜」に「祈り」という「意味」をつけくわえてゆく。それは、被災者が桜の花を見て、何かを思い、その思いが「祈り」になるまで待っているかのようにも見える。
急がない。けれど、また、けっして逆戻りはしない。静かに、後押しする。そういうことばの動きである。「いちまいの」という「いち」に対するこだわりも、それが「押しつけ」にならないように、という配慮からだろう。
「いち」にこだわるから、2連目の「数えきれない命」の「数えきれない」が切実になる。それぞれが「いち」なのに、あまりにも「いち」が多すぎて、数えきれない。そこには十進法のような「数字」はないのである。「いち」だけがある。
だからこそ「一度も」桜を見なかった命が強烈に迫ってくる。「いちまい」と「いちど」は違うのだけれど、違いながらも、そこに「いち」がある。その「いち」のために、「いち」が寄り添う。寄り添うと「一度」の「いち」が数えきれない数になってつながる感じがするのである。
ことばはさらに繰り返しながら、少しずつかわっていく。ことばは動くけれど、そして変化するけれど、飛躍はしない。
「いちまい」は「ひとひら」にかわる。「いちまいの花びら」と「ひとひらの花びら」は同じものであるが、少しだけ違う。どこが違うか--は、言えない。わからない。
「桜」「祈り」と動いてきたことばは、そのあと「灯り」にかわるのだか、すぐに「祈り」と言いなおされ、「灯り」と「祈り」が同じものだと告げられる。
ほんとうは違うのだけれど、「同じもの」にすることで、飛躍を消すのだ。「灯り」と「祈り」を「ひとつ」にするのだ。
そして、ここには書かれていないが、「灯り」は「祈り」がひとつになるとき、その「祈り」は「願い」になる。--帰ってきて、という「自分」のための「声」になる。
「祈り」は、他人のために「祈る」。「願い」は自分のために「願う」。「祈り/願い」のなかで、二つの命が「ひとつ」になる。
「願い」は「願い」という強いことばをとらずに、静かに身を隠す。
「伝えたい」の「……たい」(したい)。
それは、ほんとうに「したい」ことをさらに促す。
泣きたい--泣こう、と誘いかけるのである。
この静かな変化は、とても自然である。
語りかけるというより、しずかに歌うための詩であろう。声をあわせる。ひとりひとりの声をあわせ、声をあわせるとき、気持ちがあわさる。そのなかで落ち着いていくものがある。育っていくものがある。
池田瑛子「岸辺に」は東日本大震災をテーマに書かれたものだと思う。ただ、私がこれまで読んできた大震災の詩とはずいぶん違う。
いちまいの 桜のはなびらになって
いちまいの 祈りのはなびらになって
ことしの桜を咲かせよう
攫(さら)われていった数えきれない命
一度も桜をみなかった小さな命にも
みんな寄りそってここにいるよと
いちまい いちまいの花びらになって
ことしの桜を咲かせよう
どこが違うかといえば、「事実」というか、そのとき起きたことを語り継ぐという感じがないことである。東日本大震災は、それが何であるか、私にはまだよくわからないが、そのよくわからないものを、多くの詩人は懸命にことばでつかみとろうとしている。池田の詩は、そこで起きた「事実」をつかみとるのではなく、それ以後のこころを描いている。被災者の側からではなく、被災者しなかった人間として、寄り添うというところから出発してことばを動かしている。
繰り返しが多いのだが、それは、少しずつことばを被災者に近づけようとする姿勢のように思える。
いちまいの 桜のはなびらになって
いちまいの 祈りのはなびらになって
いきなり「祈りの花びら」になるのではなく、まず「桜の花びら」になる。それから、その「桜」に「祈り」という「意味」をつけくわえてゆく。それは、被災者が桜の花を見て、何かを思い、その思いが「祈り」になるまで待っているかのようにも見える。
急がない。けれど、また、けっして逆戻りはしない。静かに、後押しする。そういうことばの動きである。「いちまいの」という「いち」に対するこだわりも、それが「押しつけ」にならないように、という配慮からだろう。
「いち」にこだわるから、2連目の「数えきれない命」の「数えきれない」が切実になる。それぞれが「いち」なのに、あまりにも「いち」が多すぎて、数えきれない。そこには十進法のような「数字」はないのである。「いち」だけがある。
だからこそ「一度も」桜を見なかった命が強烈に迫ってくる。「いちまい」と「いちど」は違うのだけれど、違いながらも、そこに「いち」がある。その「いち」のために、「いち」が寄り添う。寄り添うと「一度」の「いち」が数えきれない数になってつながる感じがするのである。
ことばはさらに繰り返しながら、少しずつかわっていく。ことばは動くけれど、そして変化するけれど、飛躍はしない。
ひとひらの 灯りの花びらをともして
ひとひらの 祈りの花びらをともして
夜の深みの花明かりになろう
たましいが迷わないで帰ってくるように
「いちまい」は「ひとひら」にかわる。「いちまいの花びら」と「ひとひらの花びら」は同じものであるが、少しだけ違う。どこが違うか--は、言えない。わからない。
「桜」「祈り」と動いてきたことばは、そのあと「灯り」にかわるのだか、すぐに「祈り」と言いなおされ、「灯り」と「祈り」が同じものだと告げられる。
ほんとうは違うのだけれど、「同じもの」にすることで、飛躍を消すのだ。「灯り」と「祈り」を「ひとつ」にするのだ。
そして、ここには書かれていないが、「灯り」は「祈り」がひとつになるとき、その「祈り」は「願い」になる。--帰ってきて、という「自分」のための「声」になる。
たましいが迷わないで帰ってくるように
「祈り」は、他人のために「祈る」。「願い」は自分のために「願う」。「祈り/願い」のなかで、二つの命が「ひとつ」になる。
「願い」は「願い」という強いことばをとらずに、静かに身を隠す。
伝えたい言葉となって舞い散ろう
「伝えたい」の「……たい」(したい)。
それは、ほんとうに「したい」ことをさらに促す。
伝えたい言葉となって舞い散ろう
堪(こら)えている涙となって降りしきろう
泣きたい--泣こう、と誘いかけるのである。
この静かな変化は、とても自然である。
伝えたい言葉となって舞い散ろう
堪えている涙となって降りしきろう
ふりつもり ふりつもり
土に溶けて あたたかい大地になろう
木々が芽吹くように 鳥が羽ばたくように
悲しみに耐えて生きるひとたちの
ひとあし ひとあしが刻まれるように
笑顔がもどってくるように
歌声がきこえてくるように
春がくるたびに
いちまいの はなびらになって
いちまいの 祈りのはなびらになって
愛しいたましいを抱きしめ
桜の花を咲かせよう
語りかけるというより、しずかに歌うための詩であろう。声をあわせる。ひとりひとりの声をあわせ、声をあわせるとき、気持ちがあわさる。そのなかで落ち着いていくものがある。育っていくものがある。
池田瑛子詩集 (新・日本現代詩文庫) | |
池田 瑛子 | |
土曜美術社出版販売 |