鈴木志郎康『ペチャブル詩人』(2)(書肆山田、2013年07月05日発行)
きのう、最後に引用した部分、
これには実はつづきがある。もう一行ある。
きのうは、この行から「位置として、やわらかな風」に引き返し、意識の濃淡ということについて書こうかなと思った。「薄れてしまった」から「濃淡」が浮かび上がってきたのだった。しかし、時間切れになってしまった。私は目が悪いので40分以上はつづけて書かないことにしている。
で、きょう、つづきを書こうと思ったのだが、一日たつと気分もかわれば、論理(?)もかわってしまう。詩を読み返すと、きのうとは違ったことを考えてしまう。その、違うことを書くにする。(こういう前書きは、鈴木の「あとがき」のように、ふつうは省略するものだろうけれど、鈴木のことばの運動に私はそまってしまっているようなので、そのまま残しておく。)
この最後の一行の「報告」は、何度も書き直したという報告以上に、とても奇妙である。東日本大震災のときの津波をテレビで見て衝撃を受けて、そのことを詩に書いている。そして、詩を何度も書き直したあと「テレビの映像の記憶はかなり薄れてしまった。」と書く。
ふつう、書かないでしょ?
記憶が薄れてきた--がテーマなら、それは別の問題。どうやって、記憶を継承していくかという問題になっていく。
ところが、鈴木にとってはそれはそういう問題にならない。
「連続」はあくまで「個人的」なことがらである。鈴木の「肉体」に限定されることがらである。だから、これを「極私的」というのかもしれない。どんな「連続」も鈴木はだれかと「共有」しようとはしていない。あくまで鈴木自身に「連続」にこだわる。連続の「具合」にこだわる。連続のなかにある感覚の濃淡(?)にこだわる。「連続の具合(濃淡/あるいは遠近)」という「個人的な事情(感覚)」、他人との「共有」できない感覚(理論化できないもの/論理とは違うもの)にこだわるのである。「連続のなかにある感覚」こそが鈴木にとって「個性/固有のなにか」なのだ。
抽象的なことをいくら書いてもしようがないので……。「その日、飲みこまれたキャー」から、「連続の具合」についてふれた部分を引いてみる。
私はこの数行に驚いた。「正直」に驚いた。
鈴木は、被災者の状況を見て「心が掻きむしられる」とは簡単には言わない。「流通言語」で語られる「悲しみ」に身を寄せない。それよりも「恐ろしさ」を引き受ける。「悲しみ」は淡く(遠く)、「恐ろしさ」は濃い(近い)ということになる。鈴木は「悲しんでいる人」に「悲しいでしょうね」と同情し、身を寄せる前に、「恐ろしい」と感じてしまう。それを「恐ろしさ」の共有と言えないこともないけれど、鈴木は恐ろしさを「共有」するというより、「恐ろしさ」を引き受けることで瞬間的に被災者を忘れる。被災者との「連続」を切り離してしまう。言いなおすと、被災者の感じている恐ろしさを引き受けたくない。まきこまれなくない。恐ろしさに直撃されて、自分の恐ろしさで手いっぱいになる。--それが恐ろしいということである。
恐ろしいから、逃げたい。そこにはいたくない。他人の恐ろしさを助けたいではなく、その恐ろしさにまきこまれたくない--ほんとうに恐ろしいときは、そういう自己防衛が働く。このとき「連続」ではなく、「分断」が働いている。
そのことに、鈴木は、直感的に感じている。
だから、
この1行が大変である。一瞬、「恐ろしさ」が重力(引力)となって鈴木を引っ張る、そこに「連続(引力/外部からの強引な接続)」というようなことも考えるのだが……。
それよりも。
「自己拡張」を「目的」とする鈴木が、「連続」を欲望しながら、一方で「分断」を瞬間的に働かせる。--矛盾がある。その矛盾に私は突き動かされるのである。矛盾のなかに、とても大事なものがあると直感的に思うのである。
矛盾のなかには「思想(肉体)」がある。ことばになる前の、「実感」がある。つかみきれない、身に引き寄せながら、引き寄せきれない何か。
「連続(自己拡張)」ということばで私は鈴木の「肉体(思想)」を見てきたが、それは一方的な見方(視点)だったかもしれないと、ふいに気になったのである。
何が重たいのか。
なぜ重たいのか。
それを鈴木はどこかで別のことばで言い換えてはいないか。
この「分断」がもっている何か--それを、鈴木は「津波でんでこ」と結びつけている。大震災で多くのこどもたちが死んでしまった。
「絆」ということばと比較すると「ひとりひとり」がよくわかる。そこには「連続」がない。「分断」がある。「他者」と「自己」の「分断」。
ひとは「連続」という形だけでは「自己実現」ができない。ときには「分断」が必要なのである。--これは「連続」による「自己拡張」を「生きる」と結びつけている鈴木の「肉体(思想)」にとっては、大変な矛盾である。
たとえば「位置として、……」の「自己拡張」はみつめている女の体とつながること、鈴木が女の体になってしまうことで実現されている。女と「分断」されるのではなく、「連続」をさらに発展させ、相手の内部に侵入し、相手になりかわって動くことで実現している。
この「連続」「侵入」「なりかわり(?)」という運動と「分断」は相いれない。どうやって、これを「ひとつ」にするか。「矛盾」ではなく「融合」させるか……。
書かれた順序とは違うかもしれないが、私はその「ヒント」のようなものを「蒟蒻のペチャブルル」シリーズ、不思議な音が出てくる詩に感じている。
ペチャブルルは鈴木の書いているように「衝撃(ペチャ)」と「振動(ブルル)」なのかもしれないが、そういう「意味(意識の連続)」であると同時に、意識を「分断」する純粋な「音」でもある。「無意味」でもある。無意味な音が意識の自己拡張を「分断」する。自己拡張を拒絶する。「音」そのもののなか、「分断」して、そのまま存在する何かがある。
--そう考えると、初期の「プアプア」は自己拡張(連続)なのか、逆に意識の「分断」なのか、わからなくなる。「音」は「分断」と「連続」の接点として存在する。「音」によって、鈴木は、「連続」でも「分断」でもない何かを感じ取っている。(--これは、時間がなくなったので、あした書くことにしよう。)
「音」の「無意味」、「意味」を「分断」するもののなかに、意味の不可能性のなかに、鈴木は「自己拡張」をしていこうとしている。
(また時間切れになってしまった。中途半端に急いで、感想にならないままに書いてしまったが。もう一回、感想を書くつもり。気分屋なので、書かないかもしれないけれど。)
きのう、最後に引用した部分、
わたしは自分の書斎で、
この詩を書いた。
二〇一一年八月十六日のこと。
もう一度書き直したのが、
一年以上経って、
二〇一二年十二月五日のこと。
二〇一二年十二月三十日にさらにまた書き直した。
そして更に二〇一三年一月と二月十七日にまた書き直した。
これには実はつづきがある。もう一行ある。
テレビの映像の記憶はかなり薄れてしまった。
きのうは、この行から「位置として、やわらかな風」に引き返し、意識の濃淡ということについて書こうかなと思った。「薄れてしまった」から「濃淡」が浮かび上がってきたのだった。しかし、時間切れになってしまった。私は目が悪いので40分以上はつづけて書かないことにしている。
で、きょう、つづきを書こうと思ったのだが、一日たつと気分もかわれば、論理(?)もかわってしまう。詩を読み返すと、きのうとは違ったことを考えてしまう。その、違うことを書くにする。(こういう前書きは、鈴木の「あとがき」のように、ふつうは省略するものだろうけれど、鈴木のことばの運動に私はそまってしまっているようなので、そのまま残しておく。)
この最後の一行の「報告」は、何度も書き直したという報告以上に、とても奇妙である。東日本大震災のときの津波をテレビで見て衝撃を受けて、そのことを詩に書いている。そして、詩を何度も書き直したあと「テレビの映像の記憶はかなり薄れてしまった。」と書く。
ふつう、書かないでしょ?
記憶が薄れてきた--がテーマなら、それは別の問題。どうやって、記憶を継承していくかという問題になっていく。
ところが、鈴木にとってはそれはそういう問題にならない。
「連続」はあくまで「個人的」なことがらである。鈴木の「肉体」に限定されることがらである。だから、これを「極私的」というのかもしれない。どんな「連続」も鈴木はだれかと「共有」しようとはしていない。あくまで鈴木自身に「連続」にこだわる。連続の「具合」にこだわる。連続のなかにある感覚の濃淡(?)にこだわる。「連続の具合(濃淡/あるいは遠近)」という「個人的な事情(感覚)」、他人との「共有」できない感覚(理論化できないもの/論理とは違うもの)にこだわるのである。「連続のなかにある感覚」こそが鈴木にとって「個性/固有のなにか」なのだ。
抽象的なことをいくら書いてもしようがないので……。「その日、飲みこまれたキャー」から、「連続の具合」についてふれた部分を引いてみる。
知らない人たちが、
言えも衣服も靴も茶碗もアルバムも、
なにもかも失った。
知っている人なら心が掻きむしられるが。
知らない人なので身に引き寄せてただ恐ろしさが増してくる。
私はこの数行に驚いた。「正直」に驚いた。
鈴木は、被災者の状況を見て「心が掻きむしられる」とは簡単には言わない。「流通言語」で語られる「悲しみ」に身を寄せない。それよりも「恐ろしさ」を引き受ける。「悲しみ」は淡く(遠く)、「恐ろしさ」は濃い(近い)ということになる。鈴木は「悲しんでいる人」に「悲しいでしょうね」と同情し、身を寄せる前に、「恐ろしい」と感じてしまう。それを「恐ろしさ」の共有と言えないこともないけれど、鈴木は恐ろしさを「共有」するというより、「恐ろしさ」を引き受けることで瞬間的に被災者を忘れる。被災者との「連続」を切り離してしまう。言いなおすと、被災者の感じている恐ろしさを引き受けたくない。まきこまれなくない。恐ろしさに直撃されて、自分の恐ろしさで手いっぱいになる。--それが恐ろしいということである。
恐ろしいから、逃げたい。そこにはいたくない。他人の恐ろしさを助けたいではなく、その恐ろしさにまきこまれたくない--ほんとうに恐ろしいときは、そういう自己防衛が働く。このとき「連続」ではなく、「分断」が働いている。
そのことに、鈴木は、直感的に感じている。
だから、
重たい。
この1行が大変である。一瞬、「恐ろしさ」が重力(引力)となって鈴木を引っ張る、そこに「連続(引力/外部からの強引な接続)」というようなことも考えるのだが……。
それよりも。
「自己拡張」を「目的」とする鈴木が、「連続」を欲望しながら、一方で「分断」を瞬間的に働かせる。--矛盾がある。その矛盾に私は突き動かされるのである。矛盾のなかに、とても大事なものがあると直感的に思うのである。
矛盾のなかには「思想(肉体)」がある。ことばになる前の、「実感」がある。つかみきれない、身に引き寄せながら、引き寄せきれない何か。
「連続(自己拡張)」ということばで私は鈴木の「肉体(思想)」を見てきたが、それは一方的な見方(視点)だったかもしれないと、ふいに気になったのである。
何が重たいのか。
なぜ重たいのか。
それを鈴木はどこかで別のことばで言い換えてはいないか。
この「分断」がもっている何か--それを、鈴木は「津波でんでこ」と結びつけている。大震災で多くのこどもたちが死んでしまった。
でも、でも、でも、
釜石の小学校では、
「津波でんでこ」を実行して、百八十四人の学童全員が生き延びたっていうことだ。
「釜石の奇跡」と放送された。
「津波でんでこ」、ひとりひとりが自分の身を守る。
そうなのか。
「絆」ということばと比較すると「ひとりひとり」がよくわかる。そこには「連続」がない。「分断」がある。「他者」と「自己」の「分断」。
ひとは「連続」という形だけでは「自己実現」ができない。ときには「分断」が必要なのである。--これは「連続」による「自己拡張」を「生きる」と結びつけている鈴木の「肉体(思想)」にとっては、大変な矛盾である。
たとえば「位置として、……」の「自己拡張」はみつめている女の体とつながること、鈴木が女の体になってしまうことで実現されている。女と「分断」されるのではなく、「連続」をさらに発展させ、相手の内部に侵入し、相手になりかわって動くことで実現している。
この「連続」「侵入」「なりかわり(?)」という運動と「分断」は相いれない。どうやって、これを「ひとつ」にするか。「矛盾」ではなく「融合」させるか……。
書かれた順序とは違うかもしれないが、私はその「ヒント」のようなものを「蒟蒻のペチャブルル」シリーズ、不思議な音が出てくる詩に感じている。
コンニャクが
わたしの手から滑って、
台所のリノリュームの床に落ちた、
蒟蒻のペチャブルル。
瞬間のごくごく小さい衝撃と振動。
ペチャブルル。
夕方のペチャブルル。
ペチャブルルは鈴木の書いているように「衝撃(ペチャ)」と「振動(ブルル)」なのかもしれないが、そういう「意味(意識の連続)」であると同時に、意識を「分断」する純粋な「音」でもある。「無意味」でもある。無意味な音が意識の自己拡張を「分断」する。自己拡張を拒絶する。「音」そのもののなか、「分断」して、そのまま存在する何かがある。
--そう考えると、初期の「プアプア」は自己拡張(連続)なのか、逆に意識の「分断」なのか、わからなくなる。「音」は「分断」と「連続」の接点として存在する。「音」によって、鈴木は、「連続」でも「分断」でもない何かを感じ取っている。(--これは、時間がなくなったので、あした書くことにしよう。)
「音」の「無意味」、「意味」を「分断」するもののなかに、意味の不可能性のなかに、鈴木は「自己拡張」をしていこうとしている。
(また時間切れになってしまった。中途半端に急いで、感想にならないままに書いてしまったが。もう一回、感想を書くつもり。気分屋なので、書かないかもしれないけれど。)
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