詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「こころ」再読(2)

2013-07-29 23:59:59 | 谷川俊太郎「こころ」再読
谷川俊太郎「こころ」再読(2)

 谷川俊太郎は、「意味」を固定しない。詩のなかに、違った「意味」というか、対立するもの、矛盾するものを用意している。

こころ3

朝 庭先にのそりと猫が入ってきた
ガラス戸越しに私を見ている
何を思っているのだろう
と思ったらにやりと猫が笑った
(ように思えた)

これ見よがしに伸びをして猫は去ったが
見えない何かがあとに残っている
それは猫のあだごころ?
それとも私のそらごころ?
空はおぼろに曇っている

猫がこれから行くところ
私がこれから行かねばならないところ
どちらも遠くではないはずだが
なぜか私は心もとない

 「こころ1」「こころ2」とはまったく調子が違う。
 ここには「耳年増」のことばがない。--言い換えると、すべてが谷川の「体験」に根ざしたことばのように見える。猫を見て、詩を思いついたのだ、という感じがとても強い。
 で、私が今回の詩で書こうとしている「意味の違い」(対比)も、

それは猫のあだごころ?
それとも私のそらごころ?

 という具合。
 そうか、谷川は真剣に考えたんだなあ。
 何を?
 その直前のことを。つまり、猫が去っていって、そのあとに「見えない何か」が残っている。見なないものって、なんだろう。「こころ」。
 そうかな?
 そうなのかもしれない。で、こころがどこかに残ったままだと「心もとない」ということが起きる。最後の行に書いてあることだね。
 この詩は「心もとない」ということはどういうことか--それを「定義」した詩なのかもしれない。そういう意味では「意味」の強い詩だ。

 ということよりも、私がほんとうに書きたかったのは。

それは猫のあだごころ?

 実は、私はこの行を「誤読」して、

それは猫のあごだろ?

 それは猫の「顎」だろう、と読んで、とってもおもしろいと思ったのだ。猫は伸びをしたのであって、あくびをしたのではないのだが、私は伸びとあくびをいっしょに考えているのだろう、その、あくびのときの広がった顎がまぼろしのようにそこに残っている。残像になっていると思い、あ、いいなあそういう残像をみたいなあ、と思ったのである。
 でも、違ったね。
 違ったのだけれど、その残像というものは、実は猫が残したものであっても、猫だけでは成立しない、その残像を受け止める「こころ」がないと成立しない。
 そう考えると、
 あれっ? 私と谷川はどこで交錯しているのだろう。


自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫)
谷川 俊太郎
岩波書店
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リー・ダニエルズ監督「ペーパーボーイ 真夏の引力」(★★★★)

2013-07-29 20:58:57 | 映画
監督 リー・ダニエルズ
出演 ザック・エフロン、ニコール・キッドマン、マシュー・マコノヒー、ジョン・キューザック


 まるで舞台劇のように濃密な作品である。
 舞台を思わせるのは、なによりもニコール・キッドマンの演技(化粧/衣装)である。みだらな印象を増幅するカツラをつけ、娼婦のような濃厚な化粧をする。細部を強調することで、観客の視線を細部に引きつける。観客の目の自由を許さない。目がぼんやりすることを許さない。南部の街の広い場所が舞台なのに、何かニコール・キッドマンが登場する狭い空間が舞台であるという印象を与える。事件は過去に起きているのに、それは問題ではなくニコール・キッドマンのいる「いま」だけが問題なのだという印象を与える。
 事件というかストーリーのキー空間に水が絡んでいるのも、舞台が「密室」であるという印象を呼び起こす。ザック・エフロンは水泳の選手だったという役どころなのだ水が重要なポイントになってくるのは必然なのだが、水のなかは(潜っていると)、たしかに密室なのだ。ある意味では誰も手が出せない、そしてある意味ではそのなかだけにいることはできない、やがてそこを出ないと死んでしまうという密室。
 で、映画に誘い込まれるにしたがって、ニコール・キッドマンだけにかぎらず、登場人物の全員が「密室」にいて(「密室」を内部に抱え込んでいて)、それが衝突して「いま/ここ」が動いていくということがわかる。「密室」はこじ開けられたり、誰かを誘い込んでとじこめたりするのだけれど。
 ストリーはある殺人事件の被告が、実は冤罪ではないのか、とういことを証明しようとして動くのだが、事件が抱え込んでいる「密室」をこじ開けようとして、それをこじ開けようとする別の人間の「密室」が開かれるという具合に展開する。マシュー・マコノヒーの「密室」が、「いま/ここ」を複雑にする。人間のほんとうの欲望など、どこにあるか、わからない。マシュー・マコノヒーしか知らさないことであるけれど、彼が冤罪を証明しようとするのは、実は、囚人をすくいだし、彼によって殺されたいという欲望があったからだとも思えてくるのである。「真実」はマシュー・マコノヒーのなかにしかない。それを象徴するように(暗示するように?)、彼は「何かを見落としている。事件は、ほんとうは違っている」とザック・エフロンにいうシーンが、「冤罪」が晴れたあとにある。そこは、ちょっと鳥肌がたつほど、こわい。あ、これから大事件が起きるのだとわかり、私は飛び上がりそうになった。
 ニコール・キッドマンは、ある意味では狂言回しで、彼女はいわば「密室」をわざと他人に見せて、ひとを誘い込む。人間には「密室」がある。見たいでしょ? という具合。それは、「同じ密室(ひとつの密室)でいいこと」をしない? という誘いでもある。
 で、そう思って映画を思い出すと。
 冒頭のシーン。雨の日のカーセックス。水の中の「密室」。「密室の中のいいこと」。それを見た人間が殺される--と、うーん、とってもよくできている。まるで小説みたいと思ったら、原作があるとか。小説の冒頭は同じかどうかわからないけれど……。




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西岡寿美子「会話」、粒来哲蔵「萱草」

2013-07-29 11:20:13 | 詩(雑誌・同人誌)
西岡寿美子「会話」、粒来哲蔵「萱草」(「二人」303 、2013年08月05日発行)

 西岡寿美子「会話」は、サギ草の球根を植えているとヤマガラがやってきて、その作業を見守っている--ということを描いている。それだけなのだけれど、それがとてもいい。どこが気に入ったののかなあ。自分のことなのに、よくわからない。

きみは
反復作業する動きが好きなのだね
それなら見ててご覧
一人と一羽の付き合いだ
それぞれの思惑
気にならない距離で
ともに時間を過ごすのも悪くない

 ここで、この「一羽」を人間と思うと、それはそれで「付き合い」の理想的なあり方を語っていることになるのかもしれないけれど、そういう「意味」にしたくない。でも、「付き合い」ということばが、妙に印象に残る。
 付き合いって、何?
 西岡は、人間でも、鳥でもなく、植えている球根との「付き合い」を描いている。

床(ベッド)に貝殻も敷いた
鹿沼、赤玉、腐葉の配合土も均し入れた
うららかな春陽を背に
詰めず開けず一球一球土に託し
水苔で覆うまでの気の長い作業だよ

 付き合いとは、ただいっしょにいることではないのだ。相手にとっていちばんいい「あんばい」をつくりだすことだ。西岡は、いま、ここで西岡がしていることを書いているだけだが、実は、そうではない。西岡がしていることは、西岡自身がこれまでもしてきたことであり、西岡以前のひともしてきたことである。その積み重ねが、作業を整える。その整えられたものを、整えられた順序でていねいに繰り返す。そのかわらない「ていねいさ」(気の長い作業)こそが「付き合い」というものだろう。
 「他人」とつきあう、「他人」にあわせる、というよりも、自分自身を整えていく。そういうことなのかもしれないなあ。

きみは三メートル 二メートル
一メートルと近づいてきて
頭を右に左に傾け傾け
何が気に入ったのか
私の指の動きを飽きもせず追う

 いや、私だって追ってみたくなるなあ。そこにはたしかな時間がある。どうしても必要な時間、必然性の時間というものがある。省けない。省いてはいけないものを省かない。それが美しいのだ。
 私は途中を省いて引用してしまったが、何も省かず、何もつけくわえず、淡々と四十分のことを書いている、そのことばが美しい。
 私は西岡のことばに余分なことばをつけくわえてしまった。
 感想を書くのはむずかしいね。
 余分なことを書かず、ただ感想を書いてみたいなあ。



 粒来哲蔵「萱草」にも、余分なことを書き加えてしまいそうだ。とくに、七月の参院選の自民党の圧勝、そしてこれからやってくる八月の「戦争」を思い出す日々のあいだにあって、この詩を読むと、余分なことがいいたくなる。

船べりから鰹を垂らしたまま蒼い海をのぞき込むと、鉢巻きをした八サが海中にいて、じっちゃ、無理すんでねえ、といった。そうだな、と源ザは応じた。源ザは八サのいた海に一本一本野萱草を投げ込んだ。忘れ草というじゃねえか、したが、何を忘れんだべと源ザは呟いて、後から後から花を投げ入れた。遠ざかる鰹の群れにたたき込むようにして野萱草の花は放られ、やがてどの花も源ザの見知らぬ海へと流れて行った。

 忘れられないものがある。忘れられないことがある。源ザにとって、それは八サということになるが、それを西岡のことばで言いなおすと、サギ草の球根を植える手順である。それを実際にするのは西岡であるが、その手順は西岡以前のひとの繰り返してきたことである。そこには、あるものを育てる(いっしょに生きる)という「こと」がある。
 源ザが忘れることのできないもの、それは八サと「いっしょ」に繰り返してきた「こと」である。その「時間」である。

北地-わが養いの乳
西岡 寿美子
西岡寿美子



蛾を吐く―詩集
粒来哲蔵
花神社
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