詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八木幹夫『青き返信』

2013-07-11 23:59:59 | 詩集
八木幹夫『青き返信』(砂子屋書房、2013年07月25日発行)

 八木幹夫『青き返信』は歌集である。私は困惑しながら読んだ。私はめったに歌集は読まないから見当違いの感想かもしれないが、どうも音が「短歌」ではない。

ハイヒール履いてよたよた細い足俺はやっぱり大根が好き

 巻頭の一種である。「意味」はわかるが、繰り返し口にしたいという「音」がない。

フライパン豚肉白菜塩少々炎あがれば中華一品

 その通りだろうけれど「中華一品」という「料理」というよりやっつけ仕事みたいなことばの捌き方に、あ、これは食べたくないなあ、と思ってしまう。「炎あがれば」の「あがれば」が傍観的で愛情がないなあ。料理って愛情だからね。

バカ間抜けすかたん鈍感あほんだら云えば素直に咲く南瓜かな

 うーん、悪口というのは音がおもしろくないと侮蔑になってしまう。それでは南瓜がかわいそう。私は短歌をつくらないので、テキトウな感想になってしまうが、この歌の場合「素直に咲く南瓜かな」という終わり方も、どうかなあ……。「南瓜咲く」と主語+動詞の形の方が、悪口を言われたことの反応としておもしろいのでは。倒置法で南瓜を強調すると、南瓜のもっている「咲く」という動詞の強さが消えてしまう。それが残念。
 どう言っていいのかわからないのだが、何か、短歌と違うなあという思いが残る。

おのおのが名を持つ草を残そうと云えり少年蟻殺す夏

 この歌はおもしろいと思う。「雑草と云えり」までのリズムも気持ちがいいが、そのあとの「少年蟻殺す夏」が情報量が多すぎて、何か違う感じがする。

あけび割れ森に秘めたる少年の獣臭きにおいを覚ゆ

 これも情報量が多すぎる。省略できることばがあるはずだ。省略して、音をもっと「日本語」に近づけると短歌になるのになあ、と思う。
 詩の長さが抱え込む情報量を短歌に濃縮するのではなく、きっと短歌は短歌のリズムで情報を捨て去って音を響かせるのだと思う。音を肉体に取り込むのだと思う。

水ひたす女医の手にわかに輝きぬ黒鞄より聴診器だす

 この歌など、とてもおもしろい情景を呼んでいるのだが「水ひたす」がじゃましている。鞄から聴診器をだすとき女医の手が突然輝く、だけでいいのでは? どうも「短歌」の長さが八木の「文体」になっていない感じがするのである。「短歌」にするには八木の陣感はストレートすぎる。うねりがない。そして、そのうねりの欠如した分を、別なことばで補おうとしている。つまり「余分」を書いてしまう--そういう印象が残る。

小便のちかき体を持て余しバケツを提げて旅せる茂吉

 この歌でも「持て余し」が「余分(余剰)」。「もてあます」かどうかは言わなくて、「体なれば」「体ゆえ」ば「批評」がない分、すっきりと茂吉が浮かび上がる。「持て余し」という「批評」に八木の個性がでていると言えば言えるかもしれないけれど、そういう「批評」を加えなくても、茂吉の姿をそう描くだけで「批評」になり、「余分」がないと「批評」は愛情にもなるのだけれどねえ……。

ビー玉のガラス透かして「星当て」に興じし友よ今どこにゐる

 これも「長い」。「今どこにゐる」の「ゐる」が余分だし、「今」以下そのものがいらないかもしれない。

性にふれる言葉ばかりを探しゐき盗み読みする兄の書棚に

 これも「探しゐき」はなくてもいいよね。ない方が「盗み読み」の感じがする。「盗む」は「探す」を含んでいるからね。その分、もっとていねいにみつめるところがあるはずなのだと思う。ていねいにみつめて、そこでことばをうねらせると短歌になるのになあ、と思う。

 と思っていると。
 「壱岐--入沢康夫に」という歌くらいから「調子」が変わってくる。「短歌」の響きになってくる。上手になった?

汝が出雲汝が鎮魂の旅なりやパイプ燻らせ院の墓所へと

 「パイプ燻らせ」が「余分」ではなく「起承転結」の「転」のようにうねっている。そして「墓所へと」と「行く」(向かう)という動詞を省略することで、八木の肉体と読者(私、谷内)の肉体が重なるのを感じる。八木が行くのだけれど、私の肉体もいっしょに動く。そしてその動きには入沢も重なる。
あ、これだね。これが短歌というものだねと思った。

外つ国の言葉も知らぬ妻セツの語りし怪談そを聞くヘルン

 この歌にはセツ、ヘルンという二人が出てくるけれど「外国語を知らぬ」という動詞が、読者を引き込む。「わかる」と「わからない」のあいまいな世界へ、八木はどっちの立場で入って行ったのか。ね、誘われるでしょ?

ほれ鴎 よく似てるっしょ 鴎島指さす子らの訛り清しき

 「清しき」は「批評」かもしれないけれど、茂吉を読んだ「持て余し」に比べると、余計なお節介、という感じがない。お節介ではない批評を、きっと「感動」と呼ぶのだと思う。「清しき」には感動が凝縮しているのだ。

 あ、書きそびれた。

霧吹きて布目ととのうアイロンの舟行く楽し水はじくとき

 これは八木の感想なのか、八木の父がそのまま言っていたことなのかわからないけれど(父の言ったことを覚えていて書いたのだと思うが)、これは美しいなあ。ここには実際にアイロンをかける肉体が直接みる「世界」がある。アイロンをかけたくなるでしょ?

カシミヤもアルパカもみな外国の地名動物しめす生地の名

 これも「生地」という具体的な暮らしのことばによって美しく輝く。お父さんが好きだったんだなあ、ということがよくわかる。

 それやこれやで、複雑な感じ。気に入ったところだけ書けばよかったのかもしれないけれど。

八木幹夫詩集 (現代詩文庫)
八木 幹夫
思潮社
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ポール・アンドリュー・ウィリアムズ監督「アンコール!!」(★★★)

2013-07-11 09:41:14 | 映画
監督 ポール・アンドリュー・ウィリアムズ
出演 テレンス・スタンプ、バネッサ・レッドグレーブ、バネッサ・レッドグレーブ

 お年寄りの音楽映画(合唱映画)といえば、「ヤング@ハート」がおもしろかった。純粋に音楽を楽しんでいる感じがとてもいい。(「カルテット」は上品すぎて、余り楽しくなかった。だいたい「本番」がないのが、とてもつまらない。)「アンコール!!」は素人が歌うという点で「ヤング@ハート」の方に近いのだが、音楽の楽しみと同時に夫婦の愛を描いていて、なかなかせつない。
 テレンス・スタンプは吹き替えではなくて実際に歌っているのだと思うが(私は目が悪いのでクレジットでは確認できなかった)、ごつごつした感じがとてもよかった。死んだ妻に聞かせる、死んだ妻に届ける--という思いが、くっきりと浮かび上がる。
 で、音痴の私は歌の批評はやめておいて、テレンス・スタンプの手の演技について書いておきたい。これが、泣かせるのである。
 バネッサ・レッドグレーブが病気で倒れる。病院に入院する。ベッドに付き添って手を握る。このとき、二人の手(左手)がとても遠い。テレンス・スタンプはベッドから離れたところに椅子を置き、そこで座って、手だけ伸ばして(伸ばせるだけ伸ばして)、バネッサの手に触れる。近づいて手を握ればいいのに、そうしない。
 家に帰って、ひとりのベッド。そっと左手を伸ばす。そこには妻はいない。そのときの手の伸ばし方。ほんとうに少しだけしか伸ばさないのだが、それは、それ以上伸ばせば妻がいないということを左手で知ってしまうのがこわくてそうしているのである。
 妻が退院してきてから、ふたりで昔のようにならんで寝る。そのとき左手がバネッサの肩を引き寄せる。伸ばして、引き寄せる。そこに愛があふれている。
 そして死んでしまったあと、テレンス・スタンプはベッドでは眠れない。ソファで寝ている。左手がベッドの空白を感じ取るのがこわいのだ。
 この、左手の演技が、私はとても気に入った。頑固で、冷たい感じのしかめっ面しか見せないのだが、左手が、いつも愛を語っている。
 病院で遠くから手を伸ばしているのは、テレンス・スタンプの「恥ずかしさ」のあらわれである。ひとの見ている場所で(ドアが開かれ、そこから撮影されていた)、愛を「見せる」(愛を見られる)ことが苦手なのである。その「苦手」をテレンス・スタンプは歌うことで克服していくというのがこの映画のストーリーなのだ。
 バネッサが死んだあと、手は、動きようがない。動かしようがない。せいぜい、孫娘にお菓子を渡すくらいである。で、手の代わりに歌が主役になってストーリーが展開するのだが……。
 ひとつ、不満。
 予告編では、テレンス・スタンプがソロを歌うシーンで歌いだしにつまったとき、観客席から孫娘が「カモーン・グランパ(おじいちゃん、がんばれ)」と声をかける。そのあと、ステージのテレンス・スタンプが背中で手を握り締める。左手が右手か、はっきりおぼえていないが……、それまでの演技から想像すると左手だろう。左手で、バネッサの手を握りしめて、「歌うから、支えてくれ」とでもいうように動くのである。そして歌いだす(予告編では歌いだすシーンはないが……)。
 その左手の演技が本編ではない。「割愛」というより、これは編集者がテレンス・スタンプの演技を見落としているのである。その結果、ストーリーが歌に収斂してしまう。まあ、そのため感動しやすくはなっているのだが。
 しかし、これは、非常に残念である。歌とストーリーだけを重ね合わせるなら、テレンス・スタンプとバネッサ・レッドグレープでなくてもいいだろう。せっかく役者を登場させているのだから、役者の肉体をもっとていねいに編集して、演技を生かしてもらいたい。もし別バージョンをつくる機会があるなら、ぜひ、その左手のシーンを復活してもらいたい。そのシーンがあるなら、私はこの映画に★を5個つける。歌(その歌詞)だけで映画が成り立っているわけではない。
                         (2013年07月10日、天神東宝5)


ポール・ニューマンの脱走大作戦 [VHS]
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