坂多瑩子「名前」(「孔雀船」82、2013年07月15日発行)
坂多瑩子「名前」はある日の会話を描いている。
こいうことは日常ではよくあることかもしれない。でも、おもしろいなあ。とくに「ねりの死ぬとこまでしゃべっていない」がいいなあ。これで、ネコが死んだということがわかり、死んでいるからこそ「ほら名前なんていった?」という会話もはじまる。生きていたら、名前を呼ぶからね。
で、この会話で、ネコが死んでからある時間が過ぎていることもわかる。
聞いた「相棒」は名前を思い出したかっただけなのかもしれないが、坂多はもっともっといろいろなことをついでに話したい。名前を口にしたら、名前を呼んだときのことがひとつひとつ思い出されてくるから。
でも、ほんとうにしゃべりたいことは、ネコが死ぬまでではないね。
変わった名前だねえ。由来は?
あ、「ねり」はほんとうは坂多の名前になるべき名前だった? 父が「ねり」とつけた。祖父は「そんな名前はだめだ、瑩子だ」と言い争っている。「郵便が遅れた」の部分はわからないのだが、祖父はさっさと役場へ行って「瑩子」と名前をつけてきてしまった。そのため「父のつけた名前/ねり」は坂多の記憶のなかでしか残っていない。「へやの奥でねむっている」。
それを思い出して、坂多はネコに名前を与えたのだ。それは、ほんとうは坂多だったのだ。
なるほどなあ。「明治生まれのばあさんみたい」なのは、顔だけではなく、名前がそうなんだねえ。名前は顔をあらわす。坂多のかわりに、拾ってきたネコが明治生まれのばあさんを引き受けてくれたのだ。
いやあ、これでは、話したいことが山ほどあるよね。
ネコにかこつけて(?)、自分の生い立ちを話したい。聞いてもらいたい。でも、そういうことって、なかなか聞いてもらえない。「相棒」は、何度か聞かされているかもしれないし。何度、聞いたっていいじゃない。ほんとうのことなんだから。ほんとうのことを繰り返し繰り返し話して、話すことでさらにほんとうになるのだし。
というのは変かもしれないけれど、きっとそうなのだと思う。
坂多自身、きっと何度も何度も聞いたのだ。父から、おまえのほんとうの名前は「ねり」だ。それをおじいちゃんが勝手に「瑩子」にしてしまった。
もしかすると坂多の母は出産のために実家(おじいちゃんの家)に帰っていて、生まれたと父に知らせたけれど、なかなか命名して来ない。おじいちゃんはじれったがって、かってに役所へ行って名前を届け出た。そのあとに郵便で父のつけた名前「ねえ」が届いた。無視したんじゃない、郵便のせいなんだ。少し遅れたって郵便を待てばいいじゃないか。そんなやりとりがあったのかな? そんなやりとりがあったと坂多は聞かされたんだろうなあ。(「郵便が遅れた」がよくわからないので、私は勝手に「捏造」するのだ。)
お父さんは「聞き手がいなく」なっても、そういう話をしたんだろうなあ。
そんなことを勝手に想像しながら、どんな名前にもそれぞれに「秘密」があるなあ、と愉快な気持ちになる。秘密というのは、まあ、独自の愛情なんだけれどね。坂多はネコに「ねり」という名前をつけることで、父の愛情にこたえているんだね。父は、たぶん、ねりと同じようにもう他界しているのかもしれない。
坂多瑩子「名前」はある日の会話を描いている。
うちで飼ってた三毛のほら名前なんていった?
相棒が聞くから
ねり
草はらでみゃーみゃー鳴いてて
あんたが顎のとこふんずけちゃったから
歯がむきだしになったから
明治生まれのばあさんみたいなネコでさ
気がつくと聞き手はいなくなり
なんかてもちぶさたで
それでもまだ
ねりの死ぬとこまでしゃべっていない
かわりに隣りのおばあちゃんがまじめに聞いてくれる
こいうことは日常ではよくあることかもしれない。でも、おもしろいなあ。とくに「ねりの死ぬとこまでしゃべっていない」がいいなあ。これで、ネコが死んだということがわかり、死んでいるからこそ「ほら名前なんていった?」という会話もはじまる。生きていたら、名前を呼ぶからね。
で、この会話で、ネコが死んでからある時間が過ぎていることもわかる。
聞いた「相棒」は名前を思い出したかっただけなのかもしれないが、坂多はもっともっといろいろなことをついでに話したい。名前を口にしたら、名前を呼んだときのことがひとつひとつ思い出されてくるから。
でも、ほんとうにしゃべりたいことは、ネコが死ぬまでではないね。
変わった名前だねえ。由来は?
考えて考えてかんがえて名前をつける人もいるけど
ねりは拾ってきた名前
私のは
違うけど
父と祖父が言い争っている
郵便が遅れたからって
せっかちな祖父はさっさと役場に行ってしまった
父のつけた名前が
私のへやの奥でねむっている
そろそろ起きないかなあ
ある朝
ねりの生い立ちをしゃべってみた
あ、「ねり」はほんとうは坂多の名前になるべき名前だった? 父が「ねり」とつけた。祖父は「そんな名前はだめだ、瑩子だ」と言い争っている。「郵便が遅れた」の部分はわからないのだが、祖父はさっさと役場へ行って「瑩子」と名前をつけてきてしまった。そのため「父のつけた名前/ねり」は坂多の記憶のなかでしか残っていない。「へやの奥でねむっている」。
それを思い出して、坂多はネコに名前を与えたのだ。それは、ほんとうは坂多だったのだ。
なるほどなあ。「明治生まれのばあさんみたい」なのは、顔だけではなく、名前がそうなんだねえ。名前は顔をあらわす。坂多のかわりに、拾ってきたネコが明治生まれのばあさんを引き受けてくれたのだ。
いやあ、これでは、話したいことが山ほどあるよね。
ネコにかこつけて(?)、自分の生い立ちを話したい。聞いてもらいたい。でも、そういうことって、なかなか聞いてもらえない。「相棒」は、何度か聞かされているかもしれないし。何度、聞いたっていいじゃない。ほんとうのことなんだから。ほんとうのことを繰り返し繰り返し話して、話すことでさらにほんとうになるのだし。
というのは変かもしれないけれど、きっとそうなのだと思う。
坂多自身、きっと何度も何度も聞いたのだ。父から、おまえのほんとうの名前は「ねり」だ。それをおじいちゃんが勝手に「瑩子」にしてしまった。
もしかすると坂多の母は出産のために実家(おじいちゃんの家)に帰っていて、生まれたと父に知らせたけれど、なかなか命名して来ない。おじいちゃんはじれったがって、かってに役所へ行って名前を届け出た。そのあとに郵便で父のつけた名前「ねえ」が届いた。無視したんじゃない、郵便のせいなんだ。少し遅れたって郵便を待てばいいじゃないか。そんなやりとりがあったのかな? そんなやりとりがあったと坂多は聞かされたんだろうなあ。(「郵便が遅れた」がよくわからないので、私は勝手に「捏造」するのだ。)
お父さんは「聞き手がいなく」なっても、そういう話をしたんだろうなあ。
そんなことを勝手に想像しながら、どんな名前にもそれぞれに「秘密」があるなあ、と愉快な気持ちになる。秘密というのは、まあ、独自の愛情なんだけれどね。坂多はネコに「ねり」という名前をつけることで、父の愛情にこたえているんだね。父は、たぶん、ねりと同じようにもう他界しているのかもしれない。
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