詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日原正彦『冬青空』

2013-10-01 08:58:18 | 詩集
日原正彦『冬青空』(ふたば工房、2013年10月01日発行)

 日原正彦の詩は、私が十代だったころから知っている。ある部分は好きだが、ある部分は嫌いである。その「嫌い」の理由が長い間わからなかったが、今回、少しわかったことがある。
 「わかる」という詩から。(まるで、冗談みたいな話になってしまうが……。)

大きな樹を見あげて
子どもが 白い手をひらひらと遊ばせながら
母親に何か言っている

遠くて聞きとれないが

わかってしまう
全身で

ここの真上にひろがっている空と
あの樹の上方から
あの子の目のなかに青くうちよせている空は
おんなじ空だから

母親が子どもに
何か答えている
口が ふるえる雫のよう光っている

それも聞きとれないが

わかる
気持で

 私には「わかってしまう/全身で」ととても納得できる。ところが「わかる/気持で」になるとぎょっとしてしまう。突然、いやあな気分になる。「気持」が「気持ち悪い」のである。私は何かを「気持ち」でわかってほしいとは望まない人間なのかもしれない。逆に言うと、何かを「わかる」ときには「気持ち」では「わからない」人間なのかもしれない。「気持ち」で何かを理解したいととは思わないと言いなおせばいいだろうか。
 では何だわかるのか。「全身で」。私のことばで言いなおせば「肉体で」。
 遠くで子どもが母親に何か言っている。その声は聞こえない。けれど、その子どもの「肉体」の喜びは「白い手をひらひらと遊ばせながら」で「わかる」。そして、そういうとき母親が「うれしい」ということも何となく「わかる」。それは、たぶん私の肉体が、そういうことを「おぼえている」からである。いつ、どこで、とは言えないし、それがほんとうに自分の「肉体」で直接体験したことかどうかもはっきりしないけれど、ふいに何かに気がついて母親に言わずにはいられなかったときの肉体のなかにある動き、それを私の「肉体」はおぼえている。その「肉体」が子どもの「肉体」と重なる。「白い手をひらひらと遊ばせながら」子どもが何かを母親に言うとき(それを見るとき)、私は私ではなく、「子ども」になっている。だから、「わかる」のだ。母親が答えていることが「わかる」のだ。ことばの「意味」ではなく、母親が子どもに答えるときの「肉体」のなかの動きが、「肉体」としてわかるのである。母親は子どもを受け止めている。子どもは母親に受け止められている。その、二人の「肉体」の関係がわかるのである。ことばはいらない。だから、ことばは聞こえなくてもいい。
 ここには母と子の、「永遠」がある。「永遠」だから、誰にでも「肉体」でわかる。

 でも、そのあとは、少しずつ気持ちが悪くなる。「肉体」が消えるからである。
 「ここの真上にひろがっている空と/あの樹の上方から/あの子の目のなかに青くうちよせている空は/おんなじ空だから」のなかには「肉体」がない。かわりに「ことば」がある。「論理」がある。「ここ(私)」の上にある空と、木の上、あの子の上にある空をことばでつないで「同じ」と断定している。「あの子の目のなか」と「肉体」は出てくるが、その「肉体」は「白い手をひらひらと遊ばせながら」のような「肉体」を動かすときの「肉体」ではない。外からはわからない「肉体」。外からわからないものを、日原はことばで補いながら「わかる」ようにしている。

わかる
気持で

 ではなく、「ことばで」ということになる。「論理で」ということになる。「論理」を「想像力」に置き換えると、すこし「気持ち」に近づいていく錯覚に陥るが、やっぱり違うと思う。
 日原は「気持ち(感情)」でわかるのではなく、「論理(頭)」でわかるのだと思う。この「わかる」は別のことばで言えば「知っている」になるかもしれない。
 「雨と傘」に「知っている」は出てくる。

雨のなかを
傘をさして歩いてゆく人の背を
見ている

その人の傘の 円
その人の 今が ひろがっていって
それにぼくは包まれているのだが
その人はそれを知らない

いや 知っている
知っているのだろうか
あるいは 背で

 これだけでは「知っている」が何かよくわからないかもしれないが。そのつづきを読むと、「知っている」とは何かがわかる。

ぼくの傘の 円
ぼくの今も ひろがっていって
その縁に その人の背をはりつけている

ぼくはそれを知っている
いや 何を知っているというのだ
背を?

確かなことはひとつだけ

ぼくの今とその人の今は
好むと好まざるとに関わらずひろがっていって
好むと好まざるとに関わらず
どこかで重なっているということ
雨がそれら全てをまんべんなくぬらしているということ

 「確かなこと」と書いているが、それは「確か」かどうかはだれがきめたのだろう。日原は、その「証明」を「ことば(論理)」で展開できるから「確か」といっているにすぎない。そこにあるのは「頭」がつくりあげた「論理」である。
 あることがらを「ことばの論理(頭の論理)」で証明できたとき、それを日原は「知っている(知識)」と定義する。そして、この「知っている」で「わかる」を飲み込んでしまう。「知っている」といえたときが、日原にとって「わかる」ということなのである。それは、だから「頭」で「わかる」ということなのだ。この瞬間「肉体」が欠落する。日原は「肉体」を感情に、感情を精神(頭)に昇華したというかもしれないが、この肉体→感情→精神→頭(頭脳)という運動が、私は嫌いだ。

 もう一篇、ほかの詩も取り上げてみようか。「枝と空」。

ある日 枝が
空をあきらめる

うれしそうに とも かなしそうに とも言えるし
どちらでもない とも言える

 キーワードは「言える」である。「言える」ことは「たしかなこと」。「たしかなこと」にするために日原は言う。ことばを書く。「わかる」を「知っている」に変えるために、書く。
 でもねえ。
 知らなくても(ことばにできないくても)、「わかる」ということはあるのだ。


詩集 夏の森を抜けて 日原正彦
日原正彦
ふたば工房
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