三井葉子『秋の湯』(青娥書房、2013年09月30日発行)
三井葉子の詩には不思議なやわらかさがある。そのやわらかさを私はどう表現していいのかわからずに困っている。男の持たないやわらかさである。男が自分の「肉体」のなかに探そうにもみつからないやわらかさである。--そんなことはない、男も女も人間なのだからどこかでつながっている、と言われそうだけれど。
こうなったら(?)、私が語るのではなく三井に説明してもらうしかない。
そうか、目が通る--目で対象を貫く(射抜く)というのは、対象を「似る」のに似ているのか。たしかに火のとおった豆はやわらかく、もう二度と硬くはならない。たとえ冷えても。そんなふうに、女は対象を見つめて、ほれて(火を通すことだね、「ほれる」の「ほ」は「炎」だ)、一度やわらかくしてしまったら、いつでもずぶずぶとそのなかに「肉体」が入っていく。
セックスのとき、男が女を貫くというのは「外形」に頼ったマッチョ思想。女が貫いている。女が男のペニスのなかを覆って、男を内部からやわらかくする。女が男の肉体の内部に入り込む方法は、豆を煮るのと同じで、すっぽり熱で包み込む。じんわり、そこから、どうやって侵入しているかわからない感じで、じわじわと包み込む。そして最後に硬さを奪ってしまう。
男はマッチョだから、こういうことがわからない。何もわからず「目に見える形」だけに頼って女を貫いているつもりでいる。男は女を何人貫いたと自慢するけれど、うーん、女はそんなばかなことをしない。目で熱くさせる。目で火をとおす。実際にセックスしようがしまいが、そんなことは別問題。目で、男の体に火を通す。男はばかだから、燃え上がった硬くなりかけたものを、目の女ではなく、ほかの女と交わることでごまかす。そのとき、男はほんとうはいまそこにいる女ではなく、あの目の女とまじわっている。わじまらされている。目の女に肉体の全部を煮込まれている--ということに気づかない。
目で火を通した女は、次の日(別の日)、男を見て、「あら、やわらかくなったわね」とひとりで笑っているに違いない。もう一度火を通されると、男は完全に煮崩れてしまうなあ。
あ、そんなこと書いていない?
そんな淫らな、そんな不潔なことを書いていない?
そうかな?
「花の続き」という作品。
「目で貫く」「火を通す」ことが「不潔」かと言われると、答えるのがかなりむずかしいのだが、「不潔」なのだ。
いや、間違えた。「目で貫かれたもの」「火を通されたもの」は「不潔」なのだ。そうして「不潔」になってしまったものが、自分のせいじゃない、というために「不潔」ということばを発しているだけなのだ。
という言い方は、正しくないなあ。
何かが間違っているのだけれど、私のことばでは、追いきれない。
次のことばが、別なものを照らしだしてくれる。
「不潔」の反対は「潔い」。「清潔」ではない。
「不潔」とは「潔くない」ことであり、その「潔くない」ことを認めないと、いっそう「不潔」になる。怒りを買うということが起きる。
でも、潔くなくって何が悪いのだろう。
こういう飛躍(これから書く飛躍)は、ちょっと変かもしれないけれど。
たとえば、硬い食べ物(豆)を煮て食べるというのは「潔い」か「潔くない」か。私の考えでは「潔くない」。硬くてもがりがりかじって、かみ砕いて食べればいい。潔く、男っぽいだろ? 煮て食べるなんて、そんな手間隙かけて、やってられるか。ほら、リンゴは硬くてもにないで齧るだろう。食べるだろう。火を通して食べるやり方もあるが。
ああ、でも、そのままでは食べにくいものを、火をかけて(手をかけて)、やわらかくして食べる--そのときの至福。やわらかいって、おいしい。崩れるって、なんともいえない快感。
煮崩れ。煮凝り。--そこにある、一種の「不潔さ」。そして、その「不潔」がおいしい。煮崩れたリンゴからあふれる甘さもうまいものである。
あ、こういうことを「不潔」とは言わない?
まあ、そうなんだけれど、三井の書いている「不潔」はそういうふうにも読むことができるなあ。
何かを守り抜くのではない。何かをなし崩しにして、かわりに自分の「いのち」を守り抜く。(崩れても存在するものを味わう。)「意志」を守り抜くよりも「いのち」を守り抜く。硬いまま食べるのではなく、硬くて食べれないものならやわらかくして食べる。ひとがなんと言おうが、それで「いのち」をつないでいく。
この「不潔さ」のなかに、「肉体の弱さ(硬いものをかみ砕けない歯の弱さ)」のなかに、「潔い」とは別の力がある。生きているもの、生き延びようとするものは、みんな「不潔」であることによって、生きる。
「火」と「不潔」は、でも反対の概念だろうか。火を通すことで消毒するという方法がある。「火」は「清潔」である。--まあ、そういう見方もあるのだけれど、そうして、それが一般的ではあるのだけれど。
その「一般的」からすこしずれて、「一般」になりきれない何かを書いていくのが詩なのだから、「流通概念」は忘れよう。
「火」と「不潔」によって、三井は「いのち」と「やさしさ」(柔軟さ)を「肉体」に抱え込む。「やさしさ」は「やわらかさ」でもある。そして、それはつかみとろうとすれば、ぐにゅぅっと形を変えて指のあいだをくぐりぬけていく。こぼれおちていく。手には何かべたべたしたものが残る。その残ったものを、
水で洗い流して、さらにタオルで拭き取るか、
あるいは指をしゃぶって舐め取るか。
汚く見えるかもしれないが(不潔に見えるかもしれないが)、しゃぶってみてはじめてわかる「味」がある。三井のことばの味は、そういう味である。経験しないとわからない味である。
私の書いていることは、ごちゃごちゃのごった煮で、しかも素材が崩れてしまっていて、何がなんだかわからないかもしれないけれど、三井の「レシピ」にしたがって男が料理するとそうなってしまうのだ。
だからほんとうは「料理」(食べやすいように加工する--読みやすいように注釈する、解説する)というようなことはやめて、ただ、そこにあることばを食べればいいのかもしれない。きっと、そうなのだ。
何も加えずに、一篇、詩を引用しよう。「猫」。
猫の形でのこっている体温を掬いに行きたくなる。猫が大嫌いで、猫がこわくてしようがない私でも。
三井葉子の詩には不思議なやわらかさがある。そのやわらかさを私はどう表現していいのかわからずに困っている。男の持たないやわらかさである。男が自分の「肉体」のなかに探そうにもみつからないやわらかさである。--そんなことはない、男も女も人間なのだからどこかでつながっている、と言われそうだけれど。
こうなったら(?)、私が語るのではなく三井に説明してもらうしかない。
目が通るのは火が通るのに似て いちど目が
通るとそこは格別 やわらかいのでした。
(「鍋の豆」)
そうか、目が通る--目で対象を貫く(射抜く)というのは、対象を「似る」のに似ているのか。たしかに火のとおった豆はやわらかく、もう二度と硬くはならない。たとえ冷えても。そんなふうに、女は対象を見つめて、ほれて(火を通すことだね、「ほれる」の「ほ」は「炎」だ)、一度やわらかくしてしまったら、いつでもずぶずぶとそのなかに「肉体」が入っていく。
セックスのとき、男が女を貫くというのは「外形」に頼ったマッチョ思想。女が貫いている。女が男のペニスのなかを覆って、男を内部からやわらかくする。女が男の肉体の内部に入り込む方法は、豆を煮るのと同じで、すっぽり熱で包み込む。じんわり、そこから、どうやって侵入しているかわからない感じで、じわじわと包み込む。そして最後に硬さを奪ってしまう。
男はマッチョだから、こういうことがわからない。何もわからず「目に見える形」だけに頼って女を貫いているつもりでいる。男は女を何人貫いたと自慢するけれど、うーん、女はそんなばかなことをしない。目で熱くさせる。目で火をとおす。実際にセックスしようがしまいが、そんなことは別問題。目で、男の体に火を通す。男はばかだから、燃え上がった硬くなりかけたものを、目の女ではなく、ほかの女と交わることでごまかす。そのとき、男はほんとうはいまそこにいる女ではなく、あの目の女とまじわっている。わじまらされている。目の女に肉体の全部を煮込まれている--ということに気づかない。
目で火を通した女は、次の日(別の日)、男を見て、「あら、やわらかくなったわね」とひとりで笑っているに違いない。もう一度火を通されると、男は完全に煮崩れてしまうなあ。
あ、そんなこと書いていない?
そんな淫らな、そんな不潔なことを書いていない?
そうかな?
「花の続き」という作品。
昨夜、あなたがわたしのことを不潔だと言
われたのでわたしはじぶんのことがふうっと
分かる気がしました。わたしは不潔、をよい
ことだとは思っていませんが。不潔はただ不
潔だというだけのことで。それはことばだけ
のことで。そんなことばも在る、というだけ
の--という意味です。
「目で貫く」「火を通す」ことが「不潔」かと言われると、答えるのがかなりむずかしいのだが、「不潔」なのだ。
いや、間違えた。「目で貫かれたもの」「火を通されたもの」は「不潔」なのだ。そうして「不潔」になってしまったものが、自分のせいじゃない、というために「不潔」ということばを発しているだけなのだ。
という言い方は、正しくないなあ。
何かが間違っているのだけれど、私のことばでは、追いきれない。
次のことばが、別なものを照らしだしてくれる。
潔くするということは自分の意志をいう。
「不潔」の反対は「潔い」。「清潔」ではない。
「不潔」とは「潔くない」ことであり、その「潔くない」ことを認めないと、いっそう「不潔」になる。怒りを買うということが起きる。
でも、潔くなくって何が悪いのだろう。
こういう飛躍(これから書く飛躍)は、ちょっと変かもしれないけれど。
たとえば、硬い食べ物(豆)を煮て食べるというのは「潔い」か「潔くない」か。私の考えでは「潔くない」。硬くてもがりがりかじって、かみ砕いて食べればいい。潔く、男っぽいだろ? 煮て食べるなんて、そんな手間隙かけて、やってられるか。ほら、リンゴは硬くてもにないで齧るだろう。食べるだろう。火を通して食べるやり方もあるが。
ああ、でも、そのままでは食べにくいものを、火をかけて(手をかけて)、やわらかくして食べる--そのときの至福。やわらかいって、おいしい。崩れるって、なんともいえない快感。
煮崩れ。煮凝り。--そこにある、一種の「不潔さ」。そして、その「不潔」がおいしい。煮崩れたリンゴからあふれる甘さもうまいものである。
あ、こういうことを「不潔」とは言わない?
まあ、そうなんだけれど、三井の書いている「不潔」はそういうふうにも読むことができるなあ。
何かを守り抜くのではない。何かをなし崩しにして、かわりに自分の「いのち」を守り抜く。(崩れても存在するものを味わう。)「意志」を守り抜くよりも「いのち」を守り抜く。硬いまま食べるのではなく、硬くて食べれないものならやわらかくして食べる。ひとがなんと言おうが、それで「いのち」をつないでいく。
この「不潔さ」のなかに、「肉体の弱さ(硬いものをかみ砕けない歯の弱さ)」のなかに、「潔い」とは別の力がある。生きているもの、生き延びようとするものは、みんな「不潔」であることによって、生きる。
「火」と「不潔」は、でも反対の概念だろうか。火を通すことで消毒するという方法がある。「火」は「清潔」である。--まあ、そういう見方もあるのだけれど、そうして、それが一般的ではあるのだけれど。
その「一般的」からすこしずれて、「一般」になりきれない何かを書いていくのが詩なのだから、「流通概念」は忘れよう。
「火」と「不潔」によって、三井は「いのち」と「やさしさ」(柔軟さ)を「肉体」に抱え込む。「やさしさ」は「やわらかさ」でもある。そして、それはつかみとろうとすれば、ぐにゅぅっと形を変えて指のあいだをくぐりぬけていく。こぼれおちていく。手には何かべたべたしたものが残る。その残ったものを、
水で洗い流して、さらにタオルで拭き取るか、
あるいは指をしゃぶって舐め取るか。
汚く見えるかもしれないが(不潔に見えるかもしれないが)、しゃぶってみてはじめてわかる「味」がある。三井のことばの味は、そういう味である。経験しないとわからない味である。
私の書いていることは、ごちゃごちゃのごった煮で、しかも素材が崩れてしまっていて、何がなんだかわからないかもしれないけれど、三井の「レシピ」にしたがって男が料理するとそうなってしまうのだ。
だからほんとうは「料理」(食べやすいように加工する--読みやすいように注釈する、解説する)というようなことはやめて、ただ、そこにあることばを食べればいいのかもしれない。きっと、そうなのだ。
何も加えずに、一篇、詩を引用しよう。「猫」。
日だまりで猫が目をつぶっている
いい気持?
と
聞くと
ううん という
日の光で光っている
幸福? と聞くとうるさいなアと立ち上って
行ってしまう
猫の体温が猫のかたちで残っている
さよなら というのもさびしいので
てのひらで
掬う。
猫の形でのこっている体温を掬いに行きたくなる。猫が大嫌いで、猫がこわくてしようがない私でも。
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